カヴァー表
ジュリア集合



 フラクタル図形の数学的知識に乏しいので詳しくは専門書に当たってもらいたい。簡単に言うと複素平面上で三次方程式f(x)=Zn^3-1の近似解を求める漸化式を用いて収束点を持つ座標を集めたものがジュリア集合。漸化式はf(n+1)←f(n)の形になるので元の解で次の解を順次求めていく。繰り返しの数を増やすと正確さが上がる。私は六〇〇回でやってみた。一部分を拡大して表示させても集合の複雑さは変わらないし、元の形に似た形が無数に現れる。数学的知識がなくても様々な図形を見ているだけでその意味を理解することができるだろう。
 私は「CによるフラクタルCG」(渕上季代絵 サイエンス社)のソースを下敷きにしてVisual Basicで作成した。C言語のソフトがあれば、この本のソースを転記するだけで表示出来る。この種の本は多数ある。以下に紹介したソースは私が使用したもの。パラメータをmsgboxで入力したりしていないのであまり格好良くはないが、ちゃんと動く。インターネットで検索すれば、多くのサイトで作成ソフトを公開しているので、より性能の良いものを探して欲しい(一例)。
 本書のカヴァーはジュリア集合の中心部分の拡大図を模様化し、全体図を小さく何カ所かに点在させている。一つの素材で全体をまとめる構成は好きである。きれいな仕上がりで気に入っている。
Private Sub Command_Click_julia()

Const K_L As Integer = 600 '最大繰り返し回数(適当に回数を変えてもいい)

'---分割数はパソコンの解像度に合わせる---
Const K_H As Integer = 693 '複素平面の縦の分割数
Const K_W As Integer = 1013 '複素平面の横の分割数

'---位置は分割比を考慮するように。拡大したい時はより細かく数字を変えること---
Const R_S As Double = -1.5 '複素平面の実部の始点
Const R_E As Double = 1.5 '複素平面の実部の終点
Const I_S As Double = -1.3 '複素平面の虚部の始点
Const I_E As Double = 1.3 '複素平面の虚部の終点

'---このパラメータによって形が大きく変化する---
Const struct_r As Double = -0.74543
Const struct_i As Double = 0.11301

Dim xx As Integer
Dim yy As Integer
Dim k As Integer
Dim c As Integer
Dim dr As Double
Dim di As Double
Dim z_r As Double
Dim z_i As Double
Dim z2_r As Double
Dim z2_i As Double

Picture1.Cls  '今回はPictureに出力する。画面の大きさは平面分割数に対応させる必要がある。

dr = (R_E - R_S) / K_W  '実部の増分
di = (I_E - I_S) / K_H    '虚部の増分


For xx = 0 To K_W – 1     '実軸方向ループ
  For yy = 0 To K_H - 1   '虚軸方向ループ
    z_r = xx * dr + R_S   '複素変数の実部
    z_i = yy * di + I_S    複素変数の虚部

    For k = 0 To K_L    '収束計算のループ

      z2_r = z_r * z_r - z_i * z_i + struct_r  '実部の計算
      z2_i = 2# * z_r * z_i + struct_i      '虚部の計算

      If (z2_r * z2_r + z2_i * z2_i) > 4# Then  '表示条件
      '---色の出力については各自で工夫するように---
        c = k Mod 250
        Picture1.PSet (xx, yy), RGB(255 - c, 255 - c, c)
        GoTo nextloop
      End If

      z_r = z2_r
      z_i = z2_i
    Next
nextloop:
  Next
Next

End Sub
はじめに
先行書について。
 『耳をすませば』に言及した先行書はごく少ない。それに他のジブリ作品とまとめてあるので全体的な議論はなされていない。これはまことに残念である。先行書を取り上げなかった理由の一つはこれである。加えて、私が目を通した本の内容から見て、特に引用する必要があるとも思えなかったためだ。ただし、わずかとはいえ、本論とは少し違った結論が引き出せる議論もあるし、本論を訂正する必要のある箇所もある。
 本論を全て書き上げた後に『耳をすませば』に言及した本を2冊入手した。本論で述べたことは私が自力で分析したことだが、既に同じ事が公になっていれば優先権は当然そちらにある。

 1冊目は『[宮崎アニメ]完全攻略ガイド 宮崎駿のススメ。』(井坂十蔵、二〇〇一、太陽出版)のp.171〜183。

 気が付いたことを縷々述べておく。まず、キャラクター紹介の欄。

▲声優の紹介の中に担任教師(岸辺シロー)、数学教師(笛吹雅子)の二人が特定されている。反面、セッションに登場する「長身の男」(「南」のこと。この本の出版時点で絵コンテは未刊行)の声優井上直久に触れていないのは解せない。劇場パンフレット所収の井上の文章に出てくるから当然判るはずだ。
 私の論点では声優が誰かは井上以外は関わってこない。小林桂樹や立花隆が参加していることがこの映画の構造と関係があるのかどうか思うところはない。それに私自身、芸能界に関心がないのでよく判らない。

▲「丸顔の男」(「北」のこと)が「バンジョーピッカー」と紹介されている。はっきり言ってこの部分は削除された方が宜しい。劇場パンフレット・イメージアルバム・サウンドトラック、いずれにもちゃんと「リュート」と書かれている。サウンドトラックには写真まで載せてある。こんな明白な事実を前にして「バンジョー」などと読者に誤った情報を提供する権利など誰にもない。リュートはさほど日本で知名度の高い楽器ではない。そのリュートを愛し、演奏を楽しむ一人として、この映画でリュートが採り上げられたことが非常に嬉しかった。私はこの紹介部分を初めて読んだ時、怒りを覚えた。しかも「ピッカー」だ。セッションの場面を見ていただきたい。北はピックなど持っていない。私もリュートをピックで弾いたことはない。リュートにもピックを用いる奏法があるが、今日ではほとんど用いられることはない。セッションで実際にリュートを演奏している竹内太郎氏には知人宅でお会いしたことがある。生真面目で誠実な方だ。彼のためにもこのような書き方は失礼だ。この本の著者あるいは出版社は訂正文を入れるべきである。

▲「長身の男」(「南」のこと)の使用楽器に「角笛」とある。コルネットを誤解したのだろう。「バンジョー」と違ってこれはありがちだから仕方がない。Cornettoの語根Corno(イタリア語)は「角」の意味だから無理もない。Cornoはイタリアの音楽用語では「ホルン」(Hornも「尖ったもの」だからやはり「角」から来た言葉)を意味する。とは言っても「角笛」は角で作った笛そのものだからコルネットと別物であることに変わりはない。こうした誤解が生ずるので、ドイツ名のZink(ツィンク)を使用するのが無難だ。これは映画制作者にもちょっぴり責任があるが、仮にも『耳をすませば』について文章を書くなら基礎資料はきちんと調べるべきだ。楽器の知識がないことは恥ずべき事ではない。しかし、本として公にする責任上、最低限の調査は必要だ。それが読者と映画制作者への礼儀である。
 リコーダーが「縦笛」と紹介されているが、これは私も使う言葉なので問題はない。
 それにしても、楽器の名称はサウンドトラックで確認出来るのにどれ一つ採用しなかったことは不可解だ。現在、『劇場パンフレット』に目を通している人は希だろうし、サウンドトラックも誰もが入手しているとは限らない。ヴィデオやDVDのみで観賞している多くの人に対して本を出していることを忘れてもらっては困る。
 この映画の理解を困難にする原因の一つは明らかにBGMだ。仮にも「完全攻略ガイド」と称する本の楽器に関する記述がこの程度なのだから気が重くなる。これでは『耳をすませば』を理解するなどほど遠い。攻略の足がかりすら得られまい。

▲男爵の名前が「ジッキンン」になっている。これは誤植であろう。

▲「杉村」の項に「映画の劇場予告が杉村の玉砕場面だった」とある。これは「プロモーションフィルム」(DVDに収録されている)を指している。このフィルムは結構長い割に雫と聖司の場面が少なく、確かに内容を誤解してもおかしくない。『宣伝会議資料』によると「プロモーションフィルム」は特報第一号(一九九四年一二月〜)に続いて一九九五年二月に出されている。最も早い時期なので映画後半の制作前に作られたようだ。

▲「汐」の年齢が「19才」になっている。『アレッ?』と思って劇場パンフレットを見てみたが、私が本論で書いた通り、「18才」だった。プレス・シートも同様。単なる誤植かとも思ったが、それに続いて「大学2年生」とあるし、p.177の本文には「1975年生まれ」となっているから著者が錯覚しているのは間違いない。これも資料の誤読だ。この本の著者は劇場パンフレットすらまともに見ていないとしか思えない。

▲次の「ホントに年代は1994年?」は本論と矛盾しない。西老人の描く中学生なのだからかなり古くてもいい。ファミコン・ゲームについて既に言及されている。優先権は勿論、井坂氏にある。次に、スカートの丈やルーズソックスのことが指摘されている。思わず、なるほどと思ったがどうも私の早とちりだったらしい。当時女子中学生だった私の元教え子二人は口をそろえて「当時の中学生のスカートは雫くらいだったし、ルーズソックスははいていなかった」と証言している。中学生の時に『耳をすませば』を見た二人だから証言の信頼性は抜群だ。ミニやルーズは女子高生のファッションのようだ。高校生ばかり相手にしているので錯覚しそうになった。

▲下の欄に「サスケ」について書かれている。この記述を信じれば、この映画の中学生は1969年頃をモデルにしていることになる。これには驚いた。私が西老人について論じた時、彼の娘は40歳位と推定したが、1969年といえば彼女が15歳、つまり中学校3年生の時なのだ。これは西老人を小作者に擬する私の説の有力な証拠になる。西老人が最も身近に接した女子中学生は彼の娘だ。彼女についての記憶によって中学生を描いた可能性があろう。

▲下の欄の最後に雫がワープロを使っていないことに疑問を提出している。だが、月島家の経済状況は多分相当苦しいはずだ。朝子は大学院2年目後半にしてようやくワープロを手に入れている。雫がワープロを使っていないのは家計上の問題で解決出来る。 それに、汐がパソコンを持っていることは画面で確認出来る。一家に二〜三台のワープロ機器があれば、普及している方だろう。

▲「汐…すきなひととできてます!」について。私の論点では汐に彼氏がいようがいまいが全く影響はない。汐が『月島家の内部でどのような役割を果たしているか』と『外部で何をしているか』は両立する問いだ。根拠さえあれば認めてかまわないのだが大丈夫だろうか。

(1)まず、著者が汐を「19才大学2年」と錯覚しているのでそれに関わる部分は根拠にならない。「奨学金やスカラシップをとるなら、2年の時ではなく、大学の入学時に取るはずだ。」とあるが、著者が述べていることが事実なら、汐は大学1年だから奨学金もスカラシップも取れることになる。自分の主張を自分で否定している。資料をきちんと読まないからこういう結果になる。

(2)汐が「文系」だと断定しているが、根拠は「月島家を見る限り」だけしか挙げておらずこれでは意味不明である。ちなみに本論で私は「理系」と書いたが、これはレトリックであって積極的に主張しているのではないから「文系」でも何ら支障はない。
 文系・理系をどう分類するか微妙だが、後者の方が理論的分析的には違いない。私の感覚では、靖也の歴史学も朝子の社会学(この著者の推定)も理論的で分析的だから理系に近い。どちらもデータ整理は必要だ。汐が月島家で理系に目覚めても一向にかまわない。映画の中の汐は合理的で現実・常識を重視している。彼女の部屋も機能的だ。物理学専攻でも違和感はない。そもそも勉強ではなく学問の水準で捉えれば、文系・理系という分類は無意味である。数学言語使用の違い位だろう。私自身、大学受験は数学科と歴史科の二股だった。この分類は高校生が「数学が好きか嫌いか」程度で進路を決める時くらいしか意味を持たない。金のかかり方は違うが、理系でも数学ならいたって安上がりだ。
 「理工系で生活費を捻出、自立できるほどのバイトは不可能である」のかどうか私には判らない。しかし、汐自身が「塾の先生の口」を「みつけたからなんとかやっていける」と言っている。塾では数学を教えないのだろうか?たしか、杉の宮には「進学英学館」があったはずだが。
 結論として、著者が汐を文系とする根拠ははなはだ弱い。断っておくが、私は「汐が理系である」と主張しているのではない。『いずれかに断定する根拠がこの映画には出てこない』と考えているに過ぎない。しかし、著者が文系を前提にする議論は成り立たなくなる。

(3)「汐は勉強・学問の達成感を数値化しているきらいがある」のはその通りなので異論はない。(こういう感覚は理系的に感じるが…)

(4)著者は汐が「それ(進路)を探すために大学へいってるの」という姿勢が不真面目さの現れだと主張している。これはどうだろう。
 汐のモデルは誰か?西老人が創作するならやはり彼の娘だろう。彼女は一九六九年に中学校3年生だったのだから、一九七三、七四年辺りに大学に入学したはずだ。当時は高度成長経済中期で、就職戦線は売り手市場だった。就職のことを真面目に考えるのは四年生になってからが当たり前で気楽な学生生活を送っていた。特に理工系は就職先が多すぎて困っていた。一九九〇年代の就職難時代と違って「進路」を視野に置いた大学一年生などほとんどいなかったのだ。どちらかと言えば、自分が好きな学問をやるのが第一で「就職のため」なんて口に出せる雰囲気はなかった。私は一九七四年に大学に入ったので汐の「それを探すために大学へいってるの」という言葉に違和感を感じなかった。学問と就職がまったく連動していない感覚は当時なら自然だったのだ。つまり、雫や中学生達同様、汐も少々時代の古い大学生なのである。
 この反証は私の主張を土台にしたものだから多少弱いことは認める。しかし、著者は雫のスカートの丈から年代のズレを主張している位なので、私の反証も少しは尊重してくれるに違いない。中学生が現代的でないなら大学生が現代的でなくても不思議はあるまい。

(5)汐の相手を航司だと指摘しているが、たとえ原作に登場するとはいえ、映画に登場しない人物を持ち出すのは控えた方がいいと思っている。映画はそれ自体で完結していると見るのが基本である。原作ならば、汐と航司の関係は筋の上で必要な事柄だが、映画ではその関係を想定しても雫に何の影響も及ぼさない。大体、原作と映画では汐の造形が全く異なっているのだから一方を他方に持ち込むのは所詮無理なのだ。こんなことが許されるなら、『映画の中のムーンは実は二匹だった』などという妄想だって主張出来てしまう。
 映画では木村先生が聖司のことを「天沢さんとこの末っ子」と言っている。確かに航司の実在を想定してもよさそうだが、「末っ子」という表現は微妙である。兄姉が聖司以外に二人はいないとこの言い方はピンと来ないのだ。二人兄弟なら「下の子」とか「弟」とか言うのが自然だろう。原作を切り離して考えれば、「聖司には少なくとも二人は兄姉がある」と判断する方が自然なのである。木村先生の言葉がどれ程正確な情報に基づいているのか判らない(元PTA会長の名前が即座に上がる位だから信頼性は高そうだ)が、二人兄弟だと断言するだけの情報は映画には存在しない。当然、兄か姉かも判らない。だから、本論でも「聖司の兄姉の時」(P.101)という書き方をした。

 以上の検討から著者の根拠ははなはだ薄いとするしかない。初めに述べたようにこの議論は私の論旨には関わらない。それに「汐には彼氏がいない」などと主張もしない。文系・理系と同じで『映画の情報からは不明』と考えている。

▲朝子が40歳になってから大学院に進学した根拠は本論にも述べた。全共闘世代の朝子が大学院を志望しなくともかまわない。彼女の学部を社会学系とするのは特に異論はないが賛成もしない。靖也が「何も言わない(言えない)立場」でないことは家族会議で証明した。何も言えないのはどちらかといえば朝子の方だ。

▲柏崎にいるのは靖也の親戚か朝子の親戚か。私は朝子の方と推定する(根拠はP21ので述べた)。
 この本では朝子が「おばさんらしい」と発言していることを指摘している。私は朝子の言葉を深く考えなかったのでこれ自体は貴重な指摘である。しかし、著者がこれを根拠にして、「おばさん」を靖也の姉妹だと主張するのは到底無理だ。つまり、私の場合でいうと、『私は私の妻の姉を「おばさん」とは呼ばず「ねえさん」と呼ぶ』からだ。夫の姉妹を「おばさん」と呼ぶ感覚は理解出来ない。著者の主張が成り立つためには朝子の言葉は「おねえさんらしい」でなければならない。もちろん、靖也の姉妹とするには別の根拠が必要だ。著者の指摘は大事だが結論はまったく成り立たない。そして、この本の著者は汐の「おばさん」という発言を取り上げていない。考えるべき事は『朝子と汐の二人が「おばさん」と呼ぶ人物は誰か?』だ。
 汐と朝子の二人が「おばさん」と呼ぶ人物が別人なら問題ないがそれでは複雑過ぎる。同一人物だろう。この場合、二人のどちらかが本来「おばさん」ではない人を「おばさん」と呼んだことになる。
 汐の発言が正しい場合、朝子は自分か靖也の姉妹を「おばさん」と呼んだことになるが、上述のように、こういう事態はあり得ない。 英文字幕には朝子の発言に"your aunt"とあり、汐のおばさんとされているが参考にする訳にはいかない。もとからある矛盾を解消しようとしたのだろうが、残念ながら不可能な方を採用してしまった。従って、汐の方が『本来「おばさん」ではない人を「おばさん」と呼んでいる』のは間違いない。
 これがあり得るのは『汐が「大叔母」を「おばさん」と呼んだ』とする時だろう。英語なら"grandaunt"という。汐の立場から言うと、祖父母の姉妹に当たる人だ。汐の祖父母の世代は「生めよ増やせよ」で兄弟姉妹が多い。上と下で20歳以上離れていることもある。汐の大叔母が靖也や朝子とほとんど年が変わらなくても不自然ではない。現に私の母と大叔母は同い年だからまさに身近な実例がある(しかも誕生日は母の方が早い)。「大叔母」などという言い方は普通しないから「おばさん」が一番言いやすい。私もそう呼んでいた記憶がある。

(追記)
最近(二〇〇五年一二月)久々にDVDを見ている時、朝子の言葉が「おばあさんらしいわね」とも聞き取れることに気が付いた。仮にこれが正しいとすると汐や雫の曾祖母に当たるがまぁそれはあまりありそうもない。日本では家庭内の子供世代に合わせて親族呼称を使うので汐・雫の祖母と見ておく。汐の「おばさん」という言葉は明瞭なので変更できないので、二人の言う「おばあさん」「おばさん」を同一人物と見るのは不可能になるが、代わりに二人が田舎で同居生活をしていると解釈できるようになる。この場合、英文字幕とも矛盾しなくなるのでかなり有力である。それでもこの言葉だけで二人が靖也・朝子どちらの親族かを決めることが出来ないことは言うまでもない。

▲「雫の読書傾向」は私より正確なので、もっと早くこの本を読んでいれば楽だったかなと思った。我が家のテレビ事情では「泉のとまった日」の「泉」はとうてい判読出来ない。「飛ぶ魚のように」はかろうじて判読出来た。断っておくと「泉」の方は原作のマンガで見て判っていたが、たとえ原作でもマンガと映画は別物として本論を書いた(P.33)。

▲聖司の設定とスポ根ものとを同列に扱うのは無理だ。西欧の楽器作りを目指すために西欧に行く感覚自体は自然だからだ。これは勝負の世界ではない。日本の次は世界などとは次元が違う。もし、聖司が外国人で「文楽人形」作りになりたいと設定されていたなら日本にやってくることに違和感はないだろう。それと同じ事だ。
 私もP160の注で聖司のイタリア留学が必ずしも妥当ではないことを指摘した。しかし、私は楽器職人になるための可能性から述べただけだ。スポ根ものと平行させる感覚は着いていけない。

▲聖司に「渡航経験がない」のは誤りだ。聖司が継続的にパスポートを取得していなければ八月上旬のパスポート申請は合理的に解釈出来ない。もっとも渡航経験があっても語学力強化には繋がらない。

▲ラストシーンの必然性は本論で述べた。「ファンタジー」の結末に現実を受け入れる余地はない。二人が将来うまくいくかどうかはいらぬ心配である。王子様と結婚したシンデレラが幸福かどうか考えても仕方がないのと同じことだ。
 以上をまとめると、私が気付かなかったことや無知な点について教えられる指摘があると認めつつもほとんどの結論が根拠に乏しい。同時に基礎資料の読み込み不足・誤読も無視出来ない。「バンジョーピッカー」は暴言である。他の作品の紹介と比べて揶揄に近い文章もあちこちにあり、筆者がこの作品を嫌っている様子がありありと見て取れる。「ガイド」と称する本としては少々姿勢に疑問が残る。ただし、筆者がすべての議論に根拠を示しているのは誠実である。私が反論出来るのもそのためだ。執筆姿勢は評価出来る。

 2冊目は『スタジオジブリのひみつ』(風見隼人と東京アニメ研究会、2002,データハウス)のp.153〜159。

▲朝子の学部はこれまた社会学部と推定されている。どうもこれは誰でもそう見えるようだ。しかし、「データ整理」と「ビニール袋へのこだわり」だけでは根拠として弱すぎる。現に私だって両方に当てはまるが、歴史・文学畑の人間だ。社会学に興味はない。私はあまのじゃくなので皆がそう言うと別の可能性を探ってみたくなる。

▲この本も中学生の服装に注目している。ここでもスカートの丈が長すぎると指摘しているが、前述の通り、私は実体験者の証言を尊重したい。

▲p.158からの文章に雫が夏休みに物語を書いたと説明されている。これにはあきれてしまった。「映画を観ていないんじゃないか?」と本気で疑った。その前の部分で制服のスカートの丈が言及されているというのに(夏休み中に雫は制服を着ていない)何故こんなことになったのだろう。まったく不可解だ。

 この本からは特に新しい重要な知見は得られなかった。解説文は訂正しないと失笑を買うだろう。
  
 二つの本に目を通した感想として議論を展開する以前に映画自体や資料段階の誤りが目立つ。『スタジオジブリ作品関連資料集X』は一九九七年に刊行されているし、映画のVideoも既に出ているから言い訳は効くまい。注目すべき指摘があるとしても議論は正しい基礎に基づいていなければ薄弱なものにしかならない。読んだ後味はあまりよくなかった。
 本論はジブリの他作品について扱っていないのでこれ以上は触れない。

P9 一九九五
 数字表記は幾通りもあるので悩んでしまった。横書きならばアラビア数字で済むのだが縦書きの場合、読みやすさも考えなければならない。あれこれ考えた末、ST番号とメートルはアラビア数字、それ以外は漢数字位取り方式で表記した。このことでは校正段階で編集の方にだいぶ負担をおかけした。ゴメンナサイ。
P9 「制作」「製作」二つの用語があるので困った。『耳をすませば』のエンディング・クレジットにも両方出てくる。ちょっと紹介しよう。

製作総指揮・製作・制作・音楽制作・音響制作・制作担当・制作チーフ・制作デスク・制作進行・制作総務・「耳をすませば」製作委員会・製作担当・デジタル合成制作・木口木版制作制作製作プロデューサー

 製作5、制作12。見当として直接作る現場が「制作」、周囲を固めるのが「製作」と感じられる。こういう時は辞書に頼る他はない。我が家の「廣漢和辭典」(大修館書店)によると、

製作 … @(詩文や道具などを)こしらえる。A特に、道具・機械などをつくる。(芸術作品には、制作という。)
制作 … @つくる。こしらえる。定めつくる。C絵画・彫刻などの芸術作品を作ること。

とあった。どうやら二つはかなり正確に使い分けられているようだ。本論を書いた時点では「制作 スタジオジブリ」だったのでたまたまこれを採用したが、調べた結果としても正しかったようだ。そちらは訂正せずに済んでほっとした。一方、ヴァイオリンの方は絵コンテに「バイオリン製作学校」と書かれているし、高橋明さんも「クレモナ製作学校」と書いている。ヴァイオリンは道具・機械と言うことだろうか?「楽器の事典 ヴァイオリン」でも全て「製作」なのでそうなのだろう。やむなくこちらはあちこち訂正する羽目に陥った。おかげで、「この時計の製作者はPorco Rossoだった。これも単なる制作者の遊び心と考えることは出来ない」(P,254)のように両方が連続する箇所も出来てしまった。又、詩文については「製作」とあるので雫の訳詩創作にはこちらを用いた(P.153など)。私の(つまらぬ)努力の成果を本論で確かめてもらいたい。文章を書くのは本当に神経が疲れる。

P9 この作品には表面に現れた物語の展開の裏に何かが潜んでいる感じを受けた。
 私がスタジオジブリの諸作品を真剣に目にしたのは二〇〇二年の秋からである。『耳をすませば』はそれまで一度も観ていない。関連資料もないまま観たこの作品は魅力的であると同時に『不可解』極まりないものだった。とにかく構造が見えてこない。セッションの即興不可能性とBGMの象徴性はすぐ判ったが、それが全体とどう関連しているのかまるで判らない。とにかく『気になる映画』だった。分析をするつもりになったのも『調べないと居心地が悪かった』からだ。

P9 込み入った心理分析、社会論
 本論を書く以前も以後も私なりにアニメ関連の著作類は読んでいる。宮崎に関する論文は多数ある。それらを読み、内容に納得したり、批判的だったりした訳だが、いざ自分が何をするかとなるとどうもその種の論考が苦手なのだ。これまで私も色々なものに興味を持ってきたし、文章にしたこともある。そこで自分に一番合っているのが即物的な分析法だった。「南総里見八犬伝」「日本書紀」の類から裁判記録の調査までそうやってきた。ここには「〜論」はない。あるのは「それを見る」視線だけだ。だから、それに適しないものは扱えない。宮崎の作品には「〜論」が幾つもある。しかし、私に書く機会が与えられてもそういうものを書きたいとは思わないし、出来ない。『耳をすませば』で使った方法は『もののけ姫』ならば多少は何とかなるかもしれないが、『ラピュタ』に応用してもたいしたことは得られそうもない。

P9 現実的に解釈する
 現実と非現実の境界をどこに引くかが問題になるが、ここでは現実に起こりうる可能性を基準にしている。常識の範囲で考えてもらえばすむ。もとより、映画は創作だから細部の合理性まで追求出来ない場合も起こりうるので適宜な判断は必要である。まして、アニメーションの場合、細かい矛盾が出るのは避けがたい。あまり拘泥しすぎると分析そのものが破綻する。
P9 細部にも拘り
 こうした分析法の先例として「エヴァンゲリオンの夢 使徒進化論の幻影」(大瀧啓裕著 東京創元社 2000)を挙げておく。対象の性格がまるで違うので完全に同一の方法を採るのは不可能だが、この本にかなりの触発を受けたのは事実である。彼のように威勢のいいことを書く自信はないが。
P9 各要素全てが全体の構成の中で同等に扱われているわけではない
 実写映画と違ってアニメーションの場合、画面全体全てを描く以上、偶然性はかなり排除出来る。それでも多くのスタッフによる制作であるからには全体の整合性に矛盾が生じることは避けられない。また、全てのカットが同等に扱われているとは限らない。分析に濃淡が出るのは仕方がないことである。その判断は分析する者に責任がある。
P9 私の判断で適宜取捨を行った。
 紙数の問題という現実もあった。初期の稿では優に三五〇ページを超えてしまったが、私の経済力や出来上がった本の値段(二〇〇〇円を超えたくなかった)を考えると多すぎる。本筋と関係ない部分を削ったり、絵コンテの引用を避けて地の文にしたりして減らしていった。全体がすっきりしたところもあるが、展開が不明瞭になった箇所も多々ある。少し悔しい。この注にはその時捨てた部分も入れてある。出来れば、引用し切れなかった絵コンテも書き込みたい。注は結構好き放題に書けるので楽しい。
P10 映画評論の中でBGMまで考察に含めた例は知らない
 前掲の「エヴァンゲリオンの夢 使徒進化論の幻影」ではヘンデルの「メサイヤ」中の「ハレルヤ」とベートーヴェンの交響曲第9番について言及されているが、基本的に歌詞が引用の主体なので判りやすい。私がここで行う考察はそれとは全く異なる。
P10 『サウンドトラック』
 『サウンドトラック』とBGMは編曲が完全に一致はしない。しかし、調性の確認や細部の音の動きを調べるには『サウンドトラック』の方が便利だ。「猫を追いかけて」などはBGMだと途中、音量が少なくなって聞き取れない。
 サウンドトラックは全部で二二曲が収録されているが、映画で使われている全ての曲を収録しているのではない。一覧表にしておくので参考にして欲しい。表中のIAはイメージアルバムの略号である。

ST番号

曲名

使用箇所及び補足 本論の引用箇所

Take me home, Country roads

オープニングから雫が家に着くまで

P16以下

丘の町(*1) 雫が「聖司」を貸出カードで発見するところから中学校に到着するまで。IAでも「丘の町」

P39、P49

IAの「コンクリートロード」の一部 聖司が「コンクリートロードはやめたほうがいいぜ。」と言った直後から雫が冷蔵庫を閉めるまで。

「猫を追いかけて」の一部

電車でムーンに出会ってから改札口まで

P77

猫を追いかけて 横断歩道を渡ってムーンを探すところから地球屋前のロータリーに着くまで。IAの「コンビニエンスストア」を転用。

P78以下

地球屋

雫が地球屋に入り、中を見回すところ。

P81

オルゴール ドワーフ達の場面 P83
エルフの女王 エルフの女王の登場場面。 P84、262、304

雫が地球屋を飛び出してから聖司との出会いの場面全部。「丘の町」と「コンクリートロード」の旋律を利用。 P87

夏の終わり

図書館を出て帰宅する雫。旋律はIAの「ヴァイオリンを作る少年」。

P93

打ち明け話(*2)

杉村に振られて悲嘆に暮れる夕子の話から翌日、杉村が雫を呼び止めるまで。IAの「怪描ムーン」を転用。

電車に揺られて

電車に乗っている雫から地球屋の前でムーンに会って話しかけるところまで。旋律はIAの「ヴァイオリンを作る少年」。

P122

丘の上、微風あり 地球屋の前で二人が会話を始めるところから地球屋に入るまで。旋律は「丘の町」。結尾は「エンゲルス・ツィマー」と同じ。

P126、P130

エンゲルス・ツィマー(天使の部屋)

二人が地球屋の二階に上がったところから日没まで。主部はIAの「半分だけの窓」から転用。中間部は「バロンのうた」。

P130、132、134

10 −ヴァイオリン・チューニング− セッション開始直前。バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第一番第一楽章の冒頭。 P143
11 カントリー・ロード
(ヴァイオリン・バージョン)
セッションそのもの

P140以下

12 満天の夜空 夜道を歩く二人。 P171以下
13

流れる雲、輝く丘

屋上の二人の会話から帰宅する雫まで。IAの「夜明け」を転用。

P178以下、P184

14 きめた!わたし物語を書く 夕子の部屋で決断を下したところから西老人に男爵を主人公にする承諾をもらったところまで。旋律は「流れる雲、輝く丘」。途中に「猫を追いかけて」が挿入されている。

P203

15

飛ぼう!上昇気流をつかむのだ!

