本書の至極安易な紹介



1.ことの始まり

 2002年の秋にDVDプレイヤーを初めて購入。我が家のインターネット・マニアである我が娘の希望によりジブリの製品を購入することになった。『千と千尋の神隠し』がおまけに付いてきた。実はジブリの作品を真面目に見たのはこれが最初です。ホントです。結局、入手可能なジブリ作品をみんな購入して熱中して見たのはこの私で、要するにすっかりはまってしまったわけです。『耳をすませば』もその中に一枚でした。
 『耳をすませば』にはリコーダーやガンバが登場するので、元々古楽器の類は聴くのも吹くのも好きな私には大いに楽しめる作品でした。ついつい暇を見つけては見てばかりいたのですが、そのうち、いろいろと不審な点に気が付いてきました。
 BGMに楽器象徴が多用されていることには早くから気が付いていました。「セッション」を見れば、聖司=ヴァイオリンは明白ですから「カノン」に出てくるリコーダーが雫であることも場面と対応させれば簡単に判ります。疑問が生じたのは「エルフの女王」の方。フィグーラを使っていることや雫=コルネットもすぐ判ったのですが、この曲が『西老人の夢の場面に使われている』のが判らない。雫も聖司も出てこず、西老人とルイーゼのみの場面に何故この曲が出てこなければならないのか?
 結末で二人が婚約するわけですが、賛否はともかく中学生がそういう約束をしてもさして現実離れしているとは思いません。源氏物語では紫の上は確か12、3歳で光と結ばれているはずです。現代でもインドなら結婚適齢期です。日本も常識からは多少ずれているかもしれないけれど世界に目を向ければ大したことはない。疑問に思ったのはその必然性がどこにあるか、です。現実的な物語である限り、展開は自然であることが要求される。直感に過ぎませんがこの結末にはいささか無理があるのではないか?そう考え出すと雫の告白場面もやや性急さが感じられてくる。聖司の方は考慮時間があるのでいいけれど、雫の内面が少々不可解になる。
 この作品には見えない何かがある。それも見る側の問題ではなく、制作者がそのように作っているに違いない。ちょっと調べてみるか、…これが大体12月の頃だったでしょうか。

2.基礎作業

 2002年はジブリ関連の資料が豊富に出版された年だったので幸運でした。映画を調べるといってもただ画面を見ていても仕方がない。基礎資料は欠かせない。早速「スタジオジブリ作品関連資料集」と「絵コンテ」を入手。『耳をすませば』のみでは不十分なので全てそろえて読み込まなければならない。宮崎・高畑の著作も必要だ。サウンド・トラックとイメージ・アルバムも聞き込まなければならないし、過去の雑誌を探したりしている内に12月が終わってしまった記憶がある。基礎作業は対象がなんであれ、大体やることは同じです。過去にいろいろなものを調べましたが方法は違いません。ものを調べるにはとにかくお金と時間がかかるのです。
 この段階では、もちろん本文は一行も書いていない。読んでは頭に入れるのみ。資料が万全になることはあり得ないのでそろそろ分析の方法を考えなければならない。アニメ関連の評論書も読んでみたのですが、映画自体を分析するというよりは映画を使って自分の議論を展開するものが多い。『耳をすませば』という映画そのものの意味を知りたい私にはまるで参考にならない。唯一私の希望に近い本は大瀧啓裕氏の「エヴァンゲリオンの夢 −使徒進化論の幻影−」(東京創元社)のみでした。
 しかし、よくよく考えてみれば、私は音楽であれ、文学・刑事事件であれ、重箱の隅をつつくような分析をやってきた経験があるのだから人のやり方を真似るより自分らしくやった方がいいに決まっている。結論は分析している内に見えてくるだろう。大体、結論が先に見えるような作品では分析がつまらない。