着想がわき上がったところから「イバラードの世界」まで。旋律は「バロンのうた」。

P207

16 古い木版画

「牢獄でヴァイオリンを作る職人」のUP

17

カノン

図書館の二人から男爵の語り全部。旋律は「流れる雲、輝く丘」。最後のムーン飛来場面のみ別。

P213

18 迷いの森

原石を探す雫から悲鳴をあげるまで。

紫色の空 追い込みに苦悩する雫から地球屋の裏側を映すまで。一部"Country roads"から引用あり。

P239

エルフの女王 ルイーゼの登場場面。 P240、262、304以下
19 追憶 地球屋のベランダで雫が泣き出してから西老人の語り全部と鉱石を雫に渡すまで。 P245
20 バロンのうた(*3) 聖司が姿を現してから二人が給水塔に着くまで。 P272
21

夜明け

夜明けから結婚申し込み直前まで。「流れる雲、輝く丘」「満天の夜空」から引用あり。

P276

22

カントリー・ロード(主題歌)

結婚申し込みからエンディング全部。

P279以下


*1 映画では第二主部の金管が押さえられているのか、はっきり聴き取れない。はずされている可能性もある。曲名の訂正についてはこの注の最末尾を参照のこと。
*2 STの結尾に映画では省略された追加がある。
*3 第三主部の旋律楽器が映画だとヴィオラがはっきり聞こえるがSTではチェロのみになっている。それに第二中間部の旋律楽器は映画ではキーボードだがSTではソロ・ヴァイオリンに代えられている。更に映画ではピッコロの音量が抑えられるなどこの曲は変更箇所が多い。

追記)私が採譜したBGMのmp3はこちら

P10 バロック音楽と楽器の知識

 BGMに様々な象徴表現が使われていることはかなり早い段階で判っていた。特に「エルフの女王」と「カノン」は歴然としていた。音楽における象徴表現はバロック音楽のみではないが、西洋の古楽器を多用している以上、当然バロック音楽だと考えた。私にバッハの知識が多少あるのが幸いした。バッハを多く取り上げたのは、第一に私自身の知識の問題、第二にバッハ研究の水準の高さ、第三にバッハの音象徴、調象徴はバロック時代の典型例だからだ。
 バロック趣味でBGMを創作している例は多くあるが、その表現法まで利用しているものは他に思いつかない。
 この注では音名も使用するのでその説明をしておこう。音の表記には二通りのやり方がある。一つは「ハニホヘトイロ」。これは絶対音名。「ハ」と言えば、その音以外は指示しない。調性が皆これで表記されるのはそのためだ。♭は「変」、♯は「嬰」と書く。もう一つは「ドレミファソラシ」。これは相対音名(階名ともいう)で、調性が変わると指示する音が変わる。ハ長調ならハ音が「ド」、ト長調ならト音が「ド」といった具合。意外と知らない人が多い。この注では絶対音名しか必要ないので「ハニホ…」の方しか使用しない。
 日本の音名はこれでよいが、ポップ系では英語音名、クラシック系ではドイツ語音名が普及しているのでそれぞれ対応させておく。
日本語

変ロ ♭は「変」、♯は「嬰」
英語 C D E F G A B B♭ ♭、♯で変化音になる。
ドイツ語 C D E F G A H B ♭は-es、♯は-isを語尾に付ける。

 ドイツ語音名は少し判りにくい。変ロ音(B)とロ音(H)を区別するのは旋法時代の名残り。変化音は語尾で変える。嬰ハはCis、変ニはDesになる。但し、変ホはEs、変イはAsでよい。

P10 それでも調性に関わる部分は少し理解し難いかと思うがご容赦願いたい。
 偉そうな書き方をしたが実はさほど難しい知識はいらない。調性はシャープやフラットの数で決まる。数が一つ増減する毎に調性は五度ずつ上下する。『耳をすませば』ではト長調から変ト長調まで使用されているのでその調性の高低を表にしておく。本論を読む参考にして欲しい。

高い ♯一つ ト長調 ST17「カノン」の冒頭と最後など
♯♭なし ハ長調 ST1「丘の町」の冒頭など
♭一つ ヘ長調 ST11、ST22「カントリーロード」など
♭二つ 変ロ長調 ST1「丘の町」の中間部など
♭三つ 変ホ長調 原曲の"Take me home, Country roads"
♭四つ 変イ長調 ST1「丘の町」の中間部など
♭五つ 変ニ長調 ST13「流れる雲、輝く丘」の中間部など
低い

♭六つ

変ト長調 ST1「丘の町」の中間部など

 市販されているピアノ譜では「丘の町」の中間部にホ長調(♯四つ)が用いられているが、転調の推移は明らかにフラット系への降下になっており、和声上の便宜による措置と思われる。ここでホ長調が出てくる必然性はない。強いて言えば変ヘ長調だろう。
P10 バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)
 教科書的な表現では「近代音楽の父」だそうだが、そんな簡単な言葉で言い表せるような作曲家ではない。それまでの西欧音楽の伝統はバッハに集約され、これからの音楽はバッハから流れ出てくる。そう言い切ってもよいだろう。その影響は現代にまで及んでいる。例えば、ビートルズの音楽にバッハの響きを感じ取ることも可能なのだ。クラシックやバロックに興味がない人にとってもバッハを聴くことは無駄ではないと確信している。映画音楽理解の助けにもなることだろう。
 バッハに関する国内参考文献は非常に多い。本論では作品を紹介するのみなので事典類を紹介しておく。「バッハ事典」(磯山雅 小林義武 鳴海史生編著 東京書籍 1996)、「バッハ作品総目録」(バッハ叢書別巻2 角倉一朗著 白水社 1997)。どちらも安くはないので(前者は6800円、後者は45000円)図書館に行くのが最善。あるいは該当する曲のCDを購入して解説を見るのが一番手間がかからず、もっと最善(どういう意味だ?)かもしれない。これではあんまりだから概説書として『バッハ』(マルティン・ゲック著 大角欣矢訳 音楽之友社)も紹介しておくが、これも15000円と決してお安くはない。学術書は値段が張るとしたものだがなんとかならないものか。これでも原書よりは廉価なのだが。安価なものなら「大作曲家バッハ」(マルティン・ゲック著 大角欣矢訳 音楽之友社)、「J.S.バッハ」(磯山雅 講談社現代新書)をお勧めする。

P10 『スタジオジブリ絵コンテ全集10、耳をすませば

 絵コンテが公開されているので分析の基礎がしっかり出来る。映像のみでは解釈が分散しがちな場面でもかなり限定出来る。また、映像では明確にならない部分を理解する材料になる。一番良い例は雫と聖司が渡り廊下ですれ違う場面だろう。聖司の後ろの男性が誰かは映像では推測に頼るほかないが、絵コンテならば、「聖司の父」とあって分析の労力を省くことが出来る。もちろん、絵コンテに頼りすぎて、映画をおろそかにしては本末転倒である。
 絵コンテと映画では科白の細部に違いが多く、チェックに苦労した。異同をいちいち注記していたら、紙数が増えるし、煩雑になる。
 絵コンテの前半は宮崎のラフコンテを近藤が清書している。コンテはそれでいいのだが、書き込みはどちらが行ったのか。宮崎の筆跡は他の絵コンテで、近藤の筆跡も「ふとふり返ると」(徳間書店)で確認出来る。調べてみると全て宮崎が書き込んだとみてよさそうだ。
 執筆準備以来この本には随分やっかいになった。おかげで今ではへたへた状態である。もう一冊買うとしようか。
P10 各種の資料が収録されている
 文書資料は何度も再使用されている。整理が面倒なのでまとめてみた。各題名は少しずつ違っているが劇場パンフレットで代表している。

文書資料

プレスキット チラシA チラシB プレス・シート 劇場パンフレット 備考(初出)
公開日付 95.2 95.4? 95.5 95.6 95.7  
なぜ、いま少女マンガか?(宮崎駿)   93.10企画書

登場人物紹介

A型     B型(英文タイトルあり) B型  
あらすじ    
好きな人が、できました A型   B型 B型(英文タイトルあり) 画面のみ文章なし  

スタジオジブリ作品史

       
監督紹介       94.10制作中間レポート
原作者メッセージ        
制作スケジュール         94.10制作中間レポート
内的確信を持って行動する子供たちの強さ(立花隆)          
私が薦めるこの1冊          
好きな人に会えました(近藤・柊対談)          
「バロンのくれた物語」イバラードに入った、カメラアイ(井上直久)          
もうひとつの原作「カントリー・ロード」     94.10制作中間レポート
声の出演者          
制作ノート         ○(追加あり)  
スタッフ&キャスト      

関連商品案内

        ○(英文タイトルあり)  
P10 プレス・シート
 『資料集』の中の表記に「プレスシート」と「プレス・シート」の二つがある。私は後者を使用したが特に深い意味はない。

P10 片仮名、平仮名
 現在では「カタカナ」「ひらがな」という表記が普及しているが好きではない。この程度の熟語を書くのに何故漢字を使わないのか不思議で仕方がない。本当は「カッコ」も「括弧」と表記したいのだが、ルビが必要になりそうなのでやめておいた。他にも漢字にしなかったものがあるが、少々寂しさを感じた。日本の漢字読解能力の低下とは思いたくない。
P10 絵コンテと映画で科白が異なる箇所は特に断らず映画を優先した
 映画と絵コンテの科白の異同は次の通り。

カット 映画 絵コンテ
C18 靖也「うん、もらう。今そっちいく」 ああたのむ。そっちいく」
C19 靖也「今プリントアウト中だよ プリンターがおわれば…」
C28 靖也「しずく、本もいいがてきとうにねなさい 「しずく、本もいいがてきとうにねろ
C29

雫「みおぼえある名前だと思った」

「みおぼえある名前だと思った…」
C41 朝子「お米といどいて 「お米だけといどいて
C42 雫「なーに、また下までおりちゃったの?」 「下までおりちゃったの?」
C45 雫「電話のとこは?」 「電話のとこは? ゆうべそこにあった
C45 朝子「あった!!」
雫「自分でおいたくせに
朝子「ヒャーちこくする。とじまりして
朝子「あった!!」
雫の科白なし
朝子「ヒャーちこくする。とじまりして
C61

野球部の声「ほら、かっとばせー

ワー、オー
C62 テニス部の少女「オーイ、しずくー」 「しずくーっ!」
C76 雫「あまわ…」 「あまわ…」
C79 夕子「またソバカスふえちゃんじゃない!」 「またソバカスふえちゃんじゃない!」
C81 サッカー部員「あがれ、あがれー なし
C102 雫「でもどうすの、ラブレターの方は」 「でもどうすの、ラブレターの方は」
C104 雫「あたし、帰るね」 、帰るね」(以後、この種の変化は省略する)
C124 雫「やな奴」(三回 「やな奴」(四回
C125 雫「やな奴」(三回 「やな奴」(四回
C141 汐「アー、つかれた」 ヒャー、つかれた」
C152A 三人団欒の会話 なし
C163 汐「買い物して晩ごはんのしたくするのよ」 「買い物して晩ごはんのしたくするのよ」
C233 雫「このあたりに住んでいるのかしら…」 「このに住んでいるのかしら…」
C283 西「おお、あー、すまん」 、すまん」
C284 西「ありがとう、もう大丈夫 「ありがとう、もう大丈夫」
C284 西「あるお城で眠ってたんだよ。すっかり錆ついてたんだ 「あるお城で眠ってたんだよ。すっかり錆ついてたんだ」
C300 西「ここ来なさい」 「ここ来なさい」
C323 聖司「これ、お前だろう?」 「これ、お前だろう?」(これも以下は省略)
C330 聖司「つづいてる」(ほとんど聞き取れないが「白い道」と歌っている可能性もある)

「つづいてる、白い道

C331B

靖也「アレッ、来てくれたのか?」 やあ、来てくれたのか?」
C335 靖也「今日もかりてくかい?」 「今日もかりてかい?」
C335 靖也「相変わらずだね、飯どうする?」 「相変わらずだな、昼めしは?」
C339 雫「6月16日…」 「6月12日…」
C355 雫「あなたは好き勉強してるんでしょう」 「あなたは好き勉強してるんでしょう」(これだとかなりトゲのある言い方になる)
C383 教師B「何年か前に確かPTAの会長をされていた方だよ」

「何年か前にPTAの会長をされていた方だよ」

C383 教師B「天沢さんはなんていいましたっけね 「天沢さんはなんていったっけ
C403 絹代「夕子はその人の名知ってんでしょう?」 「夕子はその人の名、知ってんでしょう?」
C411 合唱「この道、ずーっとゆけば」 「この道ずーっとゆけば」(本論ではこの「を」をカッコに入れて書いておいた)
C420 夕子「バイバーイ」 「バーイ」
C428 杉村「わるいんだけど、ちょっといいかな」 「わるいけど、ちょっといいかな」
C431 雫「やっぱり休み」 「やっぱり休み」
C446 雫「いますぐいくから 「いますぐいく」
C454 夕子「明日やすむね」 「明日やすむね」
C461 絹代「うまくいったらしいよ なし
C461 雫「ウン、バイバーイ」絹代「バイバーイ」 雫「ウン、バーイ」絹代「バーイ」
C494 朝子「帰ってたの? しずく?」 アラッ帰ってたの? しずく?」
C533 雫「ずーっとお店お休みだから元気かなって」 「ずーっとお店お休みだから病気かなって」(日本語の面白いところでどちらでも意味が変わらない)
C541 聖司「この瞬間がいちばんきれいに見えるんだよ」 「この時間がいちばんきれいに見えるんだよ」
C552 聖司「おぢいちゃんの宝物だもん 「おぢいちゃんの宝物だから
C589 雫「この道ずっと行けば」 「この道ずっと行けば」
C594 雫「心なしか歩調が速くなってく」 「心なしか歩調が速くなってく」
C618 聖司「なにバカなこといってんだよ」 「なにバカなこといってんだよ」
C647 雫「おやすみ」 「おやすみなさい
C661 雫「そういうあなたは立ちなおり早いわね」 「そういうあなたは立ちなおり早いわね」
C711 B「シーッいるいる」
E「いたぞーっ」
男D「いたか?
B「シーッいるいる」
絹代「しずく、かわいいのよ」(これはほんのささやきだが話しているかもしれない)
ナオ「ほんと
A「おすなよ」E「いたぞーっ」
C722 B「月島がおこった!!」A「コワイゾー」
男子「わっ、来た
B「月島がおこった!!」A「コワイゾー」
なし
C728 汐「しずく、ガブのみしたんでしょう!!」 汐「しずくガブのみしたんでしょう」
C744D 夕子「しずくだって才能あるじゃない」 「しずくだって才能あるじゃない」
C797 靖也「ヘェめずらしいナァ、しずくが物語以外の本を探してるなんて…」 「ヘェめずらしいナァ、しずくが物語以外の本を探してるとは…」
C805 雫「この人、ローヤでバイオリン作ってるんだ…」 「この人、ローヤでバイオリン作ってるんだ…」
C825 男爵「私といいなずけのルイーは遠い異国の町に生まれた」 「私といいなずけのルイーは遠い異国の町に生まれた」
C829 男爵「しかし、ルイーと私はしあわせだった」 「ルイーと私はしあわせだった」
C834 担任「どうしたんだ…、月島… …月島、……どうした?
C850 汐「塾の先生の口みつけたからなんとかやってける」

「塾の先生の口みつけたからなんとかやってける」

C860 汐「世の中甘くみるんじゃないわよ」 「世の中甘くみるんじゃないわよ」

C869

靖也「なるほど…しずく、汐のいったとおりだよ」(実はこの部分、字幕でも「かい」になっているのだが、語尾がはっきりせず正確に判読出来ない。しかし、「…かい」とは思えない) 「なるほど…しずく、汐のいったとおりかい?
C869 汐「さっき高校いかないっていったじゃない」 「さっき高校なんかいかないっていったじゃない」
C869 靖也「汐…、しずくと二人で話をするから席をはずしてくれないか」(絵コンテでは文章体風だからこの変更は自然である) 「汐…、しずくと二人で話をするので席をはずしてくれないか」
C877 朝子「お父さんやお母さんにいえないことなの」 「お父さんやお母さんにいえないことなの」
C881 靖也「よし、しずく、自分の信じるとおりやってごらん 「しずく、自分の信じるとおりやりなさい
C882 靖也「でも、人とちがう生き方はそれなりにしんどいぞ。何がおきても誰のせいにもできないからね…」(絵コンテのままでは舌足らずだからこの追加は自然である) 「でも、人とちがう生き方はそれなりにしんどいぞ。誰のせいにもできないからね…」
C922 西「しかし…せっかくの作品だから、時間をかけてゆっくり読みたいがなぁ」 「しかし…せっかくの作品だから、時間をかけて読みたいがなぁ」
C943 西「しずくさんのきり出したばかりの原石をしっかり見せてもらいました…」 「しずくさんのきり出したばかりのみずみずしい原石をしっかり見せてもらいました…」
C958 西「バロンは待ってるっていうんだ」 「バロンは待っているというんだ」
C962 西「それまで恋人の人形をあずかってほしいとその人に約束してね」 「それまで恋人の人形をあずかっていてほしいとその人に約束してね」
C1008 聖司「みるときくとは大ちがいさ。でも俺やるよ。」「明るくなって来たな」 「みるときくとは大ちがいさ。でも俺やるよ。」「ワァ、明るくなって来たな」

 微修正がほとんどだが、注意して欲しいことが二つある。一つは靖也の言葉が全体に柔らかく変えられたこと。これは声優に立花隆を起用したことと無関係ではないだろう。二つは男爵の恋人の名がもともとルイーザだったこと。これはかなり大きな変更といえる。
P11 引用は厳密を心がけた
 映画の内容にしろ文書にしろ、論述の基礎になる資料である。基づく資料に誤読があっては何にもならない。先行書にそういう例を見ているので念のために触れておいた。と言いつつ、私自身もとんでもない間違いをしてしまったのであまり偉そうなことは言えないのでした。そのかわり、引用文自体は正確だと思う。
P11 ビデオ、DVD等
 テレビ・モニターで見る場合、ワイド画面に設定しても画面の左右が幾分落ちてしまう。我が家の25インチ・テレビでは間違いなくそうだ。ワイド・テレビでもそうかどうかは確認していないので判らない。落ちの有無を確認するのが一番簡単なカットは家族三人の団欒の時。右手に勉強中の雫が完全に映るなら落ちはないが、僅かしか映っていないなら落ちがある。
 落ちがあるとカレンダー・チェックにも支障が出るし(特に汐と喧嘩中のカレンダー)、冒頭の夜景のわずかなFollowもよく判らなくなるなど特に背景に問題が生ずるので注意して頂きたい。
 私は微妙な部分の確認にはパソコンを使用している。これなら落ちは絶対ない。
 DVDのおかげで映像分析の精度は格段に良くなった。一こま送りや拡大も容易で細部まで具に見ることが出来る。私の分析もDVDなしでは不可能だっただろう。デジタル化に伴い、映画の分析法が画期的に変わる予感がする。

P11 カメラワークの用語
 正直なところ私も詳しくない。絵コンテを見るようになってから覚えた程度なので細かいことまで説明する力はない。絵コンテ全集の解説か、カメラワーク関係の本を参照して欲しい。ここに紹介しなかった用語で本論に使ったものが三つあるので補足しておく。

 off … 発話者が画面に出てこない科白。
 SE … sound effect のこと。効果音。
 TILT UP … PAN UP と同じ。

1.オープニング〜夜景〜
P12 『平成狸合戦ぽんぽこ』のラスト・シーンを紹介しよう。
 『スタジオジブリ絵コンテ全集9 総天然色漫画映画平成狸合戦ぽんぽこ
(二〇〇一 高畑勲 百瀬義行・大塚伸治 徳間書店)
P12 『耳をすませば』の冒頭(C1)はこの最後の場面と完全に一致する。
 絵コンテには「空から見る大東京の夜景。光の海、明滅するものとか色もいろいろ。」とある。
 二つの場面の同一性は実際に両作を観ていただくのが一番早い。異論が出る余地はないだろう。このことについては他書にも既に言及がある。しかし、その意味づけは私とは異なる。
P12 この連続性は制作過程にもはっきり現れている。
 『ぽんぽこ』の作画・美術の完了は資料からは不明だが、「制作中間レポート」にスケジュール表がある。一九九四年三月公開予定が七月一六日までずれ込んでいるので四ヶ月の遅れがあることから推定すると四月末から五月初旬と考えられる。一方、『耳をすませば』の作画開始は五月一六日なのでほとんど猶予なしに突入したようだ。
P12 原作の『耳をすませば』には特定の場所を伺わせるものは何一つ無い。
 「県立図書館」だけではどうしようもあるまい。
P15 『ぽんぽこ』は多摩丘陵の開発を狸たちの立場から徹底的に糾弾し尽くした
 もとより『ぽんぽこ』は単なるプロパガンダ映画ではない。そもそもそれだけで商業映画として成立するはずがない。私が指摘したことはあくまで『耳をすませば』との関連についてのみである。『ぽんぽこ』全体の考察はまた別の問題である。
P15 宮崎の『おもひでぽろぽろ』批判
 「あれ(『おもひでぽろぽろ』)は要するに『百姓の嫁になれ』って演出家が叫んじゃったわけですからね。東京の中でなにをゴタゴタ言ってるんだよっていう。でも、我々は東京にいるしかないものですから。そこまで言われてしまったら、先に進めないっていうんじゃないけど、もう等身大のキャラクターで作るっていうことに対して、いろんな功罪も含めて、極まったって感じがしましたね。」
(『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』宮崎駿 二〇〇二)
P15 高畑のファンタジー批判
 (『もののけ姫』に言及した上で)「現実生活より何オクターヴも高いトーンで繰りひろげられる超リアルなファンタジーの中に没入し、主人公の超人的な活躍に自己を重ね合わせ、感情移入し、勇気と愛に感動し、励ましを受け、生きる勇気を与えられる。素晴らしいことかもしれません。しかし、それがファンタジーとはまるでちがう現実の生活の中で、果たして有効に生かされうるだろうか。ある種の理想を実現してみせてくれるファンタジーに励まされ心が昂揚したことによって、以後、その人の人生が生きやすくなるのだろうか。生き生きとしはじめるだろうか。ファンタジーにひたることは、より良き人生のイメージトレーニングたりうるのか。……。わたしにこの根本的な疑念が生まれたのは、けっして最近のことではありません。」
(『映画を作りながら考えたこと U』あとがきにかえて 高畑勲 一九九九)
P15 相当に相手を意識している
 ここで紹介した双方の作品がいずれも連続して制作されているのは偶然ではない。
P16 カントリー・ロード
 映画の中ではエンディング・クレジットに「カントリー・ロード」とあり、『劇場パンフレット』でもそうなっている。
P16 "Country roads"と表記し、
 "Country roads"と表記した理由を縷々綴っているうちに重大な問題にぶつかってしまい、かなり悩んだことを告白する。一時、本論を書き換える必要があるかとまで考えてしまった。以下、その記録である。

 冒頭の"Country roads"は映画の中で「カントリー・ロード」と表記されている。原音に忠実ならこのまま地の文に使っても良かったのだが、あいにく"roads"の複数形が単数形に変えられている。「ローズ」では薔薇になりそうだから(英語では発音が異なるが)避けたのだろうが私には不満が残る。かといって「カントリー・ローズ」にすると引用文と地の文で微妙に違う言葉を使う羽目になり、見慣れぬ表記を読まされては読者が鬱陶しくなろう。そこで、面倒なので片仮名表記をあきらめ、原題の一部を使用することにした。これなら正確さは万全だ。
 何故私が単数・複数にこだわるのか。これは原意を忠実に記述するという意味だけではない。もっと大きな問題を含んでいるのだ。それは『"Country"と"Home"のどちらが「ふるさと」に当たるのか?』という問題だ。短い文章に似たような単語がある場合、えてして文意が曖昧になる。"Take me home, Country roads"の場合、読者の皆さんは次のどちらだと考えただろうか?
     (1)"Country"=「故郷」   "Home"=「家」
     (2)"Country"=「田舎」   "Home"=「故郷」
 当たり前だが本論を書くに当たって私はこの詩を読んだ。そして、(2)"Country"=「田舎」、"Home"=「故郷」と判断し、本論にもそう書いた。しかし、今、再確認していくと事はそれだけでは済まないことが判ってきたのだ。
 詳しく調べてみよう。まず、辞書によって見てみると(リーダーズ英和辞典第二版 研究社)

      Country  生国・故郷・地方・土地・田舎・郊外など
      Home   生家・家庭・生まれ故郷・故国など

 微妙にズレがあるがどちらにも「ふるさと」の概念がある。そこで"Country roads"という熟語で調べてみた。残念ながらそのものはなかったが、近所に並んでいる熟語を見ていくとほとんどが「田舎」の意味なのだ。
 country born(田舎生まれの)、country cousin(田舎者)、country folk(田舎の人々)、
 countryside(田舎)、country town(田舎町)

 一方、"Home"の方はもっぱら「家」か「国」に関わるものばかりだが、たった一つ"homefolk"(故郷の家族・友人)がある。

(補足)
"Webster's new world dictionary"で追加しておく。
 country cousin : a rural person not used to city life and confused or excited by it(明らかに田舎の意味)
 country music : rural folk music(これも田舎
 country seat : a rural mansion or estate(やっぱり田舎
 "rural"には故郷・生地の意味合いはまるでないので「田舎」と見る以外にない。一方の"home"にはそれらしい熟語がなかった。

 辞書による場合、(2)"Country roads"=「田舎道」、"Home"=「故郷」の方が妥当という結論が出る。
 次に"Take me home, Country roads"の歌詞を調べてみよう。肝心なところは三番の後半三節だ。

     The radio remind me of my home far away
     And driving down the road I get a feelin'
     That I should have been home yesterday, yesterday

意訳してみると「ラジオがはるかなhomeを思い出させる。そして、昨日までいたhomeを偲ばせる道を私は(車で)走っていく。」のようになる。大事なのはここに出てくる"the road"(単数)がhomeにある道ではなく、「homeを偲ばせる道」(the road I get a feelin')だということだ。リフレインを除けば、この詩の中に出てくる"road"はこれ一つだ。この唯一の道がhomeにある道ではないとすれば、リフレインの"Country roads"がhomeの道であるはずがない。"Country roads"は「田舎道」、自動的に"Home"が「故郷」なのだ。そうでないとこの詩は何がなんだか判らなくなる。
 もう一つ述べたい。仮に"Country"を「故郷」、"Home"を「家」と考えると題名は『故郷の道よ、私を家に連れて行っておくれ』となるだろう。しかし、この訳はおかしいのだ。なぜならこの場合、この詩の人物は現実に故郷の道を家に向かって走っていることになる。あるいはそのように空想している。とすれば、道は今走っている道ただ一つだから"the country road"と単数になっていなければならない。事実、歌詞の中でも現実に走っている道は"the road"と単数になっている。従って、複数形"Country roads"は「田舎道」(複数)と考えるほかないのだ。故郷を偲ばせる道ならいくらでもあり得る。
 いずれの場合も(1)は誤り、(2)が正解となる。
 以上の考察で、何故私が「ロード」(単数)と「ローズ」(複数)の差にこだわるのか、地の文に原題を使用したか理解して頂けたと思う。私は好んで英語を使ったわけではない。最初に原題をあげ、後は片仮名で処理してもだめなので、英文で通すしかなかったのだ。…と、ここまでは本論を執筆する段階で確認してあった。だから私は本論に『田舎道よ、私をふるさとへ連れて行っておくれ』(p.16)と書いた。問題はこの後に発生した。
 前述したように、"Country"を「故郷」の意味だと錯覚すると"Home"のほうが「家」の意味になってしまう。原題が『故郷の道よ、私を家に連れて行っておくれ』では誤解もいいところだ。ところが、制作者自身が錯覚しているふしがあるのだ。『劇場パンフレット』所収の「もうひとつの原作 カントリー・ロード」の中に次の一節がある。

『宮崎プロデューサーが、この曲を繰り返し聞いているうちに「いったい、いまの中学生にとってカントリー(故郷)って何なんだろう」と考え始めたところから、今回の映画化構想がふくらんでいったのです。』

 これを読む限り、宮崎が"Country"=「故郷」と考えていると思うほかはない。原題訳の「カントリー・ロード」(単数)と原題の"Country roads"(複数)の違いに注意を払わなかった結果だろう。この映画は制作冒頭から大きな誤解を抱え込んでいた恐れがあるのだ。
 制作者の誤解は本論の「セッション」と「エンディング」に深刻な影響を及ぼす。なぜなら、「セッション」で私は「カントリー・ロード」=『地球屋に向かういろは坂』、「ふるさと」=『地球屋』と書き、「エンディング」でそれを再確認しているからだ。私の解釈はもちろん、"Country roads"=「田舎道」、"Home"=「ふるさと」を下敷きにしている。しかし、制作者の誤解がこの場面に及んでいる場合、「カントリー・ロード」=『いろは坂という故郷の道』、「故郷にある家」=『地球屋』と考えて構成した可能性が出てくるのだ。この場合、「ふるさと」は多摩丘陵である。私が深刻に悩んだのはこのためだ。
 しかし、悩みは無事解消した。それは、たとえ制作者が誤解をしていたとしても、映画内の訳詩を書いた鈴木麻実子がその誤解を共有していないと気づいたからだ。

 カントリー・ロード この道 故郷へ 続いても

 何のことはない。鈴木は「この道」は故郷の道ではない、とはっきり書いているのだ。私は宮崎の誤解に慌てて、思わず訳詩自体を忘れてしまっていたのだった。鈴木は原題を正確に理解していたのだ。
 ここでは、制作者レベルの誤解を問題にしているので訳詩者は鈴木だと書いた。しかし、映画の中では雫の訳詩だ。つまり、雫は原題を正確に読みとっていたのだ。従って、私の解釈を変更する必要はない。私の心配は杞憂に過ぎなかった訳だ。
 『劇場パンフレット』には有効な情報に混じってとんでもないものもあるのだが、これほど大きな落とし穴は他にないだろう。泰山鳴動して鼠が一匹も出なかったのは幸いだった。この問題についてはP45の注などにも書いた。
P16 "Country roads"と表記し、
 前注のように外国語の表記をどうするかは常に頭を悩ませる。本論では人名・地名・楽器名が多く登場するので処理の仕方をいろいろ考えた。読者には煩雑なだけに思えただろうが書く方はそれなりの正確さを保つ必要がある。
 人名・地名については片仮名表記を優先し、原表記は主に初出に限定した。これはあらぬ誤解を招く心配がないので片仮名基本で構わない。但し、人名・地名に英語圏のものがなく、仮に音楽や地理に詳しくない読者が調べようと思っても原表記が判らないと困る場合がある。そのあたりの事情を考慮して原表記をなしには出来なかった。文字は名詞の語頭のみ大文字にした。この注でも同様である。但し、引用の場合は原表記に従っている。"Country roads"は『劇場パンフレット』の表記に依っているし、”ZÜRICH”は画面に出てくるとおりにしてある。
 楽器名は片仮名表記の後に原表記を複数あげた。これは言語によって呼称がだいぶ異なっていることと日本語表記が複数流通していることが理由である。ヴァイオリンやリュートは英語だし、ガンバやコルネットはイタリア語だ。しかもコルネットは現在、別の楽器の呼称になっている。本論であげた表記については楽器紹介のところで説明するつもりなのでそちらを参照して欲しい。
P16 『おもひでぽろぽろ』から引用してみよう。
 スタジオジブリ絵コンテ全集6 おもひでぽろぽろ
(二〇〇一 高畑勲・百瀬義行 徳間書店)
P16 タエ子の言葉に二度使われているが
 『おもひでぽろぽろ』の中で「ふるさと」に言及されているのは次の二カ所。
(C28-16) トシオ「まあ、自然と人間の共同作業っていうかな。」
(C28-17) トシオ「そんなのが多分田舎なんですよ。」
タエコ「そうか…、それでなつかしいんだ…。生まれて育ったわけでもないのに、
    どうしてここがふるさとって気がするか、ずーっと考えてたの。」
(C35-3) バンチャン「タエ子さん、あんた、こごが好きかい?」
タエ子「ええ、とっても。もうすっかり自分のふるさとみたい。」

 ここで使用されている「ふるさと」の概念も本論で述べた三つの要素を含んでいることが判る。

P16 この事情は『ぽんぽこ』においても全く変わらない
 『ぽんぽこ』が「ふるさと」に触れているのはたった一箇所である。敗れた狸達が昔の風景を再現した時、BGMに文部省唱歌「故郷」が引用されているのだ。
P17 制作者は「ふるさと」をどのようなものと考えているのだろう
 『もうひとつの原作「カントリー・ロード」』には「都会の新興住宅地に育った雫にとっては、緑の大地や母なる山は縁遠いものです。」とあるだけである。「ふるさと」の概念を示すというよりは、原詩と訳の相違を強調している文章になっている。しかし、この文章にも私が抽出した「ふるさと」の要素が前提としてあることは間違いない。

P17 "Country roads"の原詩は何を詠っているだろうか

 原詩全体は本論と直接関係しないが、ここで紹介しておこう。日本文は拙訳。原詩の押韻箇所は下線をしてある。誤訳があったなら指摘して頂きたい。

Country roads, take me home
to the place I belong
West Virginia, mountain mamma
Take me home, Country roads. 

田舎道よ、連れて行っておくれ
私がいた故郷へ
西ヴァージニア、母なる山へ
連れて行っておくれ、田舎道よ
 

Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains(*1), Shenandoah river(*2)
Life is old there, older than the trees,
younger than the mountain, blowin’ like a breeze.

天にもまごう西ヴァージニア
ブルー・リッジ(青い尾根)山脈、シェナンドー川
人生は古い。木々よりも古いが山よりは若い。
そして、一陣のそよ風の如く吹き抜けていく
 

All my memories gather round her(*3)
Miner’s lady, stranger to blue waters
Dark and dusty painted on the sky
Misty taste of moonshine, teardrop in my eye.(*4)

故郷の色々な思い出が集まってくる
鉱夫の細君、大海原に向かうよそ者
空に描いた闇と埃
月明かりの仄かな香り、私の目に流れた一粒の涙
 
I hear her voice in the mornin
Now she calls me.
The radio reminds me of my home far away.
And(*5) drivin’ down the road I get a feelin
That I should have been home yesterday,
yesterday.
 
朝、故郷の声(ヴァージニア訛りか?)がして、
私を呼んでいる
ラジオで遙かな故郷が蘇った
だから昨日までいた故郷を思わせる道を(車で)駆けていこう

*1 アパラチア山脈の南に平行する山脈。北カロライナとヴァージニアの北西を走っている。
*2 アパラチア山脈とブルー・リッジ山脈の狭間を流れ、ポトマック川に合流する。面白いことに(*1)(*2)の二つの地名は西ヴァージニア州には存在しない。どちらもヴァージニア州の西方にある。だからWest Virginiaとは州ではなく、Western Virginia(ヴァージニア西部)のことを指しているのかもしれない。
*3 これ以後、女性人称代名詞が三回出てくる。英語は名詞の性を喪失しているが、たまに先祖返りすることがある。ここで該当する可能性がある「州」「山」「川」はどれも元女性名詞なのでshe, herと呼んでよい。私は「州」だと解釈したが、これでは野暮だから「故郷」とした。
 ついでにVirginiaの名は生涯独身を通した英国王エリザベス一世(Elisabeth T,在1558-1603)にちなむから女性名詞がふさわしい(本来、Virginはマリアを指すのだが)。
*4 一瞬eyeは複数の間違いではないかと思ってしまうが、押韻のための措置であろう。
*5 このあたり、she, herとradioの配列が逆なので少し悩ましい。それにカー・ラジオの可能性もあり得る。それならば、幾分解釈が変わるだろう。

P18 「ふるさと」考
 言葉のシニフィエ(「意味」の言語学用語)は実体性を持たないのでこの章で「ふるさと」を三つの要素で定義したのは少々問題があると意識している。しかし、「ふるさと」と「生地」は現代において既に対立したシニフィエを持つと考えられるので概念要素の抽出をする他なかった。本論では「田舎」「里山」「自然」などの類義語も挙げてあるのでそれらとの相違から考えてもらえばよいと思った。こういう論議は面倒なので言語学の本でも読んでもらうことにしよう。

P18 『故郷』
 高野辰之 作詞 岡野貞一 作曲 大正3年6月『尋常小学唱歌(六)』所収。
 市販の『文部省唱歌集』は簡単に入手出来る。

P19 今は故郷にいない
 故郷概念を抽出した時に最も大事な要素がこれではないかと考えた。不思議なことに辞典類ではこの点を指摘したものが見当たらない。辞典に載っていないからそんな概念は存在しないなどと考えたならば本末転倒である。過去にそのような概念がなかったとしても今は存在するならばそう記載するのが辞典の責務であろう。ないのは辞典編集者の怠慢にすぎない。実際に使用されている状況を考えてみれば、「故郷とはその外部にあって見る存在である」ことは誰でも知っているのではないだろうか。分析は既成の概念に安住していてやれることではない。

P19 『故郷の廃家』
 犬童球渓 作詞 ヘイス 作曲 明治40年8月『中等教育唱歌集』所収
P20 啄木の『一握の砂』
 石川啄木(1886-1912)の第一歌集。明治43(1910)年出版。上記の曲の成立時点を考えるとこの時期の前後が故郷概念の形成期ではないかと推測される。日露戦争終結(1905)直後である。
P20 「上野駅」
 私は昔から歌謡曲に詳しくないのだが、『北の宿から』のように演歌に「上野駅」が多く登場したこと位は知っている。現在では、演歌そのものが主流ではなく、「上野駅」が登場することもなくなった。これは「ふるさと」の喪失と無関係ではないだろう。同時に皮肉なことだが、「東京」を読み込んだ歌も少なくなった(『東京ラプソディー』『東京行進曲』など)。これまた、「東京」を「ふるさと」と認識する人が減少したことを意味しているかもしれない。
P21 "Country roads"が流れている間のカットを順番に並べてみよう。
 絵コンテは次のようになっている。

(C1)

空から見る大東京の夜景。光の海、明滅するものとか色もいろいろ。
→Follow0.1ミリ/1k カットいっぱい、しっぱなし。
↓P.Dしていくと
そこだけ光のない帯が見えて来る。多摩川。
橋には光の虫がいきかい、手前では光の百足がわたっていく処(トーカ光)
メインタイトル「耳をすませば」
(C2) ←Follow 1k0.1ミリ
杉の宮の町に進入していく電車(in不要)
平面にちらばって星のような光の中に島のように街の中心部がひときわ明るい<く?>浮かんでいる。
<右下>車流れている。<左下>畑もある。
(C3) ←Follow 1k0.1ミリ
杉の宮の中心部。高架駅にゆっくりとまる電車。(長い)
車にぎやかに。人も少しかく。
☆駅ビルの大看板 Keio 目印になるように。
(C4) ↑PU 1k0.1ミリ
杉の宮の丘へつづく目抜通り。のぼり下りの車もみえたりして。
店、イバラード的にキラキラと。
(C5) ←Follow 1k0.1ミリ わずかな密着マルチ。
坂の上。下界に杉の宮の中心部とまわりの光の無数の点。
みえかくれの道路を行き来する車の光。
光の百足は更に進んでいく(スライド)。
☆車、次のカットにつながるように…。
(C6) 丘の上の家々(実は地球屋のアトリエ)
あけ放ったドアからジイさん出て来てベランダから外を見る。
サーッとヘッドライトがよぎって車がin outする。
(C7) 地球屋のテラスから見た夜景。
電車はとなりの向原駅にむかっていく。団地の町。
スプロール化しているとはいえ、まだ水田も残り、二つの駅の間は建築少く。
国道を走る車の光もみえる。
遠くに多摩川、眼下に大栗川<絵コンテではまだ「小豆川」は使用していない>。
<向原団地近辺>明るい。ネオンもチラチラみえる。
(C8) 踏切り脇の駅へすべり込んでいく電車(すでに通過中)。
光よぎる(ダブラシ処理。スーパーはダメ)。<これは電車の周囲への指示>
電車とまり、踏切りあく。わたっていく人、車。
わたって来る人、夜もおそくあまり多くない。
めんどうでも電車のドアあける。
<左上>陸橋
(C9) ガランとしたせこい駅前。
もう終電も近く、商店やパチンコ屋の灯も消え、コンビニばかり妙に明るい。
駅から人がはや足に散っていく。
なんでもない郊外の日常の一場面。
☆タクシー、カット尻ではなくカット中央以前に通過すること。

(C10)

コンビニの入口。通る人。出て来る少女(2歩位来てドアあく)
窓に手前(駅の方)の光スーパーする。
しずく(Tシャツ、短パン)、ビニール袋に牛乳パック入れてる。左にFr.O。
(C11) 商店街のはずれ。カッカッと進んでいく人々、パラパラと。
しずく、inして奥へ。
チラッと手前みてななめにわたり、左の道へきえていく。Fr.O
(C12) 向原団地の夜。水銀灯。<俯瞰の図解の書き込み>裏口風に。
↓PDすると、灯の下に少年達がムレている。
<雫のスタート指示>PD中、この絵でアタマからinする位に。
階段をのぼっていくしずく(in不要)。軽るく<ママ>、小走り風に。
一寸何かあいさつをかわすかんじで、奥へ。
<階段の指示>ほそいかいだん。
(C13) 団地の裏。入口のひとつ。(カラ12k)しずく入っていく。ガがとんでる。
<右下>カバーかけた単車。
<雫>Fr.O
(C14) <雫>カット頭すぐin。のぼって来るしずく。トントントンとかるく。
団地のむこうの一般住宅の谷間を見えかくれに電車がとおっている。
上から顔見知りのおばさんがおりて来る。(手にザル)
雫「今晩は」一寸ゆずり、挨拶する雫。
女「あついわね」
<雫>やりすごし、とんとんとかけのぼっていく。OUT
おばさん、OUT不要。


 ご覧の通り、大変細かい指示が書かれている。これ以降も同様なのだが、全てを紹介していたらきりがない。ある程度要約する必要があることをご理解いただきたい。以後、絵コンテの引用に際しても全文を挙げているわけではなく、適当に割愛してある。
 この場面で注意して欲しいのはC1〜C5の俯瞰撮影の時、画面が絶えずわずかに動いていることだ。一こま0.1ミリとは実に細かい。もちろん空中移動カメラを模倣している。止めてしまうとかえって不自然になる。
P21 杉の宮駅
 先取りであっさり杉の宮と書いたが、オープニングで名前が判る訳ではない。ついでなので映画に現れる地名についてまとめておく。いずれも初出のみに限定する。

向原駅 … 8月22日、図書館に向かう雫が利用する(C174)
杉の宮駅 … 同日、車中のアナウンスで知れる(C177)
三沢4丁目 … 同日、雫が車と接触しそうになった場所(C238)。
ヶ丘 … 地球屋前のロータリーの電信柱にある。地球屋の住所もここだろう。
杉宮図書館 … 雫が見る貸出カードの表示(C339)。図書館入り口には「杉の宮」とある(C817)。
杉の宮5丁目 … 9月5日、登校途中の雫と夕子の向こうの電信柱(C360)。ここまで杉の宮が出張っているのは少々解せない。その横の家が武重さんなのはご愛敬。
向原3丁目 … 走り去る杉村の右の電信柱(C657)。こちらの方が自然。その代わり、西老人に送ってもらった雫の向こうにも向原3丁目の掲示板がある。団地と中学校は同じ住所だが、これは無茶だろう。

 「向原団地」、「向原中学校」、「小豆川」、「いろは坂」は映画自体にはなく、劇場パンフレットによらなければならない。
絵コンテでは「向い原団地」「大栗川」(これは実際の川名)「いろは坂」とある。中学校名はない。
P22 西老人
 彼をこの呼称にしたのは私である。絵コンテには「ジイさん」「西」「おじい」「じじい」「西司朗」などと書かれている。他の人物呼称は基本的に名前にしてある。「雫」「聖司」「靖也」「朝子」「汐」「夕子」。杉村は名前不詳なので「杉村」。西老人はどうしようか困った。原則通りなら「司朗」でいいのだが、この人はこの映画に登場する唯一私より年長(あくまで設定年齢で)の主要人物なので呼び捨てにしたくなかった。「西司朗」では他と釣り合いが取れないので「西老人」と決めた。文章に出てきてもさして違和感はなかったと思う。「南」「北」も私より年長だが登場も少ないし、老人ばかり書いたらセッションが読みづらくなるので失礼かとは思ったがやめておいた。
2.家庭環境
P23 最初に玄関。
 初稿段階では詳しく書き出してみたので紹介する。
 「最初に玄関。ただでさえ狭い玄関にやたらと物が溢れている。とにかくすごい。山積みされた新聞紙、傘立て、何故か段ボールに入った野菜類まである。段ボールの向こうにCoopと書かれた袋らしきものと長靴がある。その後ろに靴箱があるのだが、手前に引く戸がその袋や長靴に邪魔されて開けられそうもない。どうしているのか心配になる。靴箱の上には意味不明の箱やら小物入れがあり、花瓶に挿したドライ・フラワーは相当肩身が狭い思いをしている。左の壁に掛けられたクリスマス用の花輪は何の意味か?その下にはなんと灯油缶が置いてある。この辺りは冬もの置き場らしい。」
 絵コンテには「ありがちな玄関。片づいていないわけではないが物がありすぎる」とあるだけだが、絵自体は映画の背景に近い。
P23 月島家の住環境があまり芳しくないこと
 映画では判らないが、雫はこの家で生まれ育ったと推定される。家に物が多いということはそこに長いこと住んでいることを暗示させるのだ。靖也と朝子の結婚は二〇年程前になるが、結婚以来の住処なのだろう。
P23 続いて居間。
 ベランダから居間を映すカットには廊下の壁に貼ってあるポスターが正面に見えている。「PADOR展」とあるがPADORの意味が判らない。画家の名ではなさそうだ。絵自体はルオーあたりの感じだが…。綴りそのものも「PADOR」「NPADOR」「PAEDOR」と三通りあるので当てにならない。Nで始まるとスワヒリ語らしく感じるが詳しくないので考えない。ポンパドール夫人(Pompadour 1721-1764 *1)も連想したが綴りが合わないので却下。居間を映す度に見えているので気になるが解釈しようがない。
 居間について、絵コンテには特に書き込みはないが、C20のところに「雑然とした台所」とだけある。又、PADORのポスターは描かれていない。

*1 フランス国王ルイ15世(在1715-1774)の寵姫。才媛として知られ、百科全書刊行など文化保護者として有名である。政治面でも活躍し、長年のオーストリアとの対立を解消し、同盟成立に尽力した。普通、ポンパドール夫人と呼ばれているが、ルイ15世からポンパドール侯爵領を与えられていたので正確には女侯爵(marquise)である。
P23 朝子があまり熱心な主婦とは思えない
 誤解のないように言っておくが、私自身は別に伝統的な夫婦観を持っているわけではない。しかし、月島家の家庭状況は明らかに妻が家事をすることを前提にしており、それに基づいて記述したに過ぎない。映画内と異なる価値観によって靖也や朝子を批判するのは簡単だが私の分析法とは異なる。
P23 本棚には本がぎっしりと押し込まれている
 我が家も似たり寄ったりな状態なので妙に親近感が湧く。我が娘などは「うちと同じじゃん」と笑っていた。
P24 両親の名前すら判らない
 これからもそうだが、映画が与える情報と他の資料が与える情報は厳密に区別しなければならない。両者を混同すると取り返しの付かないことになる。情報の出自を明確にしておく必要があることを知っておいてもらいたい。同時に「映画の中では両親の名前が判らない」ということも一つの情報なのである。私は最終章でこの情報を利用している。
P24 クレジット
 英語でcredit。手元の英和辞典によると「映画・演劇・番組などのプロデューサー・ディレクター・俳優・技術者の表示」のこと。基本的に「謝辞」の一種だが、acknowledgeに比べると無機的な用語である。本論の「あとがき」は後者の意味である。映画の業界用語に不慣れなので念を入れた。

P24 表札やらなにやらを利用して
 原作はこの方法で雫の家族の名前を提供している。それ以外に名前は一切出てこない。

P25 演出上の理由で無用な情報が盛り込まれていることもあり得る
 分析を始めた当初からその用心はしていた。家族の紹介文だけでも違和感があったし、他の文章にも意図してかどうか判らないまでも映画自体と食い違う記述がなされていると気づいていた。結果的にこの用心は賢明だった。
P25 後の部分は引用しない。
 全文は次の通り。「雫の父。市立図書館司書。本業は一文にもならない郷土史家。家でもワープロにむかって著述にいそしんでいる事が多い。早々に子離れを宣言して、娘達へとやかく口を出さないのを信条としている。物判りが良すぎて、子供を苦労させる典型的タイプ。しかし、大切なことは、ふたりの娘を愛していることである。」
 靖也の本当の姿は家族会議で判る。この文章を鵜呑みにしてはならない。
P25 靖也は多摩史を研究している。
 八月二一日、財布を忘れた朝子が居間に入る画面(C44)に積んである本も映っている。その一冊が「多摩の昔語」である。靖也の研究ジャンルは民話関係かもしれない。
 厳密に言えば、他郷の人が多摩に住み着いて郷土史を研究しても構わない。靖也は市立図書館の研究員ではなく司書だから、今後他の図書館に転任することは確実だ。しかし、彼の蔵書量から見て現在の図書館に勤める以前から必要な文献は収集してきたようなので問題はないだろう。そうではあるが、郷土史研究の基本が郷土愛であることは動かない。無理に他郷の人にするより地元出身者とする方が自然である。
 前引の先行書で靖也を他郷出身者にする理由は判らない。朝子の方が都会派に見えるからだろうか。まさか声優から判断したのではあるまい。
 『となりのトトロ』に登場するくさかべ氏は考古学者である。サツキ・メイと雫には『学者の娘』という共通性がある。両家とも本がやたらと多い。
P25 母・朝子
 全文は次の通り。「雫の母。活発でエネルギーに充ちた女性。子離れした後、自分のために勉学を再開した。現在某大学大学院に在籍中。家事と勉学の両立に奮戦してる。娘達に口を出さないところは、靖也以上といってよい。無関心ともとれるが、雫の様子の変化には十分気がついている。」
 事実以外は使えない。末尾の文章などどういう意味かと思う。
 朝子と雫に相当距離を作り出した結果、ここでも『となりのトトロ』との類似性が見出せる。母親に対する感情の違いはあるが基本的に「不在」に近い状態なのだ。特にメイの場合、しっかり者の姉がいるため、ますます雫と類似する。
P26 卒業
 通常の大学ならば「卒業」でよいが、大学院の修士・学士の場合は正確には「修了」と言う。証書も「卒業証書」ではなく「修了証書」である。正確を期しても良いのだが、「修了」という言葉はあまり馴染みがないし、映画の朝子の科白にも「卒業」とあるのでこちらを採用した。この点については私の弟から教示を受けた。ちなみにこの男、40過ぎてから教職を捨てて学士を目指しているという朝子以上に過激な人物である。朝子程度で常識はずれ扱いしたら失礼みたいなものだ。
P27 四年制大学・二年制大学のどちらに通っているのかは不明。
 厳密さを心がけてこう書いた。慣用的な言い方では「大学・短大」になるから汐は四年制大学に通っている確率が高い。
P27 汐が主婦の立場を引き受けてくれた
 これも月島家の家庭観に基づいた記述。別に靖也が引き受けても構わないはずだが、月島家にその発想はない。
 宮崎アニメには元気な女性達が数多く登場するが、指導的な立場にある者達を除くと男女の役割分担は概ね伝統的である。例えば、『ラピュタ』でシータが海賊船に乗る事になった時の男達の反応はルイの「ヤッター、掃除洗濯しなくてすむぞ」、アンリの「皿アライもだ!」、シャルルの「イモの皮ムキもな!」である(C915,916)。『もののけ姫』のタタラ場は比較的男女平等だが仕事の分担そのものは完全な男女分業でさほど日本の伝統に逆らったものではない。病人達は男女区別がないが、一つの範疇を構成している。そして彼らも一つの分業体を形成している。

 家内が「主婦」という言葉に不満を表明している。人物紹介の言葉を使っただけなのだが、気に入らない人は「家事」とでも改めて欲しい。

P28 この連続した場面一つ
 絵コンテには科白の口調についての指示は書かれていない。これはアフレコ段階で決定されたことだろう。

P28 朝子は顔を上げようともしない
 絵コンテには「朝子(母)ヘッドホーンつけて、レポートを書いている。カオあげずに」とある。

P29 とうとう返事をしなくなった。
 絵コンテには「お母さんの言葉になにも反応しない」とある。

P29 ワープロプリンターを朝子と靖也が共有していることがうまく利用されている。
 研究に勤しむ二人だから相当不便だろう。二人の会話からもそれが伺える。

(C19)

朝子「ワープロあいた?」
靖也「いまプリントアウト中だよ」
朝子「やっぱりノートワープロ買おうかしら」
(C23) 朝子「ねぇ、この文章おかしいわよ」
靖也「エッ、どこ?」
朝子「一行ぬけてんのかしら、ここ」
靖也「…アッ、そうだいけね」
(C24) 朝子「ああさきかして、いそいでこれまとめなきゃ教授うるさいんだから…」

 これでは作業能率も上がらないだろう。朝子がワープロを欲しがるのも無理はない。九月になると念願のワープロを入手したので争奪戦は終止符を打った。その分、朝子がテーブルから離れなくなってしまったが。
P29 居間にやってくる(C18)。
 一つ謎がある。書斎にいる靖也が立ち上がる場面で勉強中の朝子の左側にテーブルに積んだ本が見えている。ところが、靖也が居間に入ってくるといつの間にか本が消えて新聞に変わってしまうのだ。朝子は勉強に熱中していて姿勢は変わらないし、雫は流しの方の椅子に座るところだから二人とも片づける暇がない。誰が片づけたのだろう。ベランダ側にいるカメラマンの仕業だろうか?この矛盾は絵コンテ段階から存在するので近藤・宮崎の責任である。

P29 「しずくも柏崎へいけばよかったのに…」
 柏崎は
新潟県柏崎市のことだろう。後に月島家にメロンが届けられた時(この場面は本論では省略してある)、箱に「日本海」と記してあるので間違いない(C494)。靖也、朝子どちらの親戚だろう。私は朝子の方だと推測している。理由は

@ 帰宅した汐と両親が柏崎のことを話しているときもっぱら朝子が話していること(C152A)。
A 柏崎から届いたメロンを朝子が靖也に断りもしないでお向かいさんに分けていること(C494)。
B 柏崎では汐に味噌や醤油を持たせたり、メロンを届けたりしているので農家の可能性が高いが、多摩出身の靖也の姉妹が嫁ぐ確率はかなり低いと考えられること。

以上である。状況証拠ばかりだが靖也の方に有力な材料が皆無なので可能性は高いだろう。

後述するように雫は"Country roads"の訳詩に当たって「ふるさと」とは何か考え込んでいる。しかし、それに際して柏崎が考察の対象になった形跡がない。その理由をここで挙げておこう。

@ 雫は多摩で生まれたと思われるので柏崎は「ふるさと」の定義「生地」に当たらない。
A 雫が訳詩を求められたのは合唱部の下級生のためである。西ヴァージニアを移し替える土地は皆に共通した多摩しかあり得ない。雫の個人的な事情で柏崎を利用しても何の説得力もない。
B 『おもひでぽろぽろ』を引き合いに出すまでもなく、柏崎は「田舎」と認識されている。このことは制作者が「ふるさと」と「田舎」の違いに自覚的だった事を示している。


 雫はこう考えて柏崎を考慮外に置いたのだろう。これは正しい判断である。

P30 雫の無愛想も気にしないのだ。
 絵コンテには「娘の無愛想にはなれている」とある。私の解釈とは若干異なる。

P30 雫はようやく顔を上げて
 絵コンテには「しずくカオあげ、どちらかというと無表情にブゼンと」とある。
3.貸出カード
P32 偶然起きた出来事ではない。
 原作ではたまたまカードが落ちたので拾ってみた形である。映画は制作者の意図で演出を変えてある。
P32 カードには単に見知らぬ名前が羅列してあるに過ぎず
 貸出カード問題は最終章で述べたとおりである。ここの記述時点で私はあえて虚構を真に受けている。本論を既に読んでいる方には言わずもがなだが念のため書いておく。

P32 雫は部屋に戻る
 C29を見ると壁に帽子と赤系の色のTシャツが掛かっている。翌々日図書館に行く時に着るものだ。翌日、学校に行く時に着る服がどこにあるのかは判らない。

P32 原作が「県立図書館」なのでそれに引きずられたのだろう。
 舞台が多摩丘陵なので県立ならば
神奈川県立図書館のはずである。しかし、雫が神奈川県に住んでいる可能性はない。
 雫の居住地が
東京都多摩市である証拠は次の通り。
(1) 八月二一日、学校図書館で本を借りる時、雫が「市立図書館にもないんだから」 と言っている。少なくとも県立図書館ではない。神奈川県ならば川崎市しかありえない。
(2) 八月二二日、雫が葉書を投函するポストに「都内」の表示がある。
(3) 八月二二日、雫がムーンを追跡してやってきたロータリーにある家の駐車場に置いてある自動車は「多摩」ナンバーである。これで神奈川県の可能性は完全になくなる。
(4) 九月六日、杉村に呼び止められる直前に雫が横切った「らあめん明明」の市外局番は多摩市の0423である。これで東京都多摩市と確定する。
(5) その後、再確認したところ、八月二一日、中学校の渡り廊下の横に置いてある大きなゴミ集積箱に多摩市と書いてあるのを見つけた。

 と真面目くさって書いたけれど、神奈川県立図書館は桜木町にあるので雫が中学校から歩いていくのはそもそも無理なのだ。この図書館には行ったことがあるが、雫の通っている図書館内とは全く似ていない。なお、電信柱に表示されている町名に特定性はない。

P33 『劇場パンフレット』の人物紹介
 雫の人物紹介は次の通り。「月島家次女。向原中学校三年生。勘の良い、自立心の強い少女。外では明るい元気な、男まさりのところもある少女と思われているが、家の中ではガンコで口数の少ない、かわいくない妹をやっている。なにしろ、姉がなんでも上手にやってのけ、美人で気性も強く、妹に対して支配力を行使するのだから、次女としてはそうならざるを得ない。雫の読書好きも、スポーツ好きで活発な姉に対抗した結果である。」
 月島家の家庭状況を考察する時に特にこの文章を意識しなかったが、結果的にはほぼ同意見になった。但し、同意見なのは状況であって、雫の性格まで信用してはいない。

P33 「鉱石」
 『となりのトトロ』の冒頭引っ越し場面、サツキとメイが乗っているトラックの荷台に積まれた本の中に「鉱物T」「鉱物U」「世界文学全集」「…の風土」などがある。月島家と本の傾向が実に似ている。

 その後、汐が雫のヘッドフォンを取り上げる場面(C444)で本棚に「ラマンサの冒険」という本があるのを見つけた。「ラマンチャの男」なら知っているがこれはなんだろうか?