3.分析開始

 冒頭から一歩一歩分析を始める。のっけから"Country roads"やら『ぽんぽこ』やら「ふるさと」がどうしたと頭を抱える。分析は最初が肝心だから手が抜けない。土台をいい加減に作ると後で必ず後悔することになる。何が重要になるか判らないからだ。それに考えを進める間に不足した資料も探さなければならない。『ぽんぽこ』と『耳をすませば』の全カットの比較は恐ろしく手間がかかったが本論ではたった2行にしかならない。啄木の「一握の砂」に気づいたのはずっと後になってから。慌てて原稿に追加した。
 ノートに下書きを書きながらようやく順調に進むようになった。そんなときに貸出カードの事が気になりだした。最近の図書館は電磁カードに切り替わっているから昔の事を思い起こしていた時、ふと『貸出カードに個人の名前が記入されているのは何か変だ』と気が付いた。記憶が曖昧だがどうも日付しかなかったんじゃないか。そもそも個人情報がそんな安易に他人の目に触れるはずがない。早速、同僚の司書の方(あとがきで紹介してある永橋さん)に訊いてみた。専門家が身近にいるのは何かと都合がいい。
 「貸出カードって確か日付しか書いてないですよね?」と訊いた途端、「ああ、『耳をすませば』でしょ、あれおかしいですよね」という答が返ってきた。こちらは『耳をすませば』なんて一言も言っていないのに…。カード・システムの実態やらあれこれ訊いている間に『耳をすませば』公開当時から図書館関係者の間では貸出カード問題が話題に上っていたことが判った。現場なのだから当然といえる。すぐ気が付かなかった私の方が大ボケだったのだ。社会科の教師だろ、一応!
 永橋さんは「あれはファンタジーでしょ」と断言した。私もこの虚構を前にしてはそう考えるしかない。そこで原稿の書き直しに着手したがどうもすっきりいない。自分の言い訳ではないが「多少は人権に敏感なはずの私が気づかない虚構ならば、他の人も判らないのではないか?」と考えたのだ。現にこれまで入手した資料でこのことに言及したものは皆無だ。映画を見る者に見えない虚構。虚構の内容からして制作者が知らんぷりで済ませられるとは思えない。何かコメントはないか。映画にはない。映画をもとにした「絵本」や「フィルム漫画」も見たがここにもない。「制作者は詐欺的行為を働いている」、ここまで考えたことを正直に告白する。しかし、元々分析を始めた動機がこの映画の不審点を解明することにあるのだから一旦この問題は棚上げにしてゆっくり考えることにした。分析していく内に何か意味が見えてくるかのしれないし。

4.セッション問題

 分析上、セッションが最初の難関になることは判っていた。『映画の現実性の意味は何か?』が問われるからだ。ドキュメンタリーでもない限り、映画は元々フィクションなのだからいくらでも基準を緩めることが出来る。猫王じゃないが『まァ、いいんじゃにゃい』で済ませることも可能だ。しかし、私の見るところ、セッションの即興を認めることはこの映画の価値を否定するに等しいと思われた。そんなご都合主義がまかり通る映画を見るのは時間の無駄だ。私は自分の直感に従うつもりだった。セッションはこの映画の最初の山場だが、本論でも最初の山場になった。あまりにも豊富な情報が盛り込まれているのでまとめるのが大変だったのだ。第三稿と第四稿の比較は考えつつ書いていったが、結論は自分でも意外だった。過去の経験でも論理的には当然の結果なのに自分の頭が着いていかないことがあった。こういう時は自分より論理を信用した方がいい。自分の方は後から追いつくだろう。

5.ルイーゼ問題

 下書きを書いている時にはまだ「雫=ルイーゼ」は見えていなかった。とりあえず、地球屋=「届かぬ恋の世界」を追求していた。その過程で地球屋の時計が動かないことを指摘している時に「あれ、一個動いたじゃん、なんで?」と気づいた次第。「雫=ルイーゼ」は難航した。こんな重要な結論をあっさり書くわけにはいかない。きっちり書かなければ誰も納得してくれないだろう。決定稿まで一〇回以上、書き換え、追加を繰り返した。今でも読み返すと不満がある。「文才が欲しいよぉ」と嘆くのみ。しかもこの結論のおかげで既に書き上げた部分も大幅訂正を余儀なくされた。成り行き任せがこういう時に祟る。
 おとぎ話の発見と西老人の救済が確認された段階で最終章の骨格が見えてきた。虚構の意味が判ってきたのだ。聖司と雫の結末もこれで何の不審もなくなった。後は着地に失敗しないように頑張るしかない。

6.BGM問題

 当初の計画ではBGMは本体と独立させて最終章の前に一章設けるつもりだった。やり始めるとこれがうまくいかない。この映画のBGMは内容とあまりにも密接に結びついているのでどうしても映画の最初からおさらいをしているみたいになってしまうのだ。それに書くことが多すぎて収拾がつかない。「これは駄目だな」とため息とともにあきらめた。そこで各場面毎に挿入する形に変更した。ここでまたまた大幅訂正作業を敢行する羽目に陥った。要するに無計画な訳で文句を付けるのは自分の脳みそしかない。「しっかりしてくれぇ」。あんまり情けなかったので末尾近くに『BGMのまとめ』の節だけ入れておいた。『変なところにあるな』と思った方もいるでしょうが、これは私のささやかな意地と思って頂きたい。
 BGMで最も難航したのが調性調査。絶対音感などという重宝な能力に恵まれていないのでCDやDVDに合わせてリコーダーを吹き吹き確認を取る。「猫を追いかけて」は悲惨だったし、「飛ぼう!上昇気流をつかむのだ」の序奏は初めから無理だとあきらめていた。家族の冷たい視線に耐えながらイヤホンで音楽を聴きつつリコーダーを吹く日々が続いた。「うるさい」「へたくそ」「同じ曲ばかり聞き飽きた」「誰もいないときにやれ」…。これだけはもう一度したいとは思わない。