(追記)「マンサ…」ではなく「マンサ…」にも見える。どっちみち内容不明ではあるが。
P34 「指輪物語
 最近、再び人気が高くなっているので知っている人が多いだろう。私が読んだのは岩波文庫で出版された当時だから一九七四年。最初の人気が出る以前だった。人気が出る前なのでこの作品がいかに画期的なものかあちこちで吹聴した記憶がある。日本語版には原本の地図や用語集が収録されていないので私は原本(UNWIN PAPERBACKS)を購入した。現在も状況は変わらないと思われるのでこの作品が好きな人は原本を入手することをお薦めする。日本語版より安価だし、英文自体も平易なので(「シルマリリオン」は擬古典文なので除く)いい教科書になる。

 この種の本の人気が出ると必ず謎本じみたものが発売される。私はこの類のものが大嫌いである。自分の思考停止につながるだけで新たな思索の手がかりにはならない。真面目な研究書ならうれしいのだが、えてしてそういう本は日の目を見ない。「指輪物語」は考える材料が非常に多い作品である。考える楽しみを捨てるのはもったいない。実は映画も一度も観ていない。これだけ創造性に富んだ作品を映像化するとかえって世界を狭める危険が高いのだ。映画が原作に負けてしまうのだ。過去にも『はてしない物語』の例がある。
(追記
最近遅ればせに地図や用語集も邦訳が出たらしい。
P37 雫の家庭状況はあまり芳しくないが、雫はたとえ夕子でも適度な距離を保っていたいので積極的には話題にしていない。
 八月二二日、雫と夕子の下校途中の会話に(夕)「いいなぁ、しずくん家は。勉強、勉強っていわなくて」、(雫)「あんまりいわれないのもつらい時あるよ」、(夕)「そうかナァ」とある。一応、お互いの家庭事情は知っているようだが、夕子には雫の家庭内の立場をよく判っている感じがしない。また、九月七日、雫が夕子の家を訪問した時、雫は夕子と父親がけんか中だと初めて知ったようだから、夕子もあまり家庭の事は積極的に話題にしていないと見られる。
 家庭の話題は人間関係を妙に近くし過ぎてしまう危険がある。双方の距離感が見失われて健全な関係が保てず、泥沼にはまりやすい。気を付けたいものだ。
P38 雫には自分の精神世界を共有する仲間が誰一人いない
 今後の映画の展開を理解するためにはこの貸出カードの場面から雫の孤独を見出しておくことが重要である。自立心にばかり気を取られていると雫の本依存症の原因を見失うことになる。

P38 精神的に孤独を抱えている空想家の自己防衛措置だ
 「はじめに」で書いておいたように私は小難しい心理学用語を振り回すつもりはないし、その用意もない。この場合も普通に理解してもらえばいい。

4.カレンダー

P40 判読可能なカレンダー
 もっとあるのは知っているが、どれも判読不明。紙数を増やすだけなので省略した。関心のある方は自力で頑張って探して欲しい。

 尚、8月21日夜、勉強中の雫なめに本棚に貼ったカレンダーがある(C153)。(1)(2)同様に一日が水曜らしい。最終日が判然としないので外してしまったが、加えておいてもよかったかもしれない。水曜始まりのカレンダーが三回も出てくれば、少なくとも8月は9月以降とは異なったカレンダーを用いていると考えて間違いなかろう。

P40 かなり風変わりなカレンダーである。
 制作者レベルでのカレンダーの扱いは前半と後半でかなり違う。宮崎の制作スタイルは絵コンテの完成を待たずに原画や美術の制作が始まってしまうので、前後の不整合が生じる危険性が多分にある。美術スタッフは原作とイメージ・ボードを下敷きにしながら制作に入ったと思われるが、カレンダーが重要な意味を持つとは意識していなかったようだ。背景のカレンダーは装飾的なものばかりが目立つ。原作には聖司の二ヶ月間の修業など存在しないからだ。八月の日付がやや不明瞭なのもそのためだろう。

P41 一九九四年九月〜一二月
 架空の一九九四年ではなく現実の一九九四年である。この種の調査はパソコンの内蔵カレンダーが一番便利。

P42 (一)(二)を同系統とみなすと七月に該当する。
 この計算に該当する最近の年は一九九二年。八月を算出すると一九日(水)・二〇日(木)・二一日(金)・二二日(土)になり、非常に都合がいい。しかも西老人が時計を作り始めた直後という絶好の年になる。捨てるには惜しいが仮定が多すぎることと八月自体が直接映画の中に現れてこないので躊躇した。
P43 九月第一日〜第三日は確実に連続している
 映画をよく見ていない人には不親切だったかもしれない。しかし、一度でも見れば、連続性は明らかだから気にしなかった。ここでも特に述べようとは思わない。『夕子の動向に注目せよ』で十分だ。
P43 この間の連続性が曖昧
 絵コンテにも何一つ書き込みがない。他の根拠(聖司の修業期間)から同日と判定した。八日も同様。地球屋の模様替えも七日に行えるので何とか矛盾しない。
P44 よってこの日は二四日(月)と決まる
 カレンダーの左端に僅かに二四日が映っているが、×を付けてあるかどうかは不明である。もっとも雫が帰ってくるなりけんかになったと思われるので、まだ×をしていなくてもかまわない。
P44 絵コンテでは二二日(土)になっているがこれではAと矛盾する。
 『人物紹介』もそうだが、絵コンテも重要な情報である。しかし、一番の基礎になるのは当然映画である。映画の情報とその他の情報が食い違った場合には映画を優先するのが当たり前だ。私が尊重するのは制作者の意図そのものではなく出来あがった映画が語るものである。
P44 マルがしてある一二日(土)はもちろん聖司の帰国予定日。
 厳密に言えば、「聖司のイタリア出発日」とか全く別の何か特別な日とかもあり得るが、常に深読みすればいいとも限らない。
 つい最近気が付いたことを書いておく。聖司と雫の婚約の日は一一月一一日の土曜日である。この日はエンディングの日でもある(理由は書かない)。そこに登下校中の中学生が描かれている。一九九四年は土曜日まで登校する最後の年なので矛盾しない。下校の時刻が夕方近い感じだが、部活動とか色々理由は付けられるから大丈夫だろう。
映画公開の一九九五年だとこの日は第二週なので土曜は休日になってしまう。
P44 夏時間
 イタリアは三月〜一〇月が夏時間になり、冬時間より一時間進める。おかげで夏は日没が一一時近くになる。
P44 往路が一日、復路が二日かかる
 選ぶ航空会社にもよるが、往路一日の便は私も利用したことがある。フランクフルトに二〇時に着き、マインツで二一時頃宿探しをするという冒険もした。こういう時は事前に宿を予約することをお薦めする。慣れていないと途方に暮れる。初日から野宿はつらい。もっとも一度、パリのホテルを予約していたはずなのにホテル側に記録がなく駄目になった経験もあるので最後は成り行きまかせと度胸が一番である。
 聖司の場合はミラノ行きが濃厚だが、ミラノ・クレモナは鉄道で六〇分程度なので直接クレモナ入りしたと思われる。
P45 第二日と第三日も連続している
 ここは最後まで悩んだところ。根拠を三例挙げてはいるが決定的な証拠でないことは承知している。しかし、仮に一日位間に入れてみても間延びするだけで演出上得るものがない。連続している方がはるかにいい。そうした効果も少し考慮した。「ほぼ間違いない」と書いたのはあまり強い書き方が出来なかった為だ。


追加)映画とはコマとコマの間に闇がある不連続体である。繋がっているように見えて繋がっていない。連続性は観る側が構成していると見るべきである。夜の場面に続いて朝の場面があるからといって連続しているとは限らない。ここの場面にしてもなんとなく通過することは出来ない。一応の確認は必要である。

P46 貸出期間
 画面上で確認出来る貸出日付返却日付は次の通りである。「とかげ森のルウ」のカードは二回の登場で内容が違うが、阿部幸夫は一度目の画面から取り、他は二度目の画面から取った。曜日はAが八月のカレンダー、Bが一九九四年のカレンダーである。Aは一九九〇年のものを使用した。

題名

貸出日 曜日A 曜日B 返却日 曜日A 曜日B 貸出期間 氏名
ウサギ号の冒険 6/28 7/05

天沢聖司

7/17 7/23 増山みどり
7/24 7/30 田中正美
8/2 8/09 近藤早苗
8/10 8/24 14 月島雫
炎の戦い 6/10 6/17

中井真理子

6/19 6/26

福田隆行
7/8 7/15

成瀬敦子

7/20 7/27

天沢聖司

8/15

8/22

月島雫
とかげ森のルウ(5) 6/20

6/27

阿部幸夫
6/28 7/05 宇土ひろ子
7/6 7/13 上野裕生
7/26 7/28 天沢聖司
7/30 8/06 谷雄一
8/15 8/22 月島雫
ハンブルグのポー 12/4 12/19

15

吉田幸夫
1/23 1/31 三浦美紀
2/2 2/07 田上今日子
2/12

2/26

14 永井聡美
5/11

5/18

月島雫
6/12 6/16 天沢聖司

 曜日は七日間に分散しているのでそのままでは休館日の割り出しには使えない。かといって、貸出期間の補正は推測ばかりになって結果に確証がないので行わない。絵コンテと同じものもあれば、違うものもある。貸出期間は七日間が多いがそうでないものもある。
 聖司の貸出期間に二日、四日という異常に短いものがある。これは読書速度の速さを表そうとした可能性がある。しかし、返却日付は図書館側が「この日までに返せ」という意味で書くものだから早めに返しても短くはならない。
 ついでに言っておくと原作の方の貸出期間は全部七日間で統一されている。映画中の借りた人の名前は全部原作の借用だから作画担当者が原作を見ているのは確実だ。つまり貸し出し期間の混乱は映画制作者が意識的に発生させたのである。その背景については後の注に推定を書いた。
P46 貸出日付が誤記だと認めた方がよい。
 返却日付を誤植とみなすと一七日に返却を済ませていなければならない。とすると、この日は一六日になる。いや、翌日が休みだから一五日でないと不都合だ。たった一日で三冊読むのは無理に決まっている。この手の本なら読もうと思えば結構速度は出るが、私でも三冊は消化出来そうもない(私も読むのは早い方なので参考まで)。
P46 三冊とも一五日以降に借りたものと考えて良い。
 一七日に一冊借りているところをみるとこの日か前日の一六日に最後の一冊を読み終わった可能性がある。すると、今の三冊の読み始めは一六日か一七日からとなる。二〇日までの四、五日間で三冊読み終えたことになるが相当な速度だ。いずれにしろ、二〇日以前に読了したとみるのは無理と考えられる。しかし、この推論は貸出日付が一〇日ではなく一七日であるという仮定を土台にしているのでやや弱い。この仮定はある程度の限定付きでしか利用しなかった。

P46 いくら雫でも四日で三冊はきついだろう
 雫は夏休み中に本を二〇冊読む予定だ。八月第三日段階で残り七冊読むということはそれまでに一三冊読み終わっている計算になる。単純計算ならば、夏休み二六日目、つまり八月一五日には読み終えていなければならない。しかし、貸出日付が明白な以上、第三日をこの日にすることは不可能だ。雫は二日一冊ペースを守れていない。
 市立図書館の貸出期間一週間を基礎にすると一二冊なら四週間分に当たる。この計算だと八月一七日になる。これも無理なことは明らかだ。映画の中の雫はかなり読書速度が速くなっているが、汐が居ない間に追い込みに入ったと見るべきだろう。
 雫の読書計画に遅れが出た原因の一つは明らかに"Country roads"の訳詩を引き受けたためである。八月の後半にようやく第一稿を作っている以上、依頼を受けたのは夏休み中に違いない。有名な曲だから図書館の視聴覚資料室でCDを試聴出来たはずだ。
 雫は読書計画を達成出来ただろうか。「聖司」・聖司・訳詩と三つも課題を抱えていてはとても無理に思える。

P46 どちらをとっても第二日が休日の土日にからんでしまう。
 一九九四年は土曜まで通常に授業がある最後の年である。翌年の一九九五年から土曜は隔週で休日になった。ただし、長期休業中の土曜はすべて休日扱いになる。雫の時間割を見ると、水曜五限、土曜四限、他は六限になっている。水曜の六限目は多分、必修クラブだろう。
 私の計算に不満がある人は八月一八日(木)〜二〇日(土)を採用したいかもしれない。これを積極的に否定する材料は残念ながらない。「ウサギ号の冒険」の貸出日付と九月五日との間隔の二つの理由ではやや弱いと判っているが、前注で述べたように少し読書速度が速すぎる気がする。八月中の日付は多少ずれても全体に影響はないので暫定的にしろ決めておいた方が都合がいい。私なりに最も整合性の高いものを採用したと考えてもらいたい。
P47 このカレンダーは八月中に登場する唯一の妥当なカレンダー
 八月一日が水曜になる一番最近の年は一九九〇年である。この年に積極的な意味があるかどうかは正直言って判らない。
5.中学校へ
P49 奥の棚の中央にあるのがそうだろう。
 画面でははっきりと断定出来ないが、絵コンテには「棚の時計を見る」と指示があるから間違いなさそうだ。
P50 雫の科白の()の中は絵コンテによる。
 原則として科白は映画を優先する方針だが、ここは得難い箇所なので紹介しておいた。

P50 胴に"HAVE A NICE DAY"と書かれている。
 この文字は絵コンテにはない。「今日はいいことありそう」という科白はそのままだから、絵コンテによる限り、雫がそう思ったのは『飛行船を見たから』と解釈しなければならない。映画では文字があるので、雫がそう思った理由は『この文字を見たから』とも考えられる。どちらを選ぶかは分かれるところだ。私は後者を取ったが前者でも構わない。原作では飛行船そのものに感激していて文字の方には関心がいっていないようだ。

P50 ここは四小節毎に調性が降下していく
 前にも書いたようにここの転調は明らかにハ長調→変ロ長調(♭二つ)→変イ長調(♭四つ)→変ト長調(♭六つ)という二度ずつの降下になっている。シャープ系の調が出る余地はない。
 平均律の場合、音は一二個しかないから変ト音と嬰ヘ音は同じになる。変ト長調と嬰ヘ長調は演奏上、まったく同じである。しかし、和声法の上では、別音である。安易に一緒くたにしてはならない。古典調律では、二つの音は勿論別音。変ト音はあまり使わないから嬰へ音に調律するのが普通である。
 調律の知識は本論を読む上では不要なので気にすることはない。今書いたことは私の方の都合である。

(追記)昨年(2006年)この曲を採譜して音にした。その結果、どうも転調については修正をする必要があると考えるようになった。
 中間部冒頭は旋律だけならハ長調のままと見てよいが低音はAsになっていて変イ長調と見たほうがよさそうだ。その次の転調も変ト長調を経ずにホ長調(変ヘ長調)に移っていると見られる。(2007.3.27)

P51 塀犬
 絵コンテの命名。「ドッグフードのくいすぎ犬」とおまけの書き込みがある。

P51 どなたかうまい図を描いて頂けないだろうか。
 雫は団地を出た通路を西に向かっている。通路が団地に沿って南に曲がっていれば、雫は通りを東に進むことになるのでなんとかなると思った人が多いのではなかろうか。ところが残念ながらその案はだめなのだ。雫が団地の通路から本道に出るカットをよく見ていただきたい。光が左から差している。つまり、雫は間違いなく南にではなく西に歩いているのだ (背景は確実。だが、雫は右から光が当たっているとも見える。とはいってもまさか東へは行くまいが) 。本道に出て右に曲がる以上、雫は北に進むことになる。
 画面には京玉線が映っていない。だから映画を信用すれば、雫は一旦京玉線を越えて北上し、また京玉線を越えて南に向かったことになるが、通学経路としてはまるで不自然である。向原団地と向原中学校の位置関係を考えると、中学校の方が南にないと具合が悪いから雫の通学路の問題は解決不可能である。(この問題はP60の注にも書いた)
P51 軟式野球部と軟式テニス部
 テニスは球音で軟式と確認出来る。野球の音はないが、中学校は軟式しか認められていないので間違いない。
P52 "Fairy Tales"
 ここのやりとりの中で高坂先生が「なにこれ、今までひとりも借りてないじゃん」と言っている。この本が寄贈されてから既に一七年経過している。この間、誰も借りていないとすれば、根本的に図書室の利用者が少ないか、雫と好みの一致する人がまるでいないか、いずれかである。雫が中学校で同好の士を見つけるのを断念しているのもよく理解出来る。
 そのせいだろう、雫はこの本が図書室にあると知っていながら、夏休み終盤のこの時期まで借りていない。その動機も市立図書館が休みでかつ読む本がないという理由だ。別にこの本が嫌いでないことは、読みつつ涙ぐんでいることで判る。とすれば、雫がこの時期までこの本を借りなかった理由は『貸出カードに誰の名前も書かれていないから』と考えられるのだ。又、「市立図書館にもないんだから」という言葉から、『学校図書室でこの本を知った上で市立図書館で探した』経緯がわかるので、雫が『学校図書室をあまり利用したくない』と考えていることが見て取れる。
P53 思春期の女の子にとってソバカスは重大事なのだ。
 夕子のキャラクター設定がアン・シャーリーをモデルにしていることは近藤と柊の対談に出てくる。お下げといい、そばかすといい、髪の毛の色を除けば一目瞭然だ。ただし、似ているのは容姿だけで性格はまるで違う。どちらかというと雫の方が似ている。現実を空想でくるむ性癖はアン譲りだろう。
P53 怒りの原因は別のところにありそうだ。
 私は夕子の言葉と実際の気持ちにずれがあることをこの場面で知った。私は好んで夕子の言葉を深読みしたわけではない。昇降口のカットと夕子の発言内容から夕子の性格を読みとることが肝心である。
 これ以後の夕子の言葉はいずれも含みが多く、真に受けてはいけない。
P53 時間に余裕を持った行動をとっていない
 学園物の主人公はどうして揃いも揃って遅刻屋さんが多いのだろう。ハルも二回の通学ともダッシュだった。

P54 第一稿全文
 英文字幕では次のようになっている。

 White clouds spreading up over a hill...
 a road winds up to the town.
 An old house with small windows...
 An old dog waits for me to come home...

 Country road leading far away...
 The road to my old home town...
 West 'Ginia, my mother the mountain...
 My good old home town.

 日本語訳の再訳なので"Country road"と単数になっている。これは雫の訳詩が「カントリー・ロード」を単数とみなしているためだから原詩の複数が改変されたのではないが、冠詞がないので固有名詞かと錯覚しそうだ。気になるのはリフレイン二節目で「故郷」が"old home town"とされていること。これだとまたぞろ「故郷」="Country"が復活しそうだ。"The road to home"でよかったのではなかろうか。

P54 ふるさとへつづく道
 雫が原題を正確に読みとっていたことがここでも判る。第一稿から第四稿までの訳詩を見ると"home"=「ふるさと」で一貫している。となると、反転して『劇場パンフレット』の文章自体に疑いがかかる。この文章は誰が書いたのか?出版担当は野崎透だが執筆者が彼かどうかは判らない。調べてみると、『スタジオジブリ作品関連資料集X』所収の「制作中間レポート」(1994.10.12 田中千義作成)に同文があるのを発見した。どうやら田中が錯覚したまま書いた文章をそのまま掲載した可能性が高い。地の文ならともかく、カッコ内の言葉だから不用意な扱いである。社内文書をそのまま流用するならば、それなりの慎重さが要求されるだろう。
 尚、『「バロンのくれた物語」の物語』(宮崎駿責任編集 一九九五)所収の宮崎の文章に類似の箇所があるが、そこには「故郷」はあるが、「カントリー」はない。
 関連することをP158の注に書いておいた。

P54 BCは原詩のほぼ直訳である。
 対応させると一層はっきりする。

Country roads, take me home, to the place I belong.
カントリーロードはるかなるふるさとへつづく道
West Virgenia, Mountain Mamma,
ウェストジーニア母なる山なつかしいわが町

P55 車を気にせずには歩くことも出来ない道
 これ自体はヨーロッパやアメリカの都市部でも事情は変わらない。町並み景観の善し悪しとは別問題である。

P55 "home to the place I belong"
 "take me home to the place I belong" この文章は"home"と"to the place I belong"が並列されている。"home"="place"なのだ。"home"は決して「家」ではない。

P55 絵コンテに『車を動かす』指示が何回出てきたか数える気もしないくらいだ。
 この注では本論に書けなかった色々な調査をしているがさすがにこれをやる気にはならない。
 と思ったがやってしまった。
番号 カット コメント
橋には光の虫がいきかい、
車流れている
車にぎやかに。
のぼり下りの車もみえたりして
みえかくれの道路を行き来する車の光。☆車次のカットにつながるように、
サーッとヘッドライトがよぎって車がinoutする。
国道を走る車の光もみえる。
わたっていく人、車
☆タクシー、カット尻ではなくカット中央以前に通過すること
10 11 <コメントはないが絵に車あり。>
11 37 車もはやく走れない
12 38 朝の渋滞。人々が車の間をぬってせまい道で駅へとむかう。
13 53 宅急便の車
14 56 <雫の背後を車がinoutする>
15 59 バイクや車とおること。
16 99 <雫と夕子の横を車がinoutする>
17 102 <崖下の道に車の指示> ブーッと車の音。
18 103 宅急便のトラックが来て通過していく
19 174 バイクや車もパラッパラッととおる
20 204 駅前広場。矢印の車動く。車もそれなりに…。
21 205 横断歩道を走っていく猫、人物と車
22 207A ザーッと車が通りはじめる。2台通って大型トラックがすっかりふさぐ。
23 207B バイク通っていったりする。
24 207C 巨大な観光バスが眼前をゆっくりよぎていく。
25 212 橋へ車くる。
26 213 A.C 車でつないで
27 214 <雫の背後の道に車を動かす指示>
28 215 <いろは坂を下る車の指示>
29 237 とびだしてあやうく車にはねられそうになって止まるしずく。
30 238 A.C で自動車をやりすごし
31 316 走って来るしずく。クロスして乗用車いく(1台で可)
32 318 <いろは坂を行く車の指示>
33 320 ブレーキングしつつinするのぼり車。警笛ならしつつかすめいく下り車。
34 325 車、崖の上をinout。
35 348 <いろは坂を下る車の指示>
36 356 雨の通学路。間を通る車もスライド。
37 358 まつ夕子、うしろをトラックが通る。<二人>一台乗用車をやりすごし、
38 359 うしろで車inoutする(スライド)
39 422 遠い国道や電車の動きが見える
40 423 しずく右見つつ立ち止まる。☆車の通過はその前にすませておくこと。
41 462 画面いっぱい大きくから車が走っていく。奥から小型トラック、あぶなくない程度の距離に。
42 463 カイダンへ。うしろをトラック通過。
43 464 <杉村>途中でとまり、車をやりすごし
44 498 右折の車がinして来たりする。
45 500 車が坂を下っていく
46 501 自動車、充分スキ間とって通過する
47 502 自動車が一台通っていく
48 622 パアーッとヘッドライトの光がかすめ、テールランプをかがやかせて車がおいこしていく。
49 628

パッと自動車のヘッドライトが直射する。

50 629 坂下から自動車がのぼって来る。
51 630 右前より大きく車in。とおりすぎていく。
52 706 車のはしる道。
53 729 宵の口の向原踏切。車のテールランプ。

54

731 タクシーがノロノロと来たりする。
55 793 <いろは坂に車を動かす指示>
56 821

みつめあう二人のうしろを車のヘッドライトがかすめる。

57 934 車がライトをつけて流れている。
58 935 自動車、手前にも。
59 975 すれちがう車ある。
60 1003 ヘッドライトつけた車が近づく(朝がえりなので点灯している)
61 1007 二人の自転車を追いぬいていく白いジャスティ(近藤喜文氏の車)ひやかして通過する。
62 1008 大型トラックがライトをつけて突進して来る。次から次と2輌は通過させる。
63 1009 車のしげくなった国道。右よりinする自転車。サーッとまがって左前へFr.O。その間も車走ってる。
64 1028 (車の流れも描けたら最高)
65 1033 エンディング。車や配達おえて帰る新聞屋。パトカーからダンプまでさまざなな人や車が通っていく。
P56 夕子が雫にチラッと目線を送るところ
 絵コンテ段階で既に「チカッと目を送り」と書かれている。映画を観ているとかなり気になるところなので無意味な動きとは思えない。
P56 夕子は内心『イマイチ』と感じ、
 絵コンテには「悪くないよ」という科白について「夕子はげましてくれるが」と指示がある。又、続いて、「ブスーッとなるしずくに夕子は気をひきたてるように」とも書かれている。
P56 "Country roads"第二稿
 絵コンテを見てみると(映画で観ても同じだが)なんとこの場面はたった一カットであった。もう少しありそうに錯覚しそうだ。
 英文字幕は次の通り。
 
Concrete roads, everywhere...
Cut down all the trees, filled in the valleys...
Western Tokyo...Tama Mountain...
My home town is concrete roads.

 一つ面白い文章を紹介しよう。
 
 「よばはるものの聲きこゆ云く なんぢら野にてヱホバの途をそなへ沙漠にわれらの神の大路をなほくせよと もろもろの谷はたかく もろもろの山と岡とはひくくせられ 曲りたるはなほく崎嶇(けはしき)はたひらかにせらるべし」(イザヤ書40.3、4)

 ふとこの一節をパロディしたのかなと思ってしまった。雫に聖書の素養があったとは思えないが…。
 これを思い出したのはヘンデルの『メサイア』冒頭の一節だったからで、もとは英文。これは欽定訳によっているのでやや古臭い(yeとかcriethとか)。文語訳とうまく合う。
 
The voice of him that crieth in the wilderness:
Prepare ye the way of the Lord,
make straight in the desert a highway for our God.
Ev’ry valley shall be exalted, and ev’ry mountain
And hill made low, the crooked straight and the rough places plain.

P57 パロディ
 ドイツ語フランス語でParodie。「もじり」の意味。私がこの言葉を用いた理由はバッハを念頭に置いていたからだ。バッハは自作を再利用することが多く、歌詞を代えただけのものから大規模な改作を施したものまで様々にある。バッハ研究界ではこれを「パロディ」と呼んでいる。いたって真面目な言葉なのだ。例えば、バッハの傑作の一つ「ロ短調ミサ」(Messe in h Moll BWV232)は全曲のほとんどがパロディだが、原曲と比べてはるかに質が高くなっている。聞き比べてみるとその差は歴然としている。本論のこの部分もそういった語感を含めて読んでもらいたい。

P57 歌の旋律はたいした出来ではない
 こういう言い方は野見に失礼だったかもしれないが、実際に歌ってみてもちっとも面白くない。歌抜きの方がかえってすっきりしている。単なる主観とは思ったが入れることにした。
野身先生ごめんなさい。
6.聖司との出会い

P60 杉村の登場
 絵コンテのここの部分は三人の動きをそれぞれ書いているので全体にうまく文章化出来なかった。<>でくくった部分が随所にあるが、絵コンテにないのではなく、私が書き改めたところが多い。尚、「憤然ととなりの」の後に<>が続くが、ここはどうしたわけか文章が途切れているので私が補文した。

P62 「らあめん明明」のある通り
 そうではない可能性もわずかにあるのだが、さして大きな問題ではないので無視した。

(追記)最近(2006年暮れ)、地図作成に取り組んだ結果、この道は「らあめん明明」の通りより南を通る校門前の通りだと考えるようになった。(2007.3.27)

P63 いよいよ雫が初めて聖司と出会う場面になる。
 聖司の人物紹介は次の通り。「向原中学校三年。ヴァイオリン職人を目指す少年。職人の修業を中心にすえて、世界を眺めている分、雫から見ると妙に大人ぶった感じがあるが、素直で自分にきびしい人物。いい手を持っている。」
 私が本論でこの文章を取り上げなかった理由は本論の「聖司」を読んでもらえば判ってもらえるだろう。事実以外はあまり使えないのだ。末尾の「いい手を持っている」は彼が職人を目指してから日が経っていないことを示している。木工の仕事は刃物やニスを使うので荒れやすいのだ。
 
 初稿段階では絵コンテの引用を入れてあったが、紙数の関係で省略した。絵コンテでは次のように成っている。

 
(C108)<渡り廊下を過ぎて>来るしずく。ドキッと立ち止まる。
(C109)<雫の目線で>ベンチに人がいる。<本を読んでいる。1ページめくっている>
(C110) カバンを持つ手に力の入るしずく(私の本だ…)
   <右手をカバンに添える動作>
    雫、目は少年にむけたまま、左前へ歩み出す。
(C111) 階段をおりて近づくしずく(カオは少年に)
    歩き、おりてから少しおそくなる。<少年は読書に夢中で気が付かない>
(C112) 雫、そっと立ち止まり、<少年の様子を>うかがう。
(C113)<雫の目線で>本に心をうばわれている少年。
    その本にTU。しずくの借りた本だ。
(C114) アリャーッとしずく。ごくゆっくりわずかに身をおこす。
(C115)<雫の目線で>フッと少年、カオあげてしずくを見る。
(C116) 一寸たじろぐ雫。が、それも瞬時のこと。「そ、その本…」
(C117)<雫の目線で>少年、しずくから本へ目をうつし、「ああ…」
    またしずくを見、「これあんたのか」セリフいいつつ本をもちあげしめし、
(C118) しずくUP。うなづく。
(C119)<カメラ、二人を入れ>少年、ヒョイと身軽に立ち、
    スタスタと<雫に>歩みより通りすぎつつ無造作にわたし、
   「ほらよ、月島しずく」<と言いつつ>カイダンへ。
(C120) しずく<少年へ>カオをむけ、おどろく。「名前、どうして…」
(C121)<少年>階段のぼったところでクルッとふりむき、
    「さてどうしてでしょう?」<少し雫をからかい気味な口調>
(C122) 雫、一瞬キョトンと目パチの間あって、本をチラッとみて「あっ…図書カード」
(C123) 聖司「お前さ、コンクリートロードはやめた方がいいと思うよ」
    <やはりからかい気味>クルッとまわってサッサと光の中へ出ていく。
(C124) 雫、エッ?のカンジあってから、パッと本から訳詩の紙をとり出し、
   <少年の去った方を見て怒りも露わに>ムカーッ「よんだなー」

P64 事前情報によってある一定方向に関心が向くようにし向けられているので注意が必要だ。
 商業映画の目的が利潤の獲得にある以上、宣伝が行われるのは当たり前である。そして、ある程度内容を伝えなければ宣伝効果がないのも判っている。しかし、その伝えられる内容が映画の構造の核心に当たる場合、映画を見る視線に歪みが生じる危険性はないだろうか。あるいは見るべき部分を覆い隠してしまわないだろうか。
 或いは事前情報もまた演出の一つと考えることも出来る。そう考える根拠がないわけではない。たとえば、雫と聖司がお互いに愛の告白をする以前にまともに共通の時間を過ごしたのはその前日のみである。いくら映画とはいえ、急ぎすぎと見られかねない。聖司の方はともかく雫は二人の聖司の間で揺れ動いている時間が長いから観る者に戸惑いを与えがちである。しかし、聖司の同一性を観客に事前に与えておけば雫が抱えた複雑な状況は伏せられ、流れを自然に見せることが可能になる。
 映画の分析にあたって種々の情報を活用することを欠かすことは出来ない。中には無くてはならないものもある。「靖也が郷土史家である」などはその例だ。しかし、聖司と「聖司」の同一性や「杉村が雫に心を寄せている」ことを知っているかいないかは映画を観る上の根本に作用する事柄である。果たしてこれでいいのか。どうしても割り切れないところがある。
 私の場合、DVD化されて初めてこの映画を観た。事前情報といえばジャケットの表紙くらいな状態(それも満足に見ていなかった)だったので何の先入観もなしに観ることが出来た。映画そのものは勿論魅力的だった。しかし、不可解さも半端ではなかった。逆に不可解だからこそ、この映画を何度も観た。ようやく全体構造を掴むまでどの位時間を要したか判らない。他の資料に目を通したのはその後である。
 『劇場パンフレット』を手にしてこの映画を観た観客は私が経験した混乱のある程度はせずに済んだだろう。しかし、混乱や疑問なしに観終えることが有効かどうかは別問題だ。それでちっとも構わない映画も多いだろう。だが、『耳をすませば』はどうやら違うのだ。混乱し、疑問を持つこと。これが『耳をすませば』理解の第一歩である。
 このことに関して高畑が同様のことを語っている。

 「演出ノート」を書かせるとか、ジャーナリズムが作り手を取材するとか、いま話しているこれなんかもまったくそうなんですけれど、現代では、観客が直接先入観なしに作品と向き合えない仕掛けがいろいろあります。作り手は発言する機会をもらってトクをすることも多いんですが、こういう場合は妨げになることもあるわけです。(「ジブリ・ロマンアルバム おもひでぽろぽろ」P164)

P64 夕子と別れ(C105)
 後述するようにこのカットの右手にわずかだが分かれ道がある。こうしたさりげない演出がこの映画の密度を上げているのだ。地球屋を冒頭から何度も映すやり方とともにきわめて効果的である。しかもこの分かれ道は非常に重要な意味がある。

P64 聖司を映す一連のカットはすべて雫の目線
 絵コンテにはC113,115,117とも「同ポジ」と指示がある。C121,123も同様。
P67 本には第一稿も挟んであったはずだ。
 第1稿が本に挟んであったかどうか。以下は私の追跡記録である。あまりに煩雑だし、結果も平凡なので本論では割愛した。しかし、画面をただ鵜呑みにしていては分析は出来ないし、分析ではこうした煩雑な迂路を避けられない。

(1)

ベンチに座った雫はカバンを開き、2枚の紙を取り出し、そのうちの1枚を夕子に渡した(C82)。これが第1稿。
(2) 二人で歌い終わった後、夕子が第1稿を持ったままの状態で雫は2枚目も夕子に渡した(C84)。この時、紙は2枚とも夕子が持っている。
(3) ひとしきり笑い合った後、夕子は2枚とも雫に返している。この時、雫は本をベンチに置き、バッグは膝の上に載せている。

(4)

C88に至って雫は手に本を持ち、紙を挟んでまたベンチに置いている。バッグはいまだ雫の膝の上にあるが、雫はもう紙を持っていない。2枚とも本に挟んだ可能性は高い。しかし、本に挟む紙の枚数を何度確認しても1枚しか見えずもう1枚は分からない。
(5) 次にC98A。夕子を追うために慌ててバッグを手に取り、本が落下する場面。ここでも1枚しか見えず、もう1枚の所在は突き止められなかった。
(6) カンカンになって家に帰った雫が紙をクシャクシャにするとき(C126)確かに紙は2枚ある。ここまでの経過ではどういう過程を経て第1稿がここに現れたかは不明。
(7) 紙をクシャクシャにするとき、本は机に乗っているがバッグは映っていない。しかし、汐が帰ってきた場面(C141)を見るとバッグが床に落ちているのが見える。雫は家に帰ってから本を読み続けていたようなのでバッグは家に帰ったときに置かれたままと見ていい。バッグは閉じてある。

 以上の経過から紙は2枚とも本に挟んであったとみてよさそうだ。もし第1稿がバッグのほうに入れてあったとすると、家に帰った雫はバッグから第1稿を取り出してバッグを閉めてから床に放り出し、机に本を置いて第2稿を抜き出し、2枚を揃えてからクシャクシャにしたことになる。行動として不自然だし、必然性がない。

P68 このように雫の怒りが鎮まるのは本自体より蔵書印の効果のほうが大きいのだ。
 この映画における蔵書印の役割は職員室の場面で一役買うくらいで以後は登場しない小道具だが寄贈の問題があるのでここで考察しておく。映画の分析にはあまり役に立たないので本論からはずした。
 蔵書印は九月五日にもう一度映されるので都合三度登場する。不思議なことに今回のC130の時だけ印の上方に「五十三年」という文字が捺されている(絵コンテの通りなのだが、キャラクター設定にはこの年はないから出現した経緯ははっきりしない)。出たり消えたりするのはあぶり出しにでもなっているのか他の仕掛けがあるのかさっぱり分からないがとりあえず一回は現れるのだからあるものとして考えてみよう。なお、蔵書印の下方に「1958.6.15」の数字もあるがこちらは三回とも出現する。
 まず、公立学校図書館が書籍を購入や寄贈により所蔵した場合の処理法を確認しよう。私の手元に除籍済みの本があるので参考にしてみる。すると、表紙の裏、あるいは題名の用紙の裏の余白などを利用して「〜市立〜中学校図書館蔵書」の蔵書印が捺してあり、その下に登録用の印が捺されている。この印は三つの段に分かれている。

 (1)「登録第〜号」という登録番号。
 (2)「昭和(平成)〜、〜、〜、受入」という受入年月日。
 (3)「〜市立〜中学校図書館」という所蔵者名。

 この蔵書印と登録印は法的に捺印が義務づけられている。
 雫が借りた本には「寄贈」(縦、黒)、「五十三年」(縦、黒)、「天澤蔵書」(縦二列、朱)、「1958.6.15」(横、黒)の四つの印が捺してある。蔵書印のみは縦の黒線三本で抹消されている。
 「寄贈」の捺印と蔵書印の抹消は図書館側の措置に間違いない。「寄贈」などという印を個人が持っているとも思えない。但し、上記のような登録に必要な捺印はここにはないので別の箇所に捺してあるのだろう。つまり、この箇所の図書館側の措置はあくまで非公式のものと考えていい。
 最初に問題になるのは「五十三年」印は誰が捺したかだ。図書館側が「寄贈」印を捺したのは確実だから「寄贈」印がない状態を想定してみると「五十三年」印は蔵書印の上にかなり左に寄せて縦に捺されたことになるが位置取りがあまりに良くない。この印は「寄贈」印を捺すことを想定して捺したか、既に「寄贈」印が捺してあるところに捺したと考えるほうが合理的である。「寄贈」印が図書館側によって捺されたのだから「五十三年」印も図書館側の措置と見なして良い。もちろんこれは非公式の措置である。
 こうした非公式措置が取られる可能性はあるだろうか。可能性があると思われる解釈は図書館側が寄贈受入手続きに手間取った場合だ。個人であれ団体であれ、図書館に寄贈をするときは寄贈者が図書館の設立者(向原中学校ならその市の市長)に寄贈申請書を提出し(大抵は図書館で書類を用意してくれる)、図書館の申請書とともに提出する。認可に時間がかかることもあり得るのだ。すると次のような場合が起こりうる。

@ 図書館が寄贈を受けて申請書類を作成、提出した。受入許可は時間の問題なので「寄贈」印が捺された。
A ところが意外に認可に手間がかかり寄贈時期と受入時期に大きな差が生じた。年度が代わってしまう場合が有力。
B 図書館は寄贈者への配慮から寄贈の年が「五十三年」であることを残すために印を捺した。非公式なので年号は略された。
C 認可が下りると図書館は本の別箇所に必要な印をし、蔵書印を抹消した。

 これは数ある可能性の一つに過ぎないから拘るつもりはない。より合理的に解釈出来るなら撤回しても良い。制作者の手違いで済ませたくないだけだ。
 こうして「五十三年」は寄贈年と確定した。日本の役所は何が何でも元号使用しか認めないから昭和五三(一九七八)年である。「1958.6.15」は旧蔵者の購入年月日と見て良い。寄贈は一九九四年現在から一六年前、購入は三六年前になる。
 多摩ニュータウン建設は一九六〇年代に始まる。市立図書館も向原中学校もそれ以後の創立とみてよい。公立学校や市立図書館の購入書籍は新刊本に限られるので一九五八年に購入されたこの本がないのは当然である(C72、「市立図書館にもないんだから」)。中学校ではたまたま寄贈されたからあったまでだ。
 雫が九月五日に職員室で老先生から聞いた内容から本の寄贈者は天沢氏に間違いない。では、一九五八年にこの本を購入したのも彼なのだろうか。雫が渡り廊下ですれ違った天沢氏(C396)は五〇歳位に見える。三六年前は一四歳前後になる。購入年月日を捺したり、蔵書印を捺すには若すぎる気がする。それにこの本はかなり豪華本である。しっかりした皮の装丁、題字は金文字と随分凝っている。高価な本に違いないからたとえ裕福だとしても中学生には高嶺の花だったに違いない。したがってこの本は天沢氏が購入したのではない。
 では、購入者と天沢氏の関係はどう考えたらよいだろうか。まったくの他人とは思えない。もしそうなら、天沢氏は自分の蔵書印と同時に所有に帰した年月日を書いたに違いないからだ。これなしでは片手落ちになる。つまり、天沢氏は自分の所有に帰した年月日を書く必要がない形でこの本を手に入れたはずなのだ。血縁関係にある人が有力だ。
 では、購入者についての条件を挙げておこう。

 (ア)聖司の父と血縁関係にあり、この本を彼に譲った。
 (イ)一九五八年当時に高価な本を購入する経済力があった。
 (ウ)当時、成人していたと見られ、現在存命ならかなり高齢である。
 (エ)購入年月日を記していることから自分で所蔵する目的で購入した。
 (オ)この種の妖精物語を好んでいた。
 (カ)男性と思われる。(間違いなく戦前派)

 聖司の父方の祖父が第一候補になる。この人は映画に登場しないから一切不明である。
 天沢航一氏は一九七八年にこの本を中学校に寄贈している。聖司が生まれる一年前だ。九四年現在で五〇歳位と推定すると三四歳頃の計算になる。寄贈の理由は不明であるが、(1)航一の結婚(聖司に兄姉がいるのでこれはありそうにないけれど)、(2)転居、(3)父親の死、のような推定が成り立ちそうだ。(3)に場合、この本は最後まで父親の蔵書だったと考えられるので航一氏はこの種の本をあまり好まなかったと思われる。図書館への寄贈や古本屋への売却は当人の死をきっかけに遺族が行う場合が多いのでこれが一番有力かもしれない。

 もう一つの可能性を考えてみよう。購入年月日と蔵書印が別々に捺された場合だ。この可能性は極薄いことは承知している。購入年月日を捺す人が購入者名を書かないとはあまり考えられない。そこに目をつぶれば、聖司の母方の祖父が購入者の候補に入れられる。つまり、西老人である。彼なら(ア)〜(カ)の条件も全て満たす。繰り返すが確率は低い。しかし、雫と聖司の出会いに西老人が関係していたと空想するのは捨て難い魅力がある。
7.汐の帰宅

P68 時間の経過を風景で描写し、
 絵コンテによると次のようになる。

(C132)けだるい盛夏の午后。カゲこく。
(C133)団地の背の高い生垣とプラタナスの並木のカゲの中。
(C136)おそい午后のかんじ。西陽がつよくさしこんで光が室内に散乱している。
(C141)たそがれ近く西陽の逆光の中、しずくふりむく。

 この手法を演出の重要な要素として用いた最初はおそらく『となりのトトロ』である。サツキとメイがバス停で父を待つ場面と迷子になったメイをサツキが探し回る場面の二カ所で使われている。後者の場合、絵コンテには克明に太陽光線の角度指示がある。『魔女の宅急便』でも使用されている。
 『耳をすませば』でこの方法が採られた箇所は(1)この八月二一日午後の場面、(2)九月六日に雫が地球屋に向かい、セッションが始まるまで、(3)雫が西老人に物語を読み終わるのを待っている場面、(4)夜明けと二人の出発の場面の四カ所である。
 これに関連して光線の方向の問題がある。この映画の登場人物達は色々な形で光りを当てられている。室内にしろ室外にしろ、光源をどこに置くかは演出上常に考えなければならない。
 雫の通学路を例にとろう。通学路に問題があることはすでに指摘してあるが、光線の方向について少し詳しく取り上げてみる。

(1)八月二一日昼、団地沿いの道の左から。→この道は西に向かっている。
(2)九月一日朝、団地の入り口から真っ直ぐの道を歩く雫と朝子の右から。
   →二人は北に向かっている。
(3)八月二一日昼、本道から路地に入る右から。→路地は西に向かっている。
(4)九月一日朝、雫が夕子と合流した後、狭い坂道を歩く時、左から。
   →二人は北に向かっている。
(5)八月二一日昼、ラーメン明明の十字路の斜め左から。→南東向き。
(6)八月二一日昼、学校の裏門から校内に入る雫の真上から。→位置不明。
(7)八月二一日昼、昇降口の斜め右から。→校舎は北西向き。

 こうした情報を集めると向原中学校はどうしても向原団地より北にあると考えるしかない。困ったものである。雫が中学校から図書館に向かう時、崖上の道を歩いているから中学校は絶対に団地の南にないと具合が悪い。この問題はどこまで追究しても解決不可能と思われる。
 光線問題は作画段階で常に関わってくる。注意深く見ていくと非常に面白い。例えば、雫が西老人から男爵を主人公にする許可をもらっている時、右側の雫は左から、左側の西老人は右から光線が当たっている。ということは二人の中央に光源があるはずだが何もない。誠に不思議な現象だが画面の演出措置と考えれば最も自然なやり方だと理解出来る。全てを手で描くアニメーションでなくては出来ない技だ。
 さほど多くのアニメーション映画を見ている訳ではないが、作画の影付け処理はジブリ作品が最も進んでいると思われる。手間と時間がかかる作業なので敬遠されてしまうのだろうか。『耳をすませば』では日向と日陰でそれぞれ二色の指定があるので木陰のチラチラなどの場面では各部位毎に三色が使われている。色指定の保田道世の努力の結果であって、そう簡単に真似出来ることではない。絵コンテには影色の部分を細かく色づけして指示されている。
 三色塗り分けが使用されている場面を紹介しよう。

(1) 雫と聖司が学校のベンチで初めて会う場面。聖司を見た雫が近づいていくところ(C110)と聖司が「さてどうしてでしょう」「カントリー・ロードはやめたほうがいい」というところ(C121,123)。
(2) 八月二一日朝、目覚めた雫のタオルケット(C157)。
(3) 雫が汐の葉書を取ろうと右往左往するところ(C168,170,171,173)。
(4) 雫が歩道でムーンをあちこち探す場面(C210)。
(5) 雫がムーンを追って図書館の裏口の上を乗り越える場面(C227)。
(6) 同じく細い路地を追跡中の足下の場面(C229E)。ここは靴だけ。
(7) 西老人が時計の捻子を回す場面(C288)。
(8) 杉村の告白場面ほぼ全部(C467〜487)。ただし、皮膚と一部の髪だけ。
(9) その後、地球屋にやってきた雫(C503)とムーンが現れて近付くところ(C509)。
(10) 地球屋の前で聖司と雫が話を始めるところ(C524〜532)。
(11) セッションのヴァイオリン、ガンバ、コルネット、リュート、リコーダー(C579〜608)。ここは驚異的なところで五色塗り分けまである。
(12) 家でベッドに寝そべっている雫の髪とパジャマ(C645,647,648)。髪は湯上がりの表現だろう。
(13) 緑柱石を見ている雫(C772)。
(14) 「イバラードの世界」の中の雫の靴(C788,790)。
(15) 洞窟の中で原石を探す雫(C892)。足下の原石を取るところは透過光処理。

16)

雫がベランダでうずくまっていると西老人がドアを開けるカット(C938)と泣いている雫の後ろ姿(C950)。
(17) 追加で図書室に入ってくる夕子の服(C78)。

 もっとありそうだがやめておく。気軽に始めたが意外に多いので驚いた。実に大変な労力が費やされている。まさにセル画の写実性追求の成果がここにある。
 三色塗り分けの頻度を見ると肌色や赤系、茶系に集中している。これは色開発の集中度によるのだろう。『もののけ姫』以降になるとこうした色分けは一層精密になっていく。『耳をすませば』の色使用は427色、『もののけ姫』は580色である(絵コンテ全集の末尾にある)。『山田くん』『千と千尋』に色数の記録がないのは、コンピューターが導入されたためであろう。
 『猫の恩返し』を観た方は影付けが極力簡略化されていることに気づかれたと思う。これが意図的な措置であることは『ロマンアルバム「猫の恩返し」』(徳間書店)所収の井上鋭(作画監督)と三笠修(色彩設計)の発言で判る。興味のある方は参照して欲しい。もう一方の『ギブリーズepisode2』が逆に色彩の精密さを徹底的に追及しているのと好対照である。
P68 「昼めしのあと」
 英文字幕には汐の言葉に"The breakfast things are still out!"とあるが、この言葉は汐の主観に過ぎないのでこだわらなくても良い。

P69 手に洗濯物と着替えを持って出て来る
 当然だが、汐がこの時持っている衣類と炊事中に着ている衣類は同じである。この種の演出にぬかりはない。

P70 どういうふうにしたのか台所の壁にカメラを置いて雫を映している。
 アニメーションは画面の全てを描くわけだから、理屈ではどんなカメラアングルからでも撮影可能である。もちろん、実写では不可能な位置にカメラを置くことも出来る。しかし、人間はアニメーションであっても現実と結びつけながら画面を観ている。自然なカメラワークの方が観る者に違和感を与えない。その意味でこの画面は相当無理している感じがする。『攻殻機動隊』(監督・押井守 制作・プロダクションI.G 一九九五)のDVDに収められている押井守のインタヴューにこのことが言及されているので参照して欲しい。
 制作者は当然カメラの位置を十分意識しているが、時には実写では到底無理な位置から撮影することもやっている。例えば、『ラピュタ』の中にパズーを凧の中の下方から映す場面がある(C1084)が、絵コンテには「どうやってカメラが入ってるか判らぬが」とわざわざ書き込みがしてある。(「スタジオジブリ絵コンテ全集2 天空の城ラピュタ」宮崎駿 徳間書店)

 『耳をすませば』で一番強引なカメラはおそらく時計の中のドワーフ達を内側から映すところだろう。時計も壁もぶち抜いている。

P70 テレビの古さ
 どうみてもリモコン式ではない。ビデオデッキの方は雫の頭なめにわずかだがリモコンが映っている。

P70 ファミコンゲーム類
 中学校に持ち込んでいる子もいない。

P71 月島家のベランダは映される度にファンが付いたり消えたりと目まぐるしい。
 月島家のベランダは六回映し出される(絵コンテは五回)。ファンの有無は次の通り。

@C39 なし(絵コンテでは「ある」)
AC158

なし

BC352 あり
CC491C あり
DC759 あり(絵コンテでは「ない」)
EC845とC846の間 なし(絵コンテにこのカットは存在しない)


三対三の同点なので多数決も出来ない。

P71 絵コンテの変更はあちこちにある
 確認出来たものを紹介しよう。

C98A・B 雫がベンチのバッグを取ってFrOし(A)、渡り廊下に佇む夕子を見つける(B)。Bが追加された可能性あり。
C134・C137〜139が欠番になっている。C136とC140のところでページが切れるので、午後、雫が本を読み始めてから汐の帰宅までの間に何らかの変更があったようだ。編集段階の削除の可能性もなくはない。
C152A・153 本論で挙げた箇所。
C164 雫が慌てて朝食を済ませ(C163)、ドアを開けて図書館に出かける(C165)間に弁当を紙袋に入れるカットが追加された。
C207A〜C ムーンを追跡しようとして信号で止められる場面。
C229A〜F ムーンを追跡して細い路地の坂道を登る雫。
C232A〜C 路地を登り切ったところからあちこちムーンを探す。ムーン追跡場面は訂正・追加が三箇所もあり、かなり演出に苦労したと推測される。
C272A・B 雫が男爵に寄っていくカット(A)の次に男爵のUP(B)を追加。
C315A・B 地球屋を飛び出して駆け下る雫。
10 C331A・B 聖司にからかわれて怒鳴る場面(A)と靖也が振り向く場面(B)。
11 C365の後。雫が杉村に声をかけたので夕子が赤くなる場面の後、二こまの空白がある。
12 C398が欠番。渡り廊下の場面の途中だが、周囲の状況ではその理由は不明である。
13 C434が欠番。雫が地球屋のドア越しに中を覗いているところ。ここも理由は不明。
14 C491A〜D 杉村の告白で呆然とした雫が家に入るところから朝子がドアを開けて荷物を置くところまで。
15

C505 閉店中の地球屋(C504)の後にClosed札のUP(C505)追加。

16 C513A・B まったく無視のムーン(A)と隣に座ろうとする雫(B)。
17 C535、536が欠番。二人が地球屋の通用口に向かい(C534)、通用口に入る(C537)。ここはページの変わり目なのでなんらかの変更があったのは間違いない。
18 C559とC560の間。光が次第に消え(C559)、暗がりで男爵を見入る雫(C560)の間に暗くなった町並みを追加(三秒)。
19 C568A〜C ヴァイオリン製作を見られて気乗りのしない聖司(A)、「みていい」と側に寄る雫(B)、ヴァイオリンの胴と首をつないでみせる聖司(C)。ここはBも後から追加されたように見える。
20 C594とC595の間。おじい三人組がセッションに参加して聖司が立ち上がるところ(C594)と西老人と南を映すところ(C595)の間に全員合奏を追加。
21 C604・C605の交換。南のUPと北のUPの交換。これはプレスコの結果なので判りやすい。
22 C649 九月七日朝、疾走中の雫(C649)。Cパートの始まりに当たって、「制服は夏服にもどすこと」と書き込みがある。なんらかの変更があったらしい。
23 C707A・B 雫が「クレモーナってどんな町かな」と言い(A)、聖司が「古い町だって…」と言う(B)。
24 C723 告白後の授業中と帰宅中の雫。絵コンテの上部に「この夏の改訂稿です。旧いのをもらった人はとりかえて下さい」とある。C728の後に二コマの空白があるので月島家の場面のところまで改訂されたようだ。
25 C744A〜E 夕子と相談中の雫。「自分よりがんばってるやつに…」から「だったら私もためしてみる」まで。
26 C792A・B 雲の寺院を越える雫と男爵(A)。気流に乗った直後の二人(B)。その上で交換された。更に次のページの一コマ目に飛翔中の二人の正面からの絵があり、×で消されている。このあたり、大分変更があったことを伺わせる。
27 C824の次。聖司と分かれて電車の窓から夜景を眺める雫(C824)の次に登校する生徒達の遠景と教室で机に向かっている雫の二カットがあり、斜線で消されている。どうやら当初は男爵の語りの前に雫が教室で執筆に励む様子を描くつもりだったようだ。
28 C846で汐が朝子のデータ整理をしている。このカットの前に向原団地の南面が挿入された。『絵コンテ全集10』の絵コンテにもその末尾の資料編にも全く触れられていない。どういう経緯で挿入されたのだろうか? 九月一日以降、「制作中間レポート」作成までの間の出来事である。
29 C880、朝子が「身におぼえのひとつやふたつ…」と説得された場面の後、二コマ分の空白がある。
30 C888、汐が家を出ることを雫に話した後、一コマ空白がある。
31 C903、C903B 創作難航で顔を埋める雫(C903)の後、地球屋の裏手が映る(C903B)。
32

C929A・B 地球屋の一階に下りてくる雫(A)と作業台で製作に打ち込む聖司の幻(B)。


 この映画の総カット番号は一〇三三だが、以上のような状況で三〇カット追加され、八カットが欠番なので実際のカット数は一〇五五になる。これは「制作中間レポート」(田中千義作成)にあるカット数と一致する。
 絵コンテは「制作中間レポート」によれば、九月一日に完成している。上の表の(24)に「この夏の改訂稿」とあるので訂正も同時に行われていたようだ。スタジオジブリのホームページにある日誌はとうに更新されていて残念ながら細かい進行状況は突き止められなかった。

P71 この場面は変更が推測出来る
 この部分の絵コンテの状態を概略的に示すと次の通りである。

C150 C153

C154

C151

C153 C155
C152A 空白 以下略
C152A 空白
C153 空白

C154以下は初めから変更がなされていないと思われる。この状態から推定すると最初の段階では中央の用紙はなく、C152とC153の二カットが三段で入っていたとみられる。本論では最終案に近いと書いたが絶対にそうだと言い切る材料は残念ながらない。有力な推測にとどめる。
P72 もっとも家族らしい情景なのにそこには雫がいない。
 絵コンテには「月島家のだんらん。ただし三人。笑いあったりして何やら話がはずんでいる。」とある。C152Aの絵を見ると右手の雫はほとんど見えない。映画では雫の動きがはっきり判るので作画段階で更に演出の追加があったようだ。
P73 三人の会話
 会話は次の通り。絵コンテには科白がない。

三人、笑い。
汐「でねー、お醤油まで持たせようとするのよー」
朝子「おばさんらしいわねぇ」(ここは「おばあさん」の可能性もあり)
朝子「たしかぁ、去年もそんなことあったじゃない」
汐「そぉ、お味噌持たされてさぁ、重かったよぉ。忘れないわ」
朝子「二キロ位あったわよねぇ」
P73 極端な夜更かしは難しかったかもしれない
 昨日と違って雫はちゃんと寝間着に着替えている。
P74 洗濯はもう一回あるらしい
 雫が朝ご飯を食べている最中に干し終わっている。
P74 図書館に行くついでに父の弁当を頼まれた
 父の弁当を紙袋に入れているカット(C164)に新聞がある。「サソリ、ジャンボ機内でチクリ」「背中に激痛」とあるが、一九九四年八月にこんな事件があっただろうか?少なくとも朝日新聞には掲載されていなかった。その下段の「…エンジントラブル」は最初の文字が読めないので考えようがない
8.ムーンと地球屋
P75 汐が郵便の投函を頼むシーン
 この場面の積極的な意味はとうとう判らなかったので簡略して書いた。舞い落ちる葉書とそれを追う雫は作画の難度がかなり高いので、作画の訓練用と言えなくもない。良い解釈を持っている方にご教示をお願いしたい。取り敢えず、絵コンテで該当箇所を書き出しておく。

C165

ドアあき、カバンと紙ブクロを持ったしずくがとび出して来て
「行って来まーす」
後手にしめ右へFr.Oする
C166 階段のおどり場にかけおり、かけくだるしずく
C167




<団地を出た正面の通路>
左手前、大きくINして走っていくしずく。
カゲの中から。
上から汐の声
「しずくーっ」(off)
立ちどまりふりむく
C168


汐が踊り場で呼んでいる。手にハガキの束。
「これポストに出しといてー」
inしてしずくもどる。
「ナーニ?」
C169
 
「ポ.ス.ト!!」
一音づつはっきりいってハガキの束投げる。
C170 ワワッとなるしずく。<見上げつつ>
キリキリ舞するハガキにあわてて右へ左へ。
C171



とびこんで、いきすぎ、
<葉書受け止め>頭の上でおさえるしずく。
体力ととのえ、ハガキの束をみる。
とたん、汐の声。<雫>ふりあおぐ。
「見なくてイイノーッ」(off)
C172
<あおりに汐を映す>
「クリップごと出すんじゃないよ」
汐やっぱり一言多い。
C173