7.最終章問題

 書き始める時には虚構の意味も小作者=西老人も判っていた。この章自体、それがあるから書いたのだから当然。但し、書き方が難しい。かなり進んだところで「作画汗まみれ」所収の高畑の文章にぶつかった。「やった!」。これで書ける。又、全面改稿となったが、数段進行が明確になったのでちっとも苦にならない。英文タイトルに手こずったくらいであとは順調にいった。当然、微修正は延々と続くが全体の骨格に変更は加えていない。
 第一稿のワープロ打ち込み完了が三月上旬。原稿用紙七〇〇枚を越えてしまった。追加訂正削除を随時繰り返しつつ、「これ、どうしようか?」と又悩みが発生した。

8.出版へ向けて

 見通しも考えずに始めた分析だから当初はまともな形になるかなど判っていない。ある程度、形が付いてきた時には職場の紀要にでも載せようかなどと考えていたが、分量が多すぎて分割しないと無理。
 最終章を終えたとき、この結論なら世に送り出したも悪くないかな、と思い立った。出版業界など縁もゆかりもないからあちこちに持ち込んでみたが、分量は多いし、内容は地味だし、知名度はゼロだし、当然のごとく全部一蹴された。新風舎さんで共同出版を引き受けてもらえたのでとても感謝している。企画担当の金木さんには当初の原稿を入れたあとで何回も訂正原稿を送りつけて随分迷惑をかけたと思っている。
 さて、いざ出版となるとサイズやら装丁やら考えることが又増える。題名も初めは「『耳をすませば』考−細部分析の試み−」などという少々お固めなものだった。読者のことも考えて本を作る必要がある。「ウーン、そもそも読んでくれる人がいるんかい」という根本的な不安は差し置きつつ、金木さんの「若いジブリファンの女性層を対象に…」という言葉を当てにして真面目に考えた。
 題名が肝心だと思った。「〜の謎」みたいな軽い命名は論究としては正統的と自認する私には内容と食い違いすぎる。かといって堅すぎると見向きもされないだろう。あれこれ候補を挙げているうちに「そういえば、この映画はフラクタルだな」と思い当たった。「フラクタル」、これなら意味を知らない人でも印象が良さそうだ。「生成するフラクタル」はこれで決まり。でも、これだけでは内容が判らないから副題に「『耳をすませば』考」と加えておいた。それに読んだ人が「結局、フラクタルってなぁに?フラストレーション?」では失礼なので、これに合わせて本文も少し修正した。
 同時に表紙に小さくフラクタル図形をあしらうことも決めた。他人の作品は使えないので自分で作るしかない。プログラムのソースを書くなんてここ数年やっていないのですっかり忘れている。Visual Basicで記述したが、C言語と混線して一苦労する。二週間の苦闘(?)の末にようやく画面にジュリア集合が姿を現した。いつ見てもこれは美しい。マンデルブロー集合や複素関数も試みたが見慣れない人には異様な印象を与えるのでやっぱりジュリア集合がいい。色着けを様々に試みた結果、モノクロのグラデーションが一番見栄えがよさそうなのでそれに決定。二重に色を出すともっといいようだが、私の能力の限界を超える。これでいいのだ。
 次に裏表紙にヴュルツブルクの写真を載せたくなった。写真に説明は付けない。本を最後まで読まないと意味不明という趣向が気に入った。問題はその写真。私は海外旅行でもカメラを持たない人間なのでヴュルツブルクは頭の中にしかない。知り合いにドイツ旅行マニアもいない。他人の写真は勝手に転載できない。これはインターネットでお願いするしかない。チャットに載せてたった二日で花咲さんから応答が来た。感謝感謝。これで写真問題も無事解決した。 

9.調査確認の日々

 出版が本決まりになってからは調査と再確認の日々が始まった。原稿を書いている段階ではある程度記憶に頼りながら書かざるを得ない部分が多くなってしまったので参考資料調べが大分不足している。私の記憶はお世辞にも良いとは言えないので必要な文献を集めなければどうしようもない。仮にも論考だから不確かなまま放置はできない。バッハ関係の資料は幸い手元に揃っているので問題ないがヴァイオリン、ナチス、ヨーロッパの地理、都市などの本は決定的に不足している。とにかく探すしかない。こういう時は大島という地理条件に制約される。土日しか動けないので古本屋に行けないし、時間も費用もかかる。見つけては読み、訂正を加える。あるわあるわ。本文の訂正箇所は数え切れない。出たとこ勝負は意外と強い方だがこればかりはそうも行かない。
 映画の画面チェックも欠かせない。絵コンテに寄りかかりすぎると本体が疎かになる。特に科白には念を入れた。細かい修正は数知れず。「イバラードTU」は絵コンテを信用して本文を書いたので大失敗だった。カットの入れ替えや科白位置の変更があり、書き換えが実に面倒だった。