 
「かれしー?」ハガキしめし、
「バカ」ひっこむ汐。
同時にクルッとまわって走っていく雫。Fr.O

P75 JR
 Japan Railwayの略号であることは誰でも知っている。国鉄解体後、この名称が使われている。しかし、何故英語名称にし、かつそれを略号にしなければならないのかまるで理解出来ない。日本たばこのJTも同様だ。日本に住み、日本語を母国語として暮らす一人としてこういう外国語偏重趣味は不快である。「日本鉄道」で良いではないか。或いは判らないついでにいっそのことドイツ語でJB(Japanisches Bahn)とでもするか。なんならアラビア語でもウイグル語でも一向に構わない。

P76 観客の心理の裏をさり気なく突いている。
 暗示的な演出はあちこちにある。地球屋の裏側を点景するのが代表例だ。『もののけ姫』でもアシタカが見張り台に上るカットに村の遠景が映っていた。『千と千尋の神隠し』にはこの種の演出が随所にある。カマジイがリンにヤモリの黒焼きを差し出す前のカットにカマジイがポケットから出したヤモリが映っていたり、千尋に戻れと叫んだハクが時間稼ぎに竜の鱗を吹き散らしたりする。千尋が映る最後のカットでゼニーバにもらった髪留めをきらりと光らせるのも粋な演出である。こういう小気味良さは江戸時代の洒落本や黄表紙に通じるものがあり、実に日本的である。アメリカの商業アニメにはこうした「含み」があまり見あたらないようだ。

P79 『耳をすませば』で初めて風が吹いた。
 宮崎アニメにおける風の意味については「『もののけ姫』はこうして生まれた」(一九九七 ジブリがいっぱいCOLLECTION)を参照していただきたい。
 厳密に言えば、八月二一日の朝も二二日の朝もベランダの洗濯物が揺れているから風が吹いている。しかし、この風は雫に吹き付けている訳ではなく、雫の心象風景との直接関わっていないので言及しなかった。これを除くと風は常に雫と密接な関係を持っている。
P80 洋風木造建築
 西洋建築というと石造ばかり連想するかもしれないがそれは都市部の話。もともとヨーロッパは森ばかりだったから意外と木造建築の伝統があり、建物も残っている。イギリスのハーフティンバー(Halftimber)が有名だが地球屋はこの様式とは異なる。詳しくはその種の写真集などを参照してもらいたい。ドイツの木造家屋は地方都市に行けば随所に見られる。ただし、地球屋の様に屋根を緑にした建物はなかなかない。茶と濃い青が主流。何かモデルにした建物があるかもしれないが突き止めていない。
P81 木馬
 後の章で考察するように、これはどう考えても売り物とは思えない。
P81 チェスト
 英語でChest。衣類・道具類などを貯蔵する大型の収納箱。要するに櫃(ひつ)のこと。
P81 ポジティーフ・オルガン
 英語でPositive Organと綴る。小さい礼拝堂や家庭で利用する小型のパイプ・オルガン。木製のフルート管が並べてあり、柔らかい音がする。映像のオルガンはかなり小型なので片方の手でふいごを動かして送風する形態かもしれない。フランドル画派の創始者ファン・アイク兄弟(Hubert van Eyck 1366?-1426, Jan van Eyck 1380?-1441)の大作『ガンの聖堂の祭壇画』の見開き左パネルにポジティーフ・オルガンを奏する聖チェチリアが描かれている。楽器紹介によく用いられているので見たことのある人も多いかもしれない。

 『猫の恩返し』に手回しオルガンが登場するが、音色は比較的ポジティーフ・オルガンと似ている。方や『耳をすませば』のBGMに使われているオルガンはパイプ・オルガンである。フルート管ではないので音は違う。

P81 ガレー式帆船
 フランス語でGalère。一五・一六世紀のヨーロッパで遠洋航海用に作られた帆船。コロンブスが乗り込んだサンタ・マリア号もこれである。このあたりの調度品の名称は絵コンテの呼び方を使用している。画面にしかないものはもちろん私によるものである。

P81 タペストリー
 フランス語でTapisserie(タピスリー)という。絵コンテは英語読みなのでそちらで書いた。つづれ織りのことで壁掛けに用いられる。フランスのノルマンディー(Normandie)の町バイユー(Bayeux)にあるバイユー・タピスリーが著名である。これは世界史の教科書か図版集に必ず掲載されている(長大なものなので一部だけ)ので誰でも見ているに違いない。タピスリーはパリのクリュニー博物館(Musée Cluny)に大量に展示されている。全部見るとさすがに飽きる(実体験による感想)。
 画面の絵柄は兎狩りのようだ。タピスリーには狩りの図が多いから特に深い意味を探る必要はないだろう。
P81 プサルテリウム
 ギリシア語のラテン語形でPsalteriumと綴る。ギリシア語ならプサルテリオンになる。中世から一五世紀にかけて使われた楽器で、共鳴板に複数の弦を張り、プレクトラム(今風に言うとピック)で弾く。現代のチターに近い。似た楽器にハンガリーのツィンバロン(Cimbalom)や中国の楊琴がある。こちらはハンマーで敲いて音を出すところが違う。
 ピックと聞くと現代的に感じるかもしれないが、箏(そう)も琴(きん)もシタールもウードも使っている。ギターの専売特許ではない。三味線や琵琶の撥(ばち)も広い意味ではピックである。
P81 リチェルカーレ
 ラテン語でRicercareと綴る。「探求する」という意味。英語のresearch、フランス語のrechercheも同語源の言葉である。音楽用語ではルネサンス時代の厳格な模倣対位法による器楽曲を指す。フレスコバルディ(Girolamo Frescobaldi 1583-1643)の鍵盤曲が知られている。また、バッハは「音楽の捧げ物」(BWV1079)の中で二曲のリチェルカーレを書いている。当時既に過去の言葉だったから古くさい感じを出したかったようだ。
P82 雫の方に目線を向けない
 絵コンテには「しずくの方を見ない。見ると、おびやかすので…」とある。
P83 ついに時計の登場となる。
 
分析を始めるに当たって一番注目していたのが時計であった。映画の表面上の展開から見れば、時計にはどれほどの意味もない。ささやかな一情景に過ぎない。しかし、BGM「エルフの女王」、西老人の「届かぬ恋」という言葉、西老人とルイーゼなどを考えるとそんな単純なものとは思えなかった。いかにも思わせぶりな情報が多すぎるからだ。最初から全貌に気づいたわけではない。分析の過程の中で少しずつ意味が判ってきたのだ。

P84 フィグーラ(Figura)
 ラテン語。ドイツ語ならFigurenlehreという。『バッハ事典』(音楽之友社)から引用しておく。

 「17、18世紀の作曲理論のひとつ。修辞学における表現手法であるフィグールFigur〔独〕、figura〔ラ〕(詞姿、文彩などと訳される)を音楽に応用したもので、ムージカ・ポエティカの重要な理論のひとつ。…(中略)…。バッハ自身はどの程度、この理論に接していたかは不明であるが、J.G.ヴァルター<バッハの遠縁に当たる。知人>を通してある程度は知っていたものとも考えられ、彼のとくに声楽作品にはその手法を思わせる例が多くみられる。」(項目担当は西原稔)

P84 「哀しみ」のフィグーラ
 低音部に使われる場合が多いのでLamento Bassという。バッハに限らず使用例が実に多い。合唱曲によく出るのは当然だが、器楽曲にも多くの例がある。シャコンヌの定旋律に頻繁に用いられている。
 フィグーラはあくまでバロック音楽の理論だから他の分野の曲には適用出来ないので注意してもらいたい。「流れる雲、かがやく丘」の中間部にも低音に半音降下音型が出てくるが、バロック音楽ではないのでフィグーラで解釈してはいけない。

P84 『ロ短調ミサ』(BWV232)
 バッハの最晩年の傑作。譜面はこちら。ミサの通常文は中世に確定しており、歌詞は基本的にどのミサでも同じである。『ロ短調ミサ』の中で「哀しみ」のフィグーラが使用されているのはクレド(Credo 信仰信条)の「十字架につけられ」の合唱部分。歌詞は次の通り。

我らが為にポンティオ・ピラトの下にて Crucifixus etiam pro nobis;
十字架に架けられ、            sub Pontio Pilato
苦しみを受け、葬られ給い、        passus, et sepultus est.
(拙訳、原詩はラテン語)

P84 『カンタータ第一二番』
 題名は「泣き、嘆き、憂い、おののき」(Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen)。譜面はこちら。「哀しみ」のフィグーラは第2曲の合唱で使用されているが、実はこの曲が前述の『ロ短調ミサ』に再利用されている。つまり、パロディなのだ。聞き比べてみるのも面白い。歌詞は次の通り。

泣き、嘆き、              Weinen, Klagen,
憂い、おののき、           Sorgen, Zagen,
恐れと苦しみ              Angst und Not
そはイエスのしるしが生み給う   sind der Christen Tränenbrot,
キリスト者の涙のパンなり       die das Zeichen Jesu tragen.
(3節以下は拙訳、原詩はドイツ語)
9.再び聖司

P89 「コンクリートロード」と歌いながら行ってしまう
 HPをあれこれ見ているうちに聖司が「コンクリートロード どこまでも つづいてる 白い道」と歌っているのではないかという指摘があるのを見つけた。「なるほど」と思って確認してみると「つづいてる」までは確かに歌っている。絵コンテには「白い道」まで書いてあるので当初からその予定だったことは間違いない。宮崎のBGMイメージは本書でも紹介したが、「つづいてる」まであり、三節目の末尾に「白い町」という類似の句がある。
 正直、指摘されるまで考えてもみなかったので意見の持ち合わせはない。映画で歌っている部分はBGMイメージの一節そのものだからそれを使ったことになるが、何故聖司がそれを歌うのかは判らない。私は制作者のミスはなるべく認めたくないので、HPの書き込みをした方の「聖司編作説」「聖司のもじり説」に賛成してもいい。ただ、二番を作ったというよりむしろ「もじり」の方が妥当な気がする。場面は聖司がいろは坂を上るところだから状況に合わせたと考える方が自然に感じられるからだ。

P89 洞穴で宝物をみつけたかんじだったの。
 「洞穴」は地球屋の入り口の比喩である。ムーンはまるで「洞穴」に入るように地球屋の中に姿を消した。同時に雫がアリスをイメージしていたことも明瞭になる。

P92 雨雲が出てくるので次のカットの雨に繋げる演出は判る。
 これは絵コンテに指示がない。この場面全体の意味は別途に考えなければならない。
P93 「心が動くと風が吹く」
 この映画の中で風が吹く場面は次の通りである

@ C46-50 8月21日朝。ベランダの洗濯物が揺れている。絵コンテに指示なし。
A C158 8月22日朝。ベランダの洗濯物が揺れている。絵コンテに指示なし。
B C236 8月22日。ムーン追跡中に崖上から風景を見る雫。絵コンテに「風あり!!」と指示あり。
C C346-351 8月22日のこの場面。絵コンテのあちこちに風の指示がある。
D C422 9月5日。図書館へ向かう途中で崖上から風景を見る雫。絵コンテに「スカートに風を!!」と指示あり。
C424 同日。地球屋に続く分かれ道を見る雫。絵コンテに「風の中、一寸見ているしずく」と指示あり。
E C537 9月6日。地球屋の通用口を入った雫が縦の風景を見る。絵コンテに「しずくやって来て、前方の風景におどろき、立ちどまる。風がある」と指示あり。
C539 同日。通用口の階段を降りる雫。絵コンテに「微風あり」と指示あり。
C541 同日。地球屋のベランダから崖下の風景を見る雫。絵コンテに指示なし。
F C712 9月7日。中学校の屋上から風景を見る雫と聖司の後ろ姿。絵コンテに「かすかな風」の指示あり。
C713-717 聖司の告白場面全て。絵コンテではC717に「風がしずくの心の中をあらわすように吹きぬけていく」とあるのみ。
G C785-793 イバラードの世界T。絵コンテには「風はげしい」(C787)、「スカート、風にはげしくバタつく」(C788)、「空中を風にふかれて舞い進む二人」(C792B)の三箇所に指示があるだけだが、上昇気流の中の設定だから全場面、風の中。
H C1003-1010 自転車で疾走中の二人。絵コンテには「全体に躍動感を。風バタだけではダメ」(C1004)とあるだけだが当然風の中。
I C1024,1027-1032 夜明けの太陽を見る二人から婚約まで。絵コンテには「朝の風が吹いている」(C1027)、「風が急に強くなったのは気のせいか…」(C1031) とある。


 以上、10箇所の風を分類してみる。重複するものもある。


(A)崖下の風景と関係しているもの … BDEFGI
(B)聖司或いは男爵と関係しているもの … EFGHI
(C)雫のみに関わるもの … BCD
(D)上記のどれにも当たらないもの … @A

 後半は全て雫の心理が上昇する場面で用いられているが、前半は聖司、地球屋との関係が確立しておらず、やや用途が異なっている。それでも解釈はさほど難しくはない。
 @Aが問題だが、どちらも雫が登場する点は他と同じである。汐と朝子が会話する場面でも洗濯物が映っているが、風に揺れてはいない。どちらも聖司との出会いの日なので、雫の気持ちの高揚を表現したものか。それにこの二箇所は絵コンテには書き込みがないので当初から予定された演出ではない。

10.九月五日(月)
P96 C58と同じ崖上の通りに出る階段付近で夕子と合流し、
 細かいことだが、雫と夕子が合流する前のカットに登校途中の夕子が映っている。傘を左手から右手にいつ持ち替えたのかは不明。大事なのは、崖上の道が夕子の通学路だということ。『劇場パンフレット』の地図ではどう見てもこの道が通学路になるはずがない。夕子の家は山側にあるに違いない。本論のP190では地図のままで良いように書いてしまったが訂正が必要かもしれない。

P97 保健室やパソコン室などの特別教室
 保健室に空調があることはこの日の昼食場面で確認出来る。

P97 校内の休み明け試験と抱き合わせにしているのだろうか。
 翌日も国語の試験をやっているのでその可能性は高い。
 家族会議の時に映る雫の中間考査は八科目ある。外部模試五科目と合わせると確かに計算が合う。しかし、夏休み明けの残暑の中でこれだけ集中してテストをやったら学習意欲を失うこと請け合いだ。

P98 三年五組は五列で、雫は中央列になる。
 聖司に呼ばれて教室中騒然とする中を歩いていく雫(C689,690)の画面だと雫は廊下側から四列目に見える。C660と較べるとどう見ても矛盾してしまうのだがどうしようもない。後者の方が明瞭と判断して本論を書いた。

P99 夕子の様子を中心に見てみよう。
 絵コンテの書き出しを見て、夕子に関する部分が全て私の書き込みだと気が付かれただろうか。これは事実で、絵コンテでは夕子について「なんとなく身をひく」のほか、何一つ触れられていない。勿論、絵があるからそれなりのことは判るが、杉村の動作に合わせて目線を動かす指示などない。つまり、実際の作画段階で演出が決められたのだ。絵コンテと映画の間には様々な過程が存在することを伺わせる。

P100 テストの採点でもしていただろうから最も好都合だ
 厳密に言えば、校内テスト期間中に生徒が職員室に入るのは厳禁である。こんなところからも外部模試の可能性が高くなる。
P102 渡り廊下にて
 ここまでの三度の雫と聖司の出会い場面を振り返ると「赤毛のアン」のアンとギルバートの関係と実によく似ている。直接引用するつもりはなかっただろうが、宮崎も近藤も「赤毛のアン」に携わっているので参考にした可能性はあるだろう。試みに対応させてみよう。

(1)雫が聖司に「コンクリートロード」を馬鹿にされた場面 … アンがギルバートに赤毛を「にんじん」と馬鹿にされた場面。
(2)雫が聖司に弁当を届けてもらった場面 … 橋桁にしがみついていたアンをギルバートが救出した場面。
(3)雫と聖司が渡り廊下ですれ違う場面 … アンが橋の上でギルバートに出会い、詫びの言葉を無視して通り過ぎる場面。

 こうして比べてみると類似性がはっきりする。アンとギルバートが直接接触する場面はこれだけだから回数も一致する。雫と聖司が地球屋の前で初めて会話を交わす場面もアンとギルバートの和解場面ときちんと対応している。アンはマシュウの死の直後、雫は杉村の告白の直後とどちらも精神的痛手を被った後という点までそっくりだ。ただし、(2)(3)の順序は逆になっているし、アンとギルバートの婚約はずっと後の話である。

P103 昼食中の高坂先生と仲良し四人組
 野暮な言い方になるが、生徒が保健室で日常的に昼食を摂るのは衛生管理面からみて好ましくない。又、昼休み時間中は他の生徒の出入りも多いから迷惑である。この場面は原作の設定を採用した部分(原作ではわずか半ページ)なので仕方ないが再考の余地はあっただろう。

P105 "Country roads"の訳詩第三稿
 英文字幕では次のようになっている。

Country road, this old road...if I go right to the end...
Got a feeling it'll take me...to that town, country road.

I left because I was alone and I had nothing...
Pushed away my sadness and pretended I was strong...

 後段一節目の下線部分は少し意味が違っている。この訳だと「孤独で何も持っていないから去った」感じになるが、雫の詩では「ひとりで生きる」のは「町を飛び出す」目的である。それに「町」がないのは大問題だ。leftだけでは何のことやら分からない。正確を期すなら"To live alone, I left this town without anything "などとした方がよかろう。第二節の"pretended I was strong"はなかなか意味ありげで「強い自分を守っていた」というが実は単なる振りだと言っている。これは意訳としてはうまいと思う。
P107 絹代が「ここいいな」と言って読み上げる二節は第四稿には存在しない。
 絹代が読み上げる部分がセッションやエンディングにないことに気が付いた人は多いと思う。こういう場合、大抵は『制作者のミス』と見なされてしまう。確かにそれで構わない場合もある。本論でも他の箇所ではそのような指摘をしたところがある(「県立図書館」など)。しかし、『制作者のミス』かどうかは調べなければ判らないし、たとえ『制作者のミス』であってもテキストとして与えられた情報に意味を持たせても一向に構わない。私が求めているのは『映画の意味』であるから『制作者の意図』と違ってしまってもよいのだ。テキストは一人歩きを始めるからだ。
 ただし、私は絹代の読み上げる訳詩が制作者のミスとは考えていない。「ふるさと」はこの映画の主題の一つだ。他の場合ならともかく、主題に直接関わる場面で制作者がミスをするなど私には考えられない。
 第三稿と第四稿の違いを制作者は意図的に作り出している。これは間違いないのだ。決定稿は鈴木プロデューサーの娘さんが創作し、宮崎が補作したものだ。補作がどの部分かは判らないが、他者が創作した作品を映画内で使用する以上、好き勝手な改変やミスなど許されるはずがない。エンディング・クレジットには「日本語訳詩 鈴木麻実子」とはっきり出ている。第三稿が鈴木訳ではないこと、あるいは補作したことを制作者は必ず彼女本人に伝え、了解を得る責任がある。それにアニメにはアフレコという作業がある。科白については綿密にチェック確認が行われているはずだ。それを経ても間違いに気づかないなどおよそ考えられないことだ。
 第三稿が鈴木訳とは関係がない証拠はこの稿自体にもある。『第三稿は"Country roads"の旋律ではうまく歌えない』からだ。頑張れば出来るかもしれないが、どうにも収まりが悪い。私は歌うことを放棄した。第三稿は絶対に訳詩として作られたものではない。
追記)「『制作者の意図』と違ってしまってもよい」の箇所に色々批判が出た。制作者がある意図の下に全体構想を立てたり、ある場面を構成したりするのは当然である。但し、鑑賞する側にそれがうまく伝わるかどうかは制作者にも判らない。又、制作者が文書や口頭で語ったものは尊重すべきであるが、それが意図の全てである保証はないし、真実を語っている保証もない。宮崎の発言を記録した文書には状況に応じてそれぞれ内容が矛盾したものもある。要するに制作者の意図という確固たる絶対的なものを確定することは到底出来ないのではなかろうか。結局、問題は「映画が何を語っているか」になるしかないと思う。それが結果として制作者の意図したものと異なってしまうことも少なからずあるのである。それにこの箇所で私は制作者の意図と私の見解が異なっているとは判断していない。少し過激な言い方だったとしても「私の意図」と受け取られ方にはこのようにズレが発生している。これがテキストというものである。ただ片言隻句だけ取り上げて全体像をとやかく言うのは勘弁して欲しいとは思う。
P108 具体的な内容を何一つ込めていない。
 雫自身が言うとおり、「ふるさと」が掴めていない段階で「あの街」や「この道」に意味があるはずがない。このリフレインは単に原詩の意味合いを日本語の詩文に味付けし直したに過ぎない。雫の気持ちは何一つ込められていない。重要なことは雫の気持ちや環境の変化に応じて同じリフレインに意味が生じてくることだ。これが言葉の面白いところで、言葉が決して常に一つの意味のみを表現しない例である。
P109 雫には聖司の記憶が蘇ったはずだ。
 本論では明確に述べていないが、雫がこの崖上の道を歩くのは八月二一日以来なのだ。八月二二日に雫は図書館の往路で電車を利用し、復路は川沿いの道を歩いていた。八月二九日は推測するしかないが少なくとも崖上の道を使って遠回りする理由はない。この道を歩くことが聖司の記憶に連動するのも頷けるのだ。

P109 この場所は雫にとって三つの重要なものが表された象徴的な場所だったのだ。
 『劇場パンフレット』には崖上の道と分かれ道の全景が載っている。分かれ道を見つめる雫の後ろ姿が印象深い。人生の分かれ道に立った雰囲気が出ている。この箇所の私の解釈はこの全景の印象も考慮している。

11.夕子と杉村
P113 悲嘆にくれる夕子に対して雫は冷静に対処する。
 この場面でST6「打ち明け話」が用いられている。BGMの中で唯一、雫と直接関係しない曲なので本論では触れなかった。「追憶」と同様、室内楽なのでソロ・ヴァイオリンにこだわる必要はない。面白いのは元々この曲はイメージアルバムで「怪猫ムーン」の題で収録されていること。ムーンの曲を使われた夕子は何と思ったろうか?

 P114 国語テスト
 
問題の内容は次の通り。
 第一問 これは詩の一節からの出題のようだ。題名は露骨に「死」だそうだが、出典は知らない。
 第二問 尊敬語と謙譲語を問うている。言葉の右肩に点を打ってあるものが解答記入箇所のようだ。
      全部で六ヶ所ある。三列目の「参る」のあとがやや不明瞭。「参上する」でもなさそうだ。
 第三問 不明
 第四・五問 文章題。一九世紀は形而下では何の時代、形而上では何の時代と呼ばれたか? 
     形而下とか形而上など中学校で習うのかどうかは別として答えは何だろう。
     今ひとつピンと来ないが、形而下は「工業」の時代、形而上は「科学」の時代ということだろうか。
     最初の空欄は「開発」と入るらしい。
 第六問 漢字問題らしい。

12.再び地球屋へ
P121 日が傾いてきた。
 P60の注で風景による時間経過の表現について説明したがここからの場面もその例の一つなので絵コンテの該当部分を書き出してみる。

(C491C)陽がだいぶ西に傾いている。<雫が自室で突っ伏しているとき>
(C495)西陽をあびて疾駆する電車。
(C496)西陽のさしこむ車内。<光線の矢印あり>
(C498)西陽にガラスを鏡にしているビル。
(C502)西陽を浴びるヒマラヤ杉。ロータリーの地球屋、窓に西の空が映っている。
(C504)残照を浴びて静まりかえっている地球屋。
(C514)陽かげっているが残照が残っている。<雫がムーンの隣に座る>
(C516)ロータリーに接するどこかの角。右側はすっかりかげり。<聖司がやってくる>
(C534)<地球屋の所々に光の指示>
(C541)残光をあびる下界。<雫が風景に見とれている>
(C544)うす暗い店内。二筋のよわよわしい陽がテーブルのすみにのびている。
(C547)奥のマドのカーテンのスキ間から西陽がわずかに届いている。
(C551)残光の中でキラメク猫の眼。
(C556)しずくと男爵、たそがれのさいごの光の中で、
(C557)<男爵の>光のあたる範囲、ずい分小さくなっている。
(C558)窓の外、まだ明るいが室内ずい分くらくなっている。
(C559)日没。青ざめた時間になる。
(C560)暗い室内。<以下>セルの色おとす。
(C561)外は暮色こい。しかし外の方が明るいこと。灯がもうまたたいている。
(C588)すっかり暗くなった坂道をのぼる地球屋のバン。下界はすでに星の海。

 光量の指示がいかに細かく記されているかお判りいただけるだろう。

P121 朝子が帰ってきてなにやら隣のおばさんと立ち話をしている
 朝子が柏崎から送ってきたメロンの箱を抱えてお隣さんにお裾分けしている場面。本論では柏崎問題に触れなかったのでここでも取り上げなかった。

P121 久々に電車に乗る
 車外から雫を映すカット(C497)は絵コンテに細かい作画指示がある。整理すると次のようになる。
(1)背景 … 逆光の丘と空。光でとばしてあるのでボヤッとした区別しかない。
(2)BookA … 建物と木々。Followで引っ張る。
(3)架線柱 … 作画で時折通過する。対向車が来るとそれに交代する。
(4)作画1 … 電車の向こう側。座っている人も描いてあるらしい。窓は抜いてある。
(5)雫 … 電車の振動で時折揺れる。
(6)作画2 … 電車のこちら側。窓は抜いてある。
(7)マスク … 窓に反射して映る景色を入れるために窓の必要部分だけ抜いてある。
(8)手前の景色 … スーパーで映し込む。Followで引っ張る。
 6秒間一こまずつ2度の撮影を行うので6×24×2=288回の撮影が行われたことになる。奥井さんご苦労様。

P122 いまや雫にとってただ一つの願いは地球屋に迎えられることだけだ。
 雫が着ている服とスカートは八月二二日の時と同じである。雫が地球屋に行くに当たって、無意識のうちに(どう見ても意識的とはいえまい)思い出の服に着替えた可能性がある。本論を書いてだいぶ経ってから気づいたので、うまく追加出来ずあきらめた。こういう事態があるので再確認は何度でもすべきなのだ。面倒だが、労を惜しんではいけない。これは自戒である。

P126 旋律は「丘の上」と同じでこれが三度目の登場となる。
 「丘の町」と「丘の上、微風あり」は編曲は違うが、末尾を除き、ほぼ同じ曲である。画面と音楽の対応にも類似するところが見られる。(題名の訂正についてはこの注の最末尾を参照)
「丘の町」 「丘の上、微風あり」
導入(ハ長調) 雫が「聖司」の名前を発見するところから翌朝の雑踏まで 雫の「ムーンはきみんちの猫じゃないの」から 「わたしそっくりだって」まで
主部(ハ長調) 早朝の寝ぼけた雫から遅い朝食まで 聖司の「ムーンがお前と!?全然似てないよ!!」から二人の沈黙の間
中間部(変ト長調まで降下)

飛行船を見るところから団地を出て道路に出るまで

同時発声から聖司に促されて通用口を入るところまで
主部(ト長調) 「わぁ、あつい」と見上げるところ 通用口を入り、下の風景を見下ろすところ
結尾部(ト長調) 学校の正門に入るところまで 地球屋の一階に入るところまで

 通用口の場面が興味深い。雫にとって通用口をくぐるまでは一階にいる感覚だった。ところが通用口に入ったとたん、自分が二階にいることを知るのだ。この急上昇が雫の感動の重要な要素になっている。変ト長調からト長調への突如の転調はこの気分の激変を表現している。
 末尾の旋律について、本論では「丘の上、微風あり」「エンゲルス・ツィマー」の関係について触れただけだが、「丘の町」にも次の「猫を追いかけて」との関係がある。「丘の町」の最後のヴァイオリンのフレーズと「猫を追いかけて」の主旋律はほぼ同型である。

P131 同じ音型を使っている。
 バロック音楽に限らず、動機処理の知識がないとBGMの理解は難しい。これは『耳をすませば』に限らない。どの映画でも重要な音型や動機は様々に形を変えながら映画の至る所で使われている。画面ばかりに意識を集中しているとほとんど気づかずに終わってしまう危険がある。
 『もののけ姫』の一例を取り上げよう。アシタカが村を追われて西に旅立つときに流れるST3「旅立ち−西−」のケーナの二重奏に注目してほしい。この二重の動機はアシタカが村を出るまでに二度使われている。
 (1)上声 ケーナ  下声 ケーナ
 (2)上声  −    下声 ヴァイオリン
 印象深いところなので直に思い出せる人もいるだろう。上の旋律を「アシタカ動機」、下の旋律を「サン動機」と名付ける。命名の根拠はおいおい判る。アシタカの旅がサンとの出会いの旅であることが初めから提示されている。
 この二つの動機がその後どう展開するか追ってみよう。旅の場面になるとサン動機はヴァイオリンに移るがアシタカ動機はケーナのままである。サン動機が強調され、アシタカの意識はどちらかと言えば後背に退いている。最後にケーナ二本で二つの動機が奏されてST3は終わる。
 この旋律が次に登場するのはST5「穢土」の後半。ジゴ坊に示唆されたアシタカが鹿神の森に出発するところで使われる。いわば、最初の旅立ちが方向のみ(西)の出発だったのに対し、今度は場所を定めた(鹿神の森)出発に当たる。楽器はST3の後半と同じくヴァイオリンとケーナである。
 三度目はST6「出会い」。アシタカとサンが初めて出会う場面であり、音楽と場面はここで完全に一致する。二つの動機はハープ一台で奏され、一体性が強調される。しかし、それもつかの間、最後はアシタカ動機が竜笛(りゅうてき)、サン動機が篳篥(ひちりき)に分裂してしまう。二人の心の交流はほんの一瞬で過ぎ去ってしまった。しかし、二つとも和楽器なので距離はそれほど遠くない。
 四度目はST16「生きろ」。それまでにサンのタタラ場襲撃があるが、そこではこの旋律が出てこない。二人が登場してもそこには心の通い合いがないからだ。さて、「生きろ」ではサンが瀕死のアシタカののどに刀を振り下ろしたところで始まる。楽器は「出会い」と同じハープである。これ以降、二つの動機は異なった楽器の組み合わせのみとなり、二人の意識がわずかずつすれ違っていることを示している。
 続くST17「シシ神の森の二人」では三度動機が現れ、それぞれ扱いが異なる。
  (1)アシタカ動機 … ケーナ   サン動機 …  コーラングレ
  (2)           −                ヴァイオリン
  (3)           ケーナ             チェロ
 アシタカ動機はケーナしか使われないのに対し、サン動機はそれぞれ違っている。サンの意識は浮動している。しかし、二度目ではアシタカ動機なしで初めてサン動機が出現しており、若干アシタカに傾斜する心も表現されていると考えて良い。ここでの三回の動機の出現の仕方はだいたいST3と同じである。この意味は後述する。
 ST18「もののけ姫 インストゥルメンタル バージョン」の結尾でサン動機が旋律の一部として出現する。私達はここで初めてこの動機がサン動機であったことを知らされるのだ。アシタカはほとんど意識朦朧状態だから、この動機はサンの意識そのものを表現している。旋律は竜笛で始まり、フルート、コーラングレ、オーボエ、竜笛と移る。柔和な音色の木管楽器ばかり使われ、サンがアシタカに心を開きつつある状況が伺える。しかし、サン動機の部分はオーボエと竜笛のユニゾンである。二つの楽器の組み合わせは最終的にサンの気持ちが二つに分裂せざるを得ない状況を示している。
 そして、ST20「もののけ姫 ヴォーカル」に至ってサン動機はアシタカの意識として使用される。アシタカ動機は出現しない。つまり、アシタカは意識を完全にサンに集中させているのだ。しかも歌っているのはカウンター・テナーの米良だ。男性でありながら、女声の音域を歌うのだ。この両性具有的性格がこの場面で実に効果的に使用されている事が判ろう。ついでに歌の途中で登場するモロの君もまた、声優に三輪を起用することで両性具有を表現していることを指摘しよう。アメリカ公開版では歌手もモロの君も女性が配されており、こうした効果は得られない。
 この後、この動機はしばらく出てこない。次の出現はST29「黄泉の世界U」である。アシタカが絶望するサンを抱きしめる場面だ。エボシを救出するためにサンを説得する場面だから、アシタカ動機を伴うのもうなずける。楽器はケーナとピッコロ。ピッコロの甲高い音色はサンの悲痛な叫びだ。一方のアシタカは相変わらずケーナである。冒頭で二人の動機が奏された後、暴走する鹿神の旋律にまとわりつくようにサン動機が繰り返される。アシタカ動機はまったく姿を消してしまう。サンが説得に応じて以後、アシタカはここでも自意識を殺し、サンの意識に寄り添う形で鹿神の首を追い求める。場面に二人が出てこなくても音楽は二人の追跡をしっかり表現している。
 これを最後に二人の動機は出現しない。ST31「アシタカとサン」は題名はともかく動機的には二人と関係がない。二人が最終的に結びつかないことはBGMの上では必然である(解釈はいろいろあるとしても)。個人的な感想として、「アシタカとサン」は曲の善し悪しは別にして、場面との断絶が感じられ、同意出来ない。二人が結びつかないにしても何らかの形で音楽化すべきではなかったかと思う。個人的な感想と断るのは、こんなことを言い出したら、ないものねだりの続発につながるからだ。私は通常、「(私なら)そうあるべきなのに、(制作者が)そうしなかったのは何故か」と考える。でないと、議論がどんどん映画から遠ざかってしまう。
 サン動機は後半は単独で出現するが、アシタカ動機は最後まで単独で出ることはない。アシタカの意識が常にサンを中心に動いていることは明白である。結末に至ってアシタカはタタラ場で暮らす決心をするが、BGMで考える限り、アシタカがタタラ場あるいはエボシと意識を重ねることはない。つまり、タタラ場で暮らすことはサンを守るためだと考えて良い。
 又、アシタカ動機に使われる楽器は「出会い」「生きろ」を除くと全てケーナである。ここにアシタカの意識の一貫性が見いだせる。サンに会う前も後も変わっていない。一方のサン動機は楽器の交代が激しい。アシタカとの出会いでさまざまに気持ちが揺れ動く様子が見て取れる。
 こうして全体を見渡してみると、ST3「旅立ち」におけるサン動機の扱いが注目される。二度使われるケーナはアシタカあるいはエミシの村を象徴する楽器だからだ。そして、ここに登場する人物はアシタカとカヤである。サン−サン動機−ケーナ−カヤという連関を見いだすのは容易だ。アシタカの心理にカヤ=サンの等号が潜んでいることは間違いない。ST3とST17はほぼ同一の構造を持っているが、サン動機を単独で奏する楽器は同じヴァイオリンである。カヤとサンは音楽でも同一線上にある。カヤとの別離とサンとの出会いは密接に繋がっているのである。
 これには傍証もある。制作者はカヤとサンに同一の声優を当て(石田ゆり子)、玉の小刀に重要な意味を与えた。カヤからサンへと移動する玉の小刀はカヤとサンの等価性を端的に表現している。
 アシタカが村を追われる原因はタタリ神にあるが、タタリ神に矢を射る直接的な原因はカヤを守るためである。アシタカ動機が常にサン動機と同時に登場するのは「サン、カヤはアシタカが守るべきもの」だからなのである。アシタカの一貫性の根拠はここにある。
 しかし、自分の実存の根拠を他者の自分への依存に求める限り、アシタカの内面は空虚にならざるを得ない。カヤはともかく、サンは元来、他者に依存する存在ではないから、アシタカの希望はサンが他者への依存を受け入れざるを得ない立場に転落することにある。この事実は映画自体では明瞭にされないがBGMの分析で明瞭に浮かび上がってくる。アシタカの意識はある意味で極めて利己的、又は自己陶酔的なのである。その意味でモロとアシタカの対話はサンを「守るべきもの」にする可能性を探っている過程と見なすことが出来る。そして、モロがアシタカの「共に生きる」という言い分を「人間らしい身勝手な考え」と表するのはまさに正鵠を射ているのだ。フランス語版では"egoiste"と罵っているからもっとも直接的だ。
 その後、戦いに敗れたサンは牙のネックレスを失い、玉の小刀のみを付けている。この段階でサンは既に自立性を喪失し、アシタカが「守るべきもの」になる条件を満たしている。だからサンは玉の小刀でエボシを刺そうとしてもアシタカの言葉であっけなく説得されてしまう。自分を守ってくれるアシタカに向けるのが精一杯だ。鹿神とモロが死んだ時点でサンの立脚点は完全に崩壊しているのだ。そして、アシタカに抱きしめられたとき、サンはアシタカに「守られるべきもの」の立場を受け入れる。
 アシタカは自分の実存根拠を獲得したとき、初めて「生きる」ことを許された。だが、サンがアシタカの実存根拠となるために払った犠牲は計り知れないものがある。森と鹿神とモロの喪失に代わるべきものを彼女は果たして得たのだろうか?タタラ場の破壊だけは実現したが…。
 アシタカには基本的に保護者意識がある。歴史上、森や自然を保護すべき対象に据えたのは現代である。エボシが近代主義的だとすれば、アシタカはまさに現代主義と言える。『もののけ姫』が時代劇と言いながら実のところ歴史ファンタジーになっているのも、こうしたアシタカの現代性を現実的な歴史劇に入れるのが困難だったからだろう。
 アシタカはいわれなくタタリ神の呪いを受けた。一方のエボシは自覚的な自然破壊者であり、「汚れと共に生きる」認識を持っている。両者の相違が明白なところなのだが、実はアシタカに一番欠けているのがこの「汚れ」なのだ。アシタカは自分の「汚れ」を自覚していない。残念ながら自分を無垢と信じている限り、タタラ場で生きることは出来ない。アシタカが「汚れ」に気づくかどうかは不明とするしかない。
 宮崎はかつてルパン三世、ポルコ・ロッソという「汚れ」とともに生きる人物を造形している。と同時にコナン、パズーという「汚れ」と無縁な人物も造形している。一方が年長者、他方が少年という相違があるが、宮崎がこの「汚れ」について充分意識してきた証拠である。アシタカはコナン、パズーの子孫だが、今後はルパンやポルコのように生きなければならない。
 これ以上の分析はBGMから離れすぎるのでやめておくが、こうして二つの動機を追跡するだけでも制作者が各場面にどのような意味合いを持たせようとしているか理解することが出来る。映画の解釈や評論は様々に展開出来るが、まず映画そのものが語るものを受け止めようとするならば、こうした分析は欠かせないことが判るだろう。
 ついでに述べておくと、アメリカ版は日本版の象徴表現の多くを継承していない。ひどい言い方をすれば、日本版の粗悪なコピーに過ぎない。私は英語のヒアリング練習教材と見なしている。

13.地球屋にて
P131 ヴァイオリンの型枠
 聖司の作業机右手の壁に型枠が並べてあり、セッションの最中に雫なめに何度か見える。そこに説明用のプレートが張ってあるのが判る(C580、584、585、587、601、606)。何と書いてあるのか興味がある。三行で一行目は"Classica"、二行目は数字、三行目は判然としないが"Viororz""Vioron"あるいは"Viorore"であろうか。一行目は「古典的」の意味だし、二行目はおそらく年代だろう。三行目が難しい。「型枠の制作者名」「使っている木材の名」であろうか。"Violon"の誤記も考えたがあまり可能性はない。一行目は多分イタリア語だが"Violon"はフランス語だからだ。名案はない。

P131 ヴァイオリン
 片仮名表記について基準が曖昧なので複数の表記が流通している状況にある。私は英語の"v"と"b"に当たる発音を区別するようにしているので"violin"は「ヴァイオリン」になる。絵コンテは「イオリン」と表記している。ちょっとおかしかったのが『劇場パンフレット』所収の「制作ノート」。"violin"の表記が「ヴァイオリン」なのに"viola da gamba"の方は「オラ・ダ・ガンバ」になっていて一貫性がない。宮崎に至っては「なぜ、いま少女マンガか?」の方は「ヴァイオリン」になっている。絵コンテと違っている理由は文章と発話の相違にあるのだろうか。
P131 ニスを乾燥させるため、四丁のヴァイオリンが吊されている
 ヴァイオリン製作では乾燥作業が二回ある。一度目はニスを塗る前の白木の状態で木を固くするために約一ヶ月乾燥させる。二度目はニスを塗った後で一週間つるしておく。画面のヴァイオリンはニスを塗ってあるので後者の乾燥中のものである。つまり、聖司のヴァイオリンはほぼ一週間以内に完成したばかりということになる。たぶん、夏休みの始まりと同時に作り始めたのではなかろうか。ニスの乾燥後、まだ部品の装着作業があるが、楽器としてはほぼ完成したと考えていい。後述するように聖司が八月二二日に職人になる決意をしたならば、今製作中の楽器が彼の本格的な製作楽器第一号となろう。
 実はこのカットに映っている聖司の作業用テーブルの位置は後の聖司が作業中のカット(C563)と食い違っているのだが、アトリエ全体を描写するための便宜的な処置と考えておく。カメラの置き方も相当強引である(壁にめり込んでいる)。

P132 ST9「エンゲルス・ツィマー(天使の部屋)」が始まる。
 この曲はイメージアルバムでは「半分だけの部屋」の題で収録されている。本名陽子が宮崎のBGMイメージを語る独特な曲。しかし、雫の部屋から地球屋に曲を引っ越しさせるとは!
P132 オルゲルプンクト
 ドイツ語でOrgelpunkt。英語ならOrganpointとなろう。オルガン曲によく用いられるのでこう呼ばれている。曲の冒頭や最後の頂点によく使われる。バッハのオルガンのための「トッカータとフーガヘ長調」(BWV540)のトッカータ冒頭にはなんと54小節に及ぶオルゲルプンクトがある(しかも二回繰り返される)。バッハの曲でもこれは最長ではなかろうか。

P134 少しはいいヤツかと思ったけど、やっぱヤナヤツ
 原作の一節をもじって使った。気づいてもらえただろうか?

P135 エンゲルス・ツィマー、天使の部屋っていうんだ。
 ドイツ語で"Engel"は天使、"Zimmer"は部屋の事。本論にも書いた通り、ドイツ語は複合名詞を多用する言語なので漢字熟語を見慣れた我々には親近感がある。絵コンテやSTには「・」が挿入されているので原文に忠実に記述したが私の地の文には入れていない。
 中性名詞定冠詞"Das"に触れておいたが英語以外に馴染みがない人には判らなかっただろう。ドイツ語に限らず、インド=ヨーロッパ語族諸語の名詞には性がある。性の違いによって使用する定冠詞も変わってしまう。ドイツ語には男性・女性・中性の三つの性があり、定冠詞(主格)はそれぞれ"Der""Die""Das"となる。Engelszimmerの場合、Zimmerが中性名詞なので"Das"が付く。英語の場合、名詞の性が五〇〇年前に失われ、定冠詞も"the"一つに統合されてしまったので英語を学ぶだけでは他言語の感覚が理解出来ない。
 Engelszimmerについて随分調べたのだが現在まで一つも確認出来なかった。非常に残念だ。その代わり、アンティーク・ドールやビスク・ドールの知識が増えた。それとドッグ・フードについても。どなたかご教示頂けるとありがたい。参考に他言語に直すと英語なら”the angel’s chamber”、フランス語なら”le chambre angelique”とかいうのだろう。推定なので違っていたらご容赦。
P136 テーブルの上や正面の棚にやすり、のみ、キャリパー(板の厚みを計る道具)などが見える
 この辺りは専門的でよく判らないので知人(加藤正史氏)に訊いた。キャリパーが難物で背景の上の方に丸いメーターの様なものが付いた道具がそれのようだ。加藤氏によると板の削りだしの時に厚みを計測する道具で100分の1ミリ(!)単位で計れるという。楽器製作とはなんと精密さが必要なものかよく判る。雫が聖司にヴァイオリンを弾いてとねだる場面(C578)では膠(ニカワ)付けの際に胴を固定するクランプや胴の縁(パーフリングという)の削り出しの線を描くためのコンパスなども描かれている。

P137 ネック(首)の完成を目指した
 聖司が仕上げているのは厳密に言えばスクロールに当たるが、部品としてはネックの一部なので判りやすいネックと書いた。スクロールは聖司がしている通り、丸のみで切り出す。右に見える切り出しナイフは胴の製作に必要な道具である。
P138 グァルネリ
 バルトロメオ・ジュゼッペ・グァルネリ・デル・ジェス(Bartolomeo Giuseppe Guarneri del Gesu)という長い名前の持ち主。デル・ジェスはあだ名。イエスのことだ。三〇代の作品は最高級と絶賛されている。製作量は二五〇以下で多作家のストラディヴァリと比べて遙かに少なく現存する楽器も一五〇ほどである。パガニーニ(Nicolo Paganini 1782-1840)やハイフェッツ(Jascha Heifetz 1901-1987)が彼の楽器を愛用していた。二人とも情熱的な演奏家で共通している。ハイフェッツの演奏は録音が多く残っているので興味のある方はどうぞ。ただし、彼はストラディヴァリの楽器も持っていたのでどちらを使っているかは確認しないと判らない。

P138 バロック・ヴァイオリン
 古楽演奏が当たり前になった現在では名器の考え方も変わってきた。いわゆる名器とは各時代の要請に応じて変化を遂げてきた楽器なのだ。三〇〇年を経ていることは確かだがすべての時間が今の名器を作り上げたと言ってよい。一方、古楽器は当時のまま現在に至った楽器だ。古楽演奏家は当時のままの音を要求するからいわゆる名器に見向きもしないのも当然なのだ。尚、バッハの遺産目録によれば、彼はシュタイナーを所有していた。シュタイナーの評価は当時からかなり高かったのだ。
 古楽合奏団としては早くから活動しているコンツェントゥス・ムジクス・ヴィーン(Concentus musicus Wien)のCDには使用楽器が掲載されているのでヴァイオリンの紹介をしておく。シュタイナーが三台使われている反面、いわゆる名器の作者の名前が一人も出てこないことに注意して欲しい。作者の生没年と説明は私が確認出来た範囲で書き込んだ。表記は製作者、製作地、製作年代(c.は頃を意味する)の順。地名は英語表記なので現地名と現国名を添えたものもある。

Jacobus Stainer(ヤコブス・シュタイナー),Absam(Österreich) 1665,1660,1676 ; 彼については後注にあり。JacobusはJacobのラテン語形。
Matthias Albanus(マティアス・アルバーヌス 1621-1712),Bozen(Bolzano, Italia), 1712 ; 製作年からMatthias Albani Uと判る。一世と並んでチロル地方最高の製作者。90才で製作したとはちょっと驚きである。
Barak Norman(バラク・ノーマン 1651-1724),London 1709 ; どちらかと言えば、ヴィオル製作者として名高い。イギリスで最も著名な製作者である。
Klotz(Joseph T ヨーゼフ・クロッツ 1743-1809),Mittenwald 1791 and 18th century ; 彼については後注にあり。
Johann Christoph Leidolff(ヨハン・クリストフ・ライドルフ1690-1758) ,Vienna(Wien, Österreich) 1748 ;
Joseph Leidolff(ヨーゼフ・ライドルフ 1756-1780),Vienna 1709 ; 生没年と製作年の食い違いがあり、上記Johann Christophの作としても若すぎるので誤植の可能性が高い。
Ferdinando Alberti(フェルディナンド・アルベルティ 1730-1769),Milan(Milano, Italia) c.1750 ;
Vincenzo Ruggieri(ヴィンチェンツォ・ルッジェーリ 活動期間 1675-1730),Cremona 1699 ; Francescoの次男で一族をなしている。ヴィオラ、チェロの方が有名。ベートーヴェンが彼のヴィオラを所有していたという。
Domenico Montagnana(ドメニコ・モンタニャーナ c.1690-1750),Venice(Venezia, Italia) 1730 ; ニコロ・アマーティの弟子でヴェネツィア派の代表的製作者。特にチェロが有名。
Ulrich Eberle(ウルリッヒ・エーベルレ 1699-1768),Prag(Praha, Czeko) 1743 ; バイエルンのフィルス(Vils)に発する一族の人。シュタイナー型を継承した。
Ferdinando Landolfi(フェルディナンド・ランドルフィ 1714-1787),Milan c.1750; ミラノ派最後の製作者。イギリスで評価が高い。

P139 逆に聖司に押し切られてしまった
 ここの場面の絵コンテは次の通り。


C578) 聖司 「ヨーシ、そのかわりお前うたえよ」
せいじ、こわいカオになり、いいすてると
「エッ!?」
聖司 しずくがうろたえている間に身体まわして
左下のベンチのバイオリンケースをとりあげる
「だ、だめよ、私。音痴だもん!!」
あわてて抗弁するが、

聖司

とりあわず机の上に<ヴァイオリンを>ヒョイとおき
「ちょうどいいじゃんか」
ケースの中央のフックをはずしているかんじ

<聖司の動作の間、ひたすらうろたえまくる>

C579)

聖司
<ヴァイオリンケースのUP>
左右のフックをはずした聖司の手
バイオリンケースをあけ、手なれたかんじでとり出す
(C580) 聖司 A.Cで、<ヴァイオリンを>左手に移し、すばやく弓をぬき出し
サッとかまえるやいなや調弦のかわりに何やら名曲の一節をとうとつにひく。
圧倒されるしずく。声もない。
C581) 聖司 カオあげ、かまえつつこわいかお。
「うたえよ、知ってる曲だからさ」
サッとひきはじめる。<セッションの前奏開始>

 謎を一つ。ベンチの上のヴァイオリン・ケースはいつ置かれたのか? このベンチは雫が二階から降りてきた時のアトリエ全景(C563)ではっきりと映るがヴァイオリン・ケースなど置かれていない。ところが聖司が雫に製作中のネックを見せる時には置かれているのだ。はてどこから出現したものか?
14.セッション版"Country roads"
P140 セッション版"Country roads"
 セッションは映画の第一の山場であるに止まらず、様々な意味を含んでいる。いわば、この映画の分水嶺の役割を果たしている。最初の視点変更の場面であり、「ふるさと」問題の確定場面でもある。雫の訳詩もここで決定稿が提示される。その重要性は本論で示した通りである。
 セッションの演奏者はSTのライナー・ノートに載っているが、ここに転載しておく。
 濱田芳道(Cornetto, Recorder)、植村薫(Violin)、竹内太郎(Lute)、福沢宏(Viola da gamba)


(追記)つい最近(2005・11・27)家内が福沢さんにお会いする機会があり、拙著のことを伝えたら大層喜ばれたとのこと。私も是非一度お会いしたい。

P140 具体的な説明はない
 そのかわり、作画担当が小西賢一だと紹介されている。彼は後に「千年女優」(監督 今敏)の作画の一人を務めている。採用試験の時、当落すれすれだったと宮崎が言っているが本当だろうか?(『もののけ姫はこうして生まれた』)

P141 原画を描いた才田俊治
 『セロ弾きのゴーシュ』のDVDには彼のインタヴューが収録されているので作画の苦労や工夫を知ることが出来る。

P141 楽器の写真が掲載されている
 紙幅の関係でリュートの竹内太郎さんは髭しか映っていない。見るたびに思わず吹き出してしまう。竹内さんはルネサンス・ギターが専門で奥さん(チェンバロ奏者)と一緒に日本国内で演奏活動をしている。知人宅で聞かせてもらった二人の演奏はいい思い出だ。(現在はイギリスで活動されている)
 セッションはプレスコ(事前に音と映像を録っておき、それに合わせて作画する)方式なので彼らの演奏の仕草が画面に反映している。
 実際に楽器が見たい人は専門店に行くしかない。東京以外は知らないが、目白にある「古典楽器センター」を紹介しておく。チェンバロ、ガンバ、リュート、コルネット、リコーダーなどが販売されているし、楽器演奏の教室も開かれている。私の家内はここでチェンバロとガンバを習っている。リコーダーだけならば、ヤマハ銀座店に多数置いてある。それ以外に、工房で調べることが出来る。インターネットで検索すれば見つけられるだろう。気さくな人が多いので訪問すれば喜んで見せてもらえると思う。地方で活動している人も多いので最寄りの工房を探せばよい。

P141 ヴァイオリン(Violin, Geige)
 楽器の原表記についてここでまとめて解説しておく。
 「ヴァイオリン」は英語のViolinに由来する。イタリア語ではViolino(ヴィオリーノ)、フランス語ではViolon(ヴィオロン)となる。ドイツ語にはGeige(ガイゲ)という独自の呼称があり、現代でも使用している作曲家がいる(シェーンベルクやベルク)。しかし、Violine(フィオリーネ)の方が通りがよいだろう。
 「ヴィオラ・ダ・ガンバ」はイタリア語。これが普及している。Bass Violはコンソート全盛期の呼称である。
 「コルネット」もイタリア語。近代になって同名の金管楽器が登場したため、混乱の原因になってしまった(管弦楽曲としてはベルリオーズ(Louis Hector Berlioz 1803-1869)の「幻想交響曲」(Symphonie fantastique)が最初かもしれない)。そのため、ドイツ語のZink(ツィンク)の方が好まれている。私もこちらを使っている。
 「リュート」は英語。イタリア語ではLiutoと綴る。日本語では変わらない。ドイツ語ではLaute(ラウテ)になる。さほど誤解を受ける危険がないのでリュートでかまわないだろう。
 「リコーダー」は英語。この楽器は各国語によって変化が著しいのでやっかいだ。ドイツ語ではBlockflöte(ブロックフレーテ)という。古楽器愛好家の中ではこちらの方がよく使われている。フランス語ではFlûte à bec(フルート・ア・ベック)、イタリア語ではFlauto dolce(フラウト・ドルチェ)。横笛のフルートが普及する前はFlautoだけで通用していた。英語以外ではフルートの一種として扱われているため、横笛のフルートの方も表記がいろいろあるがここでは省略する。
 「タンバリン」は有名だし、打楽器なので本論では紹介しなかった。英語でTamburinとなる。フランス語ではTambourin(タンブーラン)、ドイツ語ではTamburin(タンブリン)とあまり変化がない。
 そういえば、コンソートの説明をしていなかった。Consortと綴り、合奏のこと。アンサンブルと似ているが一七世紀まではコンソートというほうが多い。ルネサンス時代には各パートに特に楽器指定がなく、自由に楽器を組み合わせて合奏していた。同種の楽器を使うことが多く、リコーダー・コンソートやヴィオル・コンソートが流行した。各種の楽器を用いる時はブロークン・コンソートという。

P141 ヴィオラ・ダ・ガンバ
 絵コンテ段階ではチェロの予定だった。書き込みも「チェロ」になっているし、絵も四弦だしエンド・ピンも付いている。弓も順手に持っている。但し、サウンド・ホールがC字形なのが気になる。チェロはF字形が普通なのだ。C字形はガンバの特徴だから少し混乱している。ガンバを改造したチェロをモデルにして書いたのだろうか。映画のガンバはF字形になっているがこれはサウンドトラックの写真と同じである。珍しいがないことはない。我が家のガンバに比べて大型の気がするが六弦と七弦の違いもあるのでなんともいえない。福沢さんの楽器は60年ほど前にドイツで製作されたものだそうだ。

P141 大きさはソプラノ・アルト・テノール・バスの四種
 昨年の夏に楽器製作者である平山照秋さんが我が家を訪れた折、コントラバス・ガンバという大物を見せてもらった。バスより一抱え大きい。それでも膝に挟んで弾いてしまう。胴は二五〇年前のオリジナルだった。ついでに我が家内はその時トレブル(アルト)・ヴィオルを購入してしまった。これは平山さんの自作。楽器は以前から入手したかったとはいえ、我が家の財政は一体どうなってしまうのだろう?
 彼の話によると、ストラディヴァリもバス・ヴィオルやコントラバス・ヴィオルを製作しているが後にほとんどチェロやコントラバスに改造されてしまっていてヴィオルとしては残っていないらしい。今になってみると残念である。

P141 楽器自体も彼の自作かもしれない。
 ガンバの製作者が西老人だとすると北のリュートも彼の製作の可能性が出てくる。弦楽器製作は基本が同じなので実際の製作者はどちらも作る場合が多い。

P142 『カンタータ一九八番』
 ザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト一世の侯妃クリスティアーネ・エーバーハルディーネ(Eberhardine, Christiane, kurfürstin von Sachsen 1671-1727)の逝去に伴う追悼頌歌(Trauerode)として作曲された。題名は「侯妃よ、なお一条の光を」(Laß Fürsten, laß noch einen Strahl)でガンバが全曲に使われている。特に第五曲のアリア「侯妃の死はいかに安らかだったろう」(Wie starb die Heldin so vergnügt!)はガンバ二重奏の傑作である。
 他に『カンタータ一〇六番』もガンバ二台を使用している。こちらも葬送に関係している。バッハの場合、葬送の音楽とガンバには密接な関係が推測される。

P142 弦は最高音のみ単弦で他は二弦。
 サウンドトラックの写真では弦の状況がよく判らないが、映画の画面でははっきり見える。一二弦ギターを連想するとよい。八コースだと一五本の弦を調律するから結構手間がかかる。バロック・リュートだと一三コースもあるので二五弦の調律をする(高音の二コースが単弦なら二四弦)。最高音の単弦をシャントレル(Chantrel)という。
 リュートは指の腹でなぜるようにして二弦同時に弾く。慣れないとうまく二弦同時に鳴ってくれない。調律は音高を無視すれば、ギターとほぼ同じ音間隔。ギターの三弦(G音)を半音下げればよい(Fis音にする)。左手の感覚はこれで掴める。ついでにガンバの調律も同じ間隔なので一石二鳥の練習が出来る。あいにく音高は違うから楽譜の読み方は別に覚えるしかない。
 写真のリュートを見ると丸いサウンドホールに装飾が施されている。ローズ(薔薇)と呼んでいるが、映画では丸い穴しかなく殺風景。これはさすがに再現不可能と断念したのかもしれないが、ちょっと残念である。簡単でいいから何か入れて欲しかった。ローズはリュート作りの人が一番楽しむところなので手の込んだものが多い。我が家のリュートもそうである。
 ローズは元々大聖堂の丸窓(薔薇窓と訳す)を指す言葉。サウンド・ホールはこれを模倣している。

P142 ここで使用されているのは六コースである。
 イギリスでは七コース中心で最低弦をD音に調律するのが普通だそうだ。フレットの幅を狭くしてあるので左手で押さえるのに支障はない。我が家の八コース・リュートでは七・八コースをF音、E(あるいはD)音に調律し、開放弦にのみ使用する方式。
P143 七孔(左手四孔、右手三孔)。
 画面で見ると右手の小指をしっかり胴に付けている。これは指穴を押さえているのではなく楽器を支えるため。F管だから最低音はFかと思うとさにあらず、Gまでしか出ない。F音は唇で調節して出せる(らしい)。コルネットについては私自身が演奏しないので実物を所有している知人に尋ねた(佐久間荘太郎さん)。
P143 画面で見ると右端に当てているのが判るはずだ。
 ブルース・ディッキー(Bruce Dicky)は唇の中央で吹いている。濱田芳道は右端派だ。
 映画は濱田が演奏しているので彼の奏法を参考にしている。南を見ているとなんとなく仕草が濱田風に感じてしまう。ディッキーと濱田はコンチェルト・パラティーノという演奏グループに所属している。バッハ・コレギウム・ジャパンと競演した「聖母マリアの夕べの祈り」(
Vespro della Beata Vergine)は実演で聴いているが名演だった。CDも出ている。
P143 学校でもよく使われているので知名度は高い。
 リコーダーが学校の教材楽器に採用されたおかげで知名度は上がったが、今でも演奏楽器のリコーダーと別物と思っている人が多い。原因の一つは指導する側がこの楽器を熟知していないことにあろう。子供達はろくに発声法も身につけていないので音がめちゃめちゃなのだ。これでは本当の音を聞いても同じ楽器とは思えないに決まっている。この映画を見た人の中にもそう思った人がいないとも限らない。プラスチックの安いリコーダーは耐用期間が短いが、その間ならちゃんと吹けばそこそこの音は出る。
 リコーダーはヴィオル属と並んでコンソート楽器の主流だったのでその種類が実に多い。高音楽器から挙げると、

 ガルクライン…C管、ソプラノの半分の大きさ。あまりに小さいので私には穴が押さえられない。
 ソプラニーノ…F管、アルトの半分の大きさ。甲高いが面白い音がする。
 ソプラノ…C管、小学校で最初に覚えるのがこれ。
 アルト…F管、学校ではこの楽器もよく使っている。
 テノール…C管、ソプラノの倍の大きさ。
 バス…F管、アルトの倍。ソプラノからバスまであれば、ひとまず合奏が出来る。
 Cバス…ソプラノの四倍で1.5メートル位ある。
 Fバス…アルトの四倍で2メートルを優に超える。

 これ以外にもアルトやテノールよりやや高めの楽器もあるので何種類あるのか私にもよく判らない。又、ピッチも複数あるのでややこしい。現代の標準ピッチをモダン・ピッチと言い、A=440Hz。古楽器はこれよりほぼ半音低いカンマー・トーンが主流でA=415Hz。私の入っているグループは両方を使用している。他にA=386HzとかA=465Hzなどもあり、考え出すと切りがない。セッションはモダン・ピッチである。
 リコーダーになじみのない方にはいつでも「FRANS BRÜGGEN EDITION vol.1」をお薦めしている。このCDに入っているコレルリ(Arcangelo Corelli 1653-1713)の「ラ・フォリア」(La Follia Op.5-12 原曲はヴァイオリン・ソナタ)は最高の名演だ。ブリュッヘンのリコーダー、ビルスマ(Anner Bylsma)のバロック・チェロ、レオンハルト(Gustav Leonhardt)のチェンバロ、当代一流の三人が三人とも乗りに乗っている。

P143 テレマン
 ソナタやトリオ(三重奏)は沢山ある。組曲イ短調フルートとリコーダーの二重協奏曲ホ短調が有名。大変な難曲である。CDも何枚か出ている。アルト・リコーダーのデュエットはかなりの人気がある。私もよく吹いて楽しんでいる。他にはヴィヴァルディにソプラニーノ用とアルト用の協奏曲が数曲ある。こちらも難しい。

P143 『無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番 BWV1001』第一楽章の冒頭。
 東京の本郷にアカデミアという輸入楽譜の専門店がある。ここの紙袋や手提げ袋のデザインにこの楽章の自筆譜が使用されている。廉価な楽譜一冊で手に入るわけだから一番安い入手方法。インターネットでも注文出来る。郵送では袋を入れてくれないので注文の時に同封を頼むのを忘れないように。
 全曲のファクシミリは現在でも入手可能。価格は時価(ユーロのレートによる)で私が購入したときは八一六〇円(税別)だった。バッハに興味がない人や楽譜がよく判らない人に見せても喜んでもらえることは請け合う。
 こうした曲の引用は知らなければそのまま通過してしまう。観る側の知識度が測られるので怖い。私などポップ系の曲が出てきたら即お手上げだ。クラシックだって当然全部判るはずもない。
 宮崎アニメでバッハが引用されている最初の例は『カリオストロの城』。朝食中の伯爵と銭形の会見場面に管弦楽組曲第四番(BWV1069)のメヌエットが使われている。『魔女の宅急便』では、一休み中のおソノさんが編み物をしながらバッハのヴァイオリン協奏曲第二番(BWV1042)第三楽章を聴いていた。それ以外にあるかどうかは確認していない。今回も含めて三回も使っているところをみると宮崎は案外バッハ好きかもしれない(『魔女の宅急便』の音楽監督は高畑だが)。
 『名探偵ホームズ』のシリーズ後半に宮崎は関与していないが、ファンの人もいると思うので追加で述べておく。と言ってもバッハは最終話の冒頭で平均律クラヴィーア曲集第二巻第一曲(BWV870)のプレリュードが出てくるだけ。それより驚いたのはホームズの愛奏曲がウジェーヌ・イザイ(Eugène Ysaÿe 1858-1931)の無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第二番だったこと。第一八・一九話で弾いている。この曲集は一九二四年に出版されているからホームズが知っているはずはないと思うのだが? それはともかく、ホームズ制作者の中にイザイを知っている人がいたことが実に嬉しかった。監督の御厨恭輔か音楽の羽田健太郎であろうか。
 おまけついでに『風の谷のナウシカ』のST6『戦闘』の冒頭の主題はブラームスの交響曲第四番第四楽章の主題を用いている。この主題は元々バッハのカンタータ第一五〇番「主よ、われ汝を求む」のシャコンヌの主題を転用しているので二重の借用になる(残念なことに映画ではこの曲は使われなかった)。それにST12『ナウシカ・レクイエム』の冒頭はラ・フォリアの主題の前半と同じである。コレルリ版よりヘンデルのチェンバロの為の組曲ニ短調の方がよく似ている。こちらは映画の中でも流れる(ナウシカの遺骸がオームの触手で持ち上げられるところ)。『ナウシカ』で何故こうした引用が行われたかは今のところ判らない。
 高畑はクラシックファンなので引用が多いように思えるがそれほどでもない。『セロ弾きのゴーシュ』の全編にベートーヴェンの「交響曲第6番 田園」op.68が用いられていることは一度でもこの映画を観たなら誰でも判る。『火垂るの墓』には「はにゅうの宿」、『おもひでぽろぽろ』にはブラームスの「ハンガリー舞曲」第五番、シューベルトの「ピアノ五重奏曲 鱒」第二楽章が使われている。東欧の曲も使われているが、これらはクラシックの範疇には入るまい。『となりの山田くん』にはマーラーの交響曲第一番第四楽章交響曲第五番第一楽章が使われている。マーラー人気は高い。もう一つバッハの「平均律クラヴィーア曲集」第二巻第八曲のプレリュードが重要。これはユーリ・ノルシュテインの『話の話』のBGMによる引用である。両者の使用場面を比較してみることをお薦めする。他の引用はエンディング・クレジットにあるので省略する。
 『ギブリーズ episode 2』ではドヴォルザークの「ユーモレスク第7番」が使われている。

追記 2012.12.25)現在ではオリジナル譜面のオンライン化が進んでおり、以前に比べて圧倒的に容易に入手できるようになっている。→ バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ集

P144 バッハの無伴奏ヴァイオリン曲
 
バッハの音楽は宗教曲と世俗曲に大別されるが、世俗曲の中でこの無伴奏ヴァイオリン曲はブランデンブルク協奏曲、無伴奏チェロ組曲(BWV1007-1012)と並んで圧倒的に人気が高い。内容の深さも驚異的である。ソナタは四楽章形式で緩徐楽章−フーガ−緩徐楽章−急速楽章になっている。フーガは多声部なので特に演奏が難しい。パルティータは組曲形式で各種の舞曲で構成されている。曲数は一定していない。一番は四曲とその変奏があるので八曲、二番は五曲、三番は六曲構成。
 
ヴァイオリンは無伴奏向きの楽器ではないが作品例は意外と多い。バッハが最も著名なのは当然だが他にもあるのでいくつか紹介しよう。まず上の注に挙げたイザイのソナタ集。全部で六曲ある。最近人気が出てきてCDも増えてきた。パガニーニの二四のカプリッチョも有名で五島みどりが一八歳の時に録音した演奏がすごい。ハンガリーの作曲家バルトーク(Bartók Béla 1881-1945)も一曲ソナタを書いている。これは傑作である。プロコフィエフ(Sergey Sergeyevich Prokofiev 1891-1953)にも一曲ソナタがあった。ヒンデミット(Paul Hindemith 1895-1963)も書いているが残念ながら聴いたことがない。レーガー(Max Reger 1873-1916)の一五曲の無伴奏ヴァイオリンのための前奏曲とフーガは大変楽しい。最も旧い例としてビーバー(Heinrich Ignaz Franz von Bieber 1644-1704)のパッサカリア(Passacaglia)がある。
 一時期、無伴奏ヴァイオリン曲に熱中してCDやら楽譜やらを随分集めた。ヴュータン(Henri Vieutemps 1820-1881)のように楽譜はあるのにCDが一つもないのは困る。名前の如く旧いからではあるまい(vieu=古い、temps=時)。
P144 "Sei Solo a Violino senza Basso accompagnato"
 直訳すると「低音の伴奏を伴わないヴァイオリンのための六つの独奏曲」

P144 『シャコンヌ
 本論に書いた通り、自筆譜はイタリア語で「チャッコーナ」と発音するが、何故かフランス語の"Chaconne"の方が普及している。バッハ好きでも「チャッコーナ」では通じないかもしれない。シャコンヌはこの曲の名前ではなく曲の形式名。四小節単位の短い変奏を繰り返す。この曲は六四の変奏がある長大なものである。
 あまりに有名なので編曲も多い。セゴビアのギター版、ブラームスの(左手の)ピアノ版がよく知られている。誰の編曲か知らないがオーケストラ版まである。私は四本のリコーダー版を作ってみた。難曲になってしまい、仲間内であまり吹いてもらえない(トホホ)。リコーダー一本版も作ったが、これは名人でなければ演奏不可能(ナハハ)。自分でも吹けない。
P144 絵コンテ段階でもそのあとにも非常に細かい演出が施されている
 セッションはプレスコで作られているので編曲が上がってこないときちんとした演出が出来ない。絵コンテではまだ曲がないので大まかなことしか取り決められていない。全員合奏の部分は特に大幅な変更がある。

P144 細心の注意を払って見なければならない。
 本論を読んでいただければ、必要性が理解してもらえるだろう。映像から歌詞からほとんどあらゆる部分になんらかの意味が込められている。私には全てを抽出出来たかどうか自信がない。

P145 既にリコーダーとコルネットが用意されている
 このテーブルは雫が階段から見るアトリエ全景(C563)、聖司がヴァイオリンを弾き始めて呆然としている雫のカット(C583)と二度映されるがリコーダーもコルネットも置かれていない。しかし、三老人の登場場面(C593)では二本とも置かれている(絵コンテには書かれていない)。三老人の登場からセッション参加までの時間では二本の楽器の用意には少し足らない。南が自動車を降りる時に持っていてくれれば最善なのだが。

P147 『即興では絶対に演奏不可能』
 この問題は制作段階で野見が編曲を用意したこととは次元が違う。今求められているのは映画自体の現実性だからだ。仮に制作段階でより即興性が求められていれば、野見の実力ならば、それに合わせた曲を用意することは難しくない。即興では無理な曲を使用した演出上の理由をこそ問わなければならない。

P147 西老人の人物紹介
 今まで何となく紹介する間がなかったのでここで引用しておく。『プレス・シート』『劇場パンフレット』と『プレスキット』で相違があるので前者を「A型」、後者を「B型」とする。

「A型」…西司朗(80才)。聖司の母方の祖父。杉の宮の丘の上にアトリエをかまえ、趣味とも本業ともつかぬクラシック家具、からくり時計などの修理と販売の店「地球屋」をやっている。モダンジャズの演奏を楽しむ趣味人。

「B型」…西司朗(80才)。聖司の母方の祖父。杉の宮の丘の上にアトリエをかまえ、趣味とも本業ともつかぬクラシック家具、からくり時計などの修理と販売の店「地球屋」をやっている。いまだに、大型のピックアップ(トラック)を自分で転がし、モダンジャズの演奏を楽しむ趣味人。

P148 この演奏が即興ではない証拠
 綿密に調べれば他にも挙げられる。本論執筆以降にも見出した箇所がある。最後のリフレインを伴奏するヴァイオリンとコルネットのユニゾンだ。ユニゾンだけでも不可能だがそれだけではない。ここで使っている動機は聖司が曲の前奏に使用したものだ。当然、南はそれを聴いていない。ユニゾンの部分で聖司はそれと全く同じ旋律を弾いているから南が同じ旋律を吹くことは超能力を前提にしない限りあり得ない。
 もう一つ、チューニングに弾く無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番がト短調であることを挙げておこう。この曲の後ならば平行調であるト長調に進む方が自然なのだ。即興ならば、当然のようにト長調になるに違いない。

P148 ト長調の方がはるかに弾きやすいし、よく響く。
 前奏を譜面に興すとき、無意識のうちにト長調にしてしまった。和声の響き、特に主和音(G major)と属和音(D major)の低音部が開放弦になるので実に鳴りがいい。他の調など考えもしなかった。錯覚の原因の一つには前注に書いたように「無伴奏ヴァイオリンソナタ第一番」がト短調だったこともある。セッションがヘ長調だと気が付いたのは実は画面でリコーダーの運指を見ていた時だった(それほど正確に描写されている!)。ト長調ではどうしてもリコーダーの運指に無理が生じてしまうのだ。サウンドトラックで確認して間違いないと判った時には正直、愕然としてしまった。ヴァイオリンをどうやって鳴らしているのかさっぱり判らなかったからだ。あらためて聞いてみると、前奏の最後二小節などヘ長調のためにかなり進行が不自然になっている。ト長調なら造作もないところだ。
 聖司が即興でこの曲を演奏しているなら、前奏の冒頭や結尾くらいすぐに頭に浮かぶはずだ。私でさえ難しくない。ヘ長調を選んで有利なことなどありはしない。雫の声域に合わせたはずはないから一音の違いなどたいしたことではないのだ。

追記 2012.12.25)その後、BGMの譜面化を進めた結果、この曲のヴァイオリンにはスコルダトゥーラ(Scordatura)は用いられていることが判明した。ヴァイオリンは通常、低音からg-d-a-eに調弦するが、この曲ではf-c-g-eのように特殊な調弦を使っているのだ。この技法がスコルダトゥーラである。この曲の場合、ヘ長調に対応させる目的であることがはっきりしている。ちなみにこの件については東京藝術大学でも話題になっていたと後に知った。
 さて、これを踏まえて聖司の取った行動を考えてみると、セッションが即興である可能性は絶無であると分かる。何の意図もなくこんな特殊な調弦をしておくなどあるはずないのだ。

P148 リコーダーとコルネットの参加
 リュートは調律を見れば判るとおり、ト長調でも問題がない。六コースではなく七コースならば、低音にF音が追加されるからヘ長調に都合がいい。つまり、コルネット、リコーダーの参加を予定しなければ、やはりト長調の方がいいのだ。

P148 南がなぜかしっかりリコーダーとコルネットを用意していること
 南は地球屋に入ってくる時、上着だけしか持っていない。楽器は一階の棚にでも置いてあったはずだ。三人が階段から顔を出してから南がタンバリンを叩き始めるまでの所要時間は長く見積もっても一〇秒ほどだ。
 (1)コルネット … ケースから本体とマウスピースを出す。→両者を繋ぐ。
 (2)リコーダー … ケースから本体三本を出す。→二箇所のジョイントを繋ぐ。
この全部をこなすには一〇秒はかなり厳しい。私なら頑張ってもリコーダーが限界だろう。全部出来上がった状態で置いてあったと想像するかもしれないが、あいにく季節は暑い夏である。木管楽器は暖かいと膨張する。リコーダーの頭部管は中部管に較べて肉厚なので、繋いだままだと中部管の方が膨らみすぎてきちきちになってジョイントを痛めてしまうのだ。コルクも潰してしまう。だからケースに仕舞ってあるに決まっているのだ。コルネットなら少しは安全だがリコーダーは仕舞ってあるのにコルネットはそのままでは不自然である。どちらも南の楽器だがら同じに扱ったと見るべきだろう。
 ついでに書いておくとリュートをいきなり弾くのはかなり無理がある。リュートの弦は羊腸弦だ。しかも二弦を同音に合わせてある。長時間放置するとすぐ狂いが出てしまうのだ。雫が地球屋に現れてから三老人が演奏に参加するまで少なくとも数時間は経過している。リュートが調律を保っていられるとは思えない。こちらは一〇秒では絶対に不可能だ。この問題はセッションが即興だろうと編曲だろうと悩みの種だが、まぁ、音量が少ないので控えめに弾けばうまく誤魔化せるかもしれない。私ならそうする。

P149 即興演奏の基本はあくまで独奏
 ジャズやインドの芸術音楽に親しんでいる人ならばすぐ理解出来るだろう。複数の楽器で演奏する場合でも即興の中心になる楽器は常に一つである。そのほかの楽器は伴奏に回っている。複数の楽器が必要な場合は必ず事前に打ち合わせを行ってうまく合うようにしている。

P149 西老人の発言は漠然としているから参考にならない
 本論を書いた時点では西老人の言葉の重要性に気が付かなかった。後で考え直してみるとこれも価値ある情報であることが判ってきた。確かに西老人と雫の会話は二人が顔見知りであることしか伝えていない。南が雫と時計を結びつけるには不十分である。しかし、もう一つの情報と組み合わせればそうではない。それは『聖司と雫が顔見知りだ』という情報だ。つまりこの時点で南は『雫は聖司と西老人の共通の知り合いである』ことを知っていることになる。そして、聖司と西老人の二人が共通に知っている聖司と同世代の少女と言えば、まさに時計の出来事が連想されるに違いない。
 この段階で南が雫と"Country roads"の関係を知らなくてもかまわないことになった。しかし、考えてみると南が二人と雫の関係を知るとすれば、当然二人からその話を聞く以外にない。たとえ西老人から話を聞いただけだとしても聖司にとって"Country roads"が大切な曲であれば、南と北がその編曲に荷担することを妨げるものは何もないことも事実なのである。要するに三人の"Country roads"編曲過程を確認した後ならばこの情報はなんら支障がないのである。

P150 この男性四人が事前に"Country roads"の編曲をする条件は十分に整っている。
 「セッション事前編曲説」に抵抗がある方もいると思う。絵コンテにも「即興」とあるのだからなおさらだ。それを否定するために私は細かく根拠を挙げておいたが『理屈はともかくどうも納得がいかない』ことはあり得るからだ。しかし、それはこの映画を観る時、『無意識のうちに雫に視点を重ねてしまう』からなのだ。決して客観的なものではない。「はじめに」でも書いておいたように、私は自分の主観を分析に持ち込まないよう努めた。主観でものを言っていたのでは議論が出来ない。
 「事前編曲説」を感情的にではなく客観的に否定するためには『この演奏が即興で演奏可能である』ことを証明しなければならない。私にはそれは不可能だと思われる。でなければ、『所詮、これはお話だから…』と逃げる他はないが、それでは映画を分析することそのものを放棄するに等しい。

P151 そこで後半は三老人も参加した大がかりなセッションになったのだ。
 セッションが四人の男性による編曲そのままとは限らない。二番の省略もあり、編曲通りに出来る保証はない。西老人と北は最も入りやすいタイミングで参加したと考えて構わない。しかし、二番の省略の後だから、演奏にはなんの支障もない。もう一つ指摘しておくと、聖司が編曲を開始した時はヴァイオリン一本だからト長調だったに違いない。南の参加の段階でヘ長調に移されたはずだ。

P152 最大の難関は雫だ。
 ここの論点はセッションが即興の場合でも同じになる。雫が即興で歌えるかどうかはセッションが事前に編曲されていようが即興だろうが無関係だ。私はその可能性を追求した。これは現実性を堅持するのに必要な手続きなのだ。セッション即興説を維持するためには雫同様に他の四人が即興で演奏可能なことを説明しなければならない。
 ここで二番が省略されていることを論じた。第三稿と第四稿の相違を認めない限り、この省略を現実的に解釈することは出来ない。二番を入れるとセッションはかなり長くなる。第三稿が作られた目的は二番の省略を合理的に説明する目的もあったと見られる。

P152 訳詩の二番に当たる部分が存在しない。
 厳密には二番の後の間奏もないが二番の省略に比べれば全く問題にならない。

P153 同じ事を繰り返しても良いのだ。
 事実、聖司はリフレインの部分をほぼ前奏を使って伴奏している。

P154 第三稿に二番はなかったのだろうか。
 雫が保健室で第三稿を示す場面に用紙が映っているので子細に見てみたがどちらとも判断出来なかった。
P154 見たことも聞いたこともない楽器ばかり
 自分が古楽器に馴染みすぎているので、実際の処どの程度知られているのかよく判らない。マァ、大して知られてはいないだろう。雫がリコーダーを知っている可能性は相当高いが、音色が違いすぎて同じ楽器だと思わなかったに違いない。セッションの後で教えてもらってびっくりしたかもしれない。私の経験でもリコーダーを吹いた後で「何という楽器ですか」と訊かれることが何回かあった。このことはP134の注でも書いておいた。

P155 創造する行為がなかった。
 雫の詩作について考えなかった訳ではないが、あえて無視した。一つには、雫自身が詩作を自分の本分と見ていないこと。これは夕子との対話場面で明らかだ。二つには、雫の詩は内容が日記に近い。創作活動の意識はあまりなかったと思われる。だから、自分がやるべきことから排除されているのだ。

P156 「地球屋とその住人」これが雫が獲得した「ふるさと」だったのだ。
 これまで雫にとって"Country roads"は単に「友人に訳詩を依頼された曲」に過ぎなかった。雫にとって重要な意味はなかった。しかし、セッションによってこの曲は雫自身のための曲になった。この意味は大きい。

P156 "Country roads"第四稿
 英文字幕では次のようになっている。

Had a dream of living on my own...with no fear of being all alone.
Pushed my sadness down inside of me...and pretended I was strong as I could be.

Country road, this old road...if you go right to the end...
Got a feeling it'll take me...to that town, country road.

It doesn't matter to me how sad I might be...
I will never ever let a tear show in my eye...
If my feet are moving faster that's because I only want to...push away memories...

Country road, this old road...could go right to my home town...
I won't go there, I can't go there...
...can't go down that country road.

第一節の後半が前半と切れてしまっているので第三稿と変わらなくなっているが、決意表明なのだから未来法か仮定法で接続させた方が良かった。この節全体が第三稿に引きずられている。最初のリフレイン前半で"you"が出てくるが、後半に"it'll take me"とあるのだから"I"でよかったはず。最後のリフレインではまたしても「故郷」が"my home town"とされている。"home"だけでは「家」と勘違いされると考えたのだろうか。しかし、意味を町に限定してしまうのはどう考えても無理がある。"country"も"home"も町の意味合いは薄いのだ。
 エンディングには字幕がないのでそれ以外の箇所については不明である。

P157 現実世界をひとまずかっこに入れ、自分の世界を堅く守る。
 第三稿のリフレインを説明した時、「あの町」に具体的な意味が込められていないと指摘した根拠がこれである。本論では結論しか書かなかったが意味は了解出来たと思う。第三稿の段階で雫は現実世界に続いている通路など求めてはいないのだ。リフレインの歌詞は雫の心境と決定的に矛盾してしまう。雫が求める「あの町」などどこにも存在しないのだ。

P157 ここには雫の世界崩壊が端的に表現されているのだ。
 こうした内容の違い自体が第三稿と第四稿の二つの存在を証明している。両者の違いは単なる微修正の域をはるかに越えている。

P158 改稿の原因となった出来事は九月五日の間に起きたはずだ。
 こういう意外な発見があるところがこの映画の奥行きの深さだし、分析の楽しさ。細部にこだわる意味はこんなところにある。

P159 異常なまでに勉強に熱中し、
 絵コンテには「試験勉強」とある。しかし、実は勉強ではなく第四稿創作中の可能性もあるので画面を綿密に見た。ヘッドフォンで聴いている曲は"Country roads"かもしれないが詩作中ではなかった。理由は雫がノートに書き込みをしているからだ。雫は第一〜三稿すべてルーズリーフに詩を書いている。第四稿だけ例外にする必要はなかろう。

P159 たった一晩で完全に立て直しを終えるのは不可能だ。
 杉村に対してとった性急な態度もそうした心境の反映といえないことはない。

P161 以下、口げんかが続くが少し省略する
 省略部分を紹介する。

(C618)セイジのり出し
    聖司「なにバカなこといってんだよ。名前なんてどうだっていいじゃないか」
    雫 「よくなーい!!自分はフルネームでよびすてにしておいて」
    <聖司、雫の勢いに少し押される>
(C619)<三老人>とつぜんのさわぎにびっくりしてセイジを見、しずくを見ておる。
    聖司「お前がきかないからいけないんだろ」(off)
    雫 「きくひまなんかなかったじゃない」(off)

P163 聖司に惹かれる意識は生まれていた。
 この部分が杉村の告白場面の文章と矛盾する形になったのは、我ながら残念だった。全体を見渡した後で解釈を加えるのではなく、映画の推移に従う形を取ったため、どうしてもその時点の材料によって解釈をする場合が生じてしまう。整合性を考えながら書いてはいたがこの部分はあまりうまくいかなかった。

15.聖司と雫
P166 映画では触れていない。
 この点について誤解している人はいないだろうか。「雫は作家志望である」などとは映画には一切出てこない。これは紛れもない事実なのだ。
 明確な言及があるものを挙げると、(1)プレスキット、(2)劇場窓口チラシB、(3)プレス・シートに出てくる次の文である。

 「この物語の主人公・月島雫は、いつか自分でも「物語」を書こうと思っている読書好きの中学校3年生の少女。」

 『劇場パンフレット』になるとこの文章は消えてしまう。雫の人物紹介にも出てこない。最もそれらしい文章は宮崎の次の文。

 「主人公の相手の少年は、絵描きを夢見て、イラスト風の絵を描いている。これも少女マンガの典型で、切迫した激しい芸術を志向する人物では決してない。物語の書き手になることを夢見る少女のそれも、国籍不明のメルヘン作りであって、少年と同様、少女もまた傷を負う危険のない範囲にかこわれている。」

 注意して欲しいのはこの文章はあくまで原作についての言及だという点だ(実のところ、原作にも作家志望などと書かれてはいない)。映画でそれがどう扱われるかは一切書かれていない。ということは、『劇場パンフレット』を手に映画を観る最も一般的な鑑賞者には「雫が作家志望である」かどうか曖昧にされているのだ。公開に先立つ一月前のプレス・シートと扱いが異なった理由は不明だが、本論を書く上でこの点をどう扱うかは重大な問題だった。結論として、『劇場パンフレット』の公共性の高さを尊重し、「雫が作家志望であるかどうかは不明」として本論を書いた。本論では雫が作家志望であることを仮定して述べた箇所もあるので全体として矛盾は生じていないと思う。ここの一節に「映画」とわざわざ断ったのもこうした事情を考慮した為である。
 チラシB等の文の制作者は制作担当の田中千義だと推測される。どうもこの文章は宮崎の文を下敷きにして書かれている可能性が高い。宮崎の文は一九九三年一〇月一二日に提出された「企画立案書」そのままだ(『出発点』所収)。つまり、『耳をすませば』に関する最も古い文書である。田中がそれを利用したのも当然かもしれない。しかし、出来上がった文意は宮崎のそれと微妙な食い違いがある。"Country"問題といい、これといい、意外なほど宮崎と田中の間に意思の疎通がなされていない。映画そのものは観ることが出来なくても絵コンテやレイアウトはあるのだから田中が内容をしっかり把握することは出来たはずだ。制作期間一年という慌ただしさが原因かもしれない。公開されている資料類を鵜呑みに出来ない事情がこんなところにもある。

P168 聖司の希望はあながち無謀とは言えない。
 ヴァイオリン職人の海外留学についてはかなり詳しく知人から話を聞いた。以下の文はそれに基づいて私がまとめたもの。本論では用いなかったがここに掲載する。割と辛口の文章になってしまった。

 「ヴァイオリン作りになるためにクレモナに行く。」聖司の基本線はこれだ。職人になるために修業を積むのは当然だ。15歳の若さでそれを目指すのもいい。だが、現実的に見て聖司がしようとしていることは果たして妥当なのか。語学の壁を無視したとしてもいささか疑問に思える。我が家にあるリュートを製作して下さった方は40歳でこの道に入られた。以後、ガンバもチェンバロも製作している。同じく我が家のガンバとチェンバロを製作された方は30歳で「脱サラ」して楽器製作者になられた。お二人とも楽器職人として現役で頑張っておられるが別に海外修業をなさってはいない。身近にそういう方々を知っているせいか、聖司を「ずっと遠くを見つめて、少年は着実に生きている」と素直に頷くことに躊躇してしまう。
 聖司がどうしても海外の製作学校に行きたいならそれもよかろう。だが行き先がイタリアのクレモナで良いのか。クレモナは確かに過去に著名な名器を生み出してきた。知名度も高い。しかし、現在ではどうやらクレモナはヴァイオリン製作の中核ではないらしい。生徒数が多いのに指導者が少ない難点もある。現在ではアメリカ東海岸のボストン、イギリスのロンドン、ドイツのミッテンヴァルト(ミュンヘンから南約100kmにあるオーストリア国境の町。ここの製作学校は人数・年齢制限が厳しくなかなか入学出来ないらしい)の水準が高いそうだ。特にボストンの製作学校を高く評価されていた。教え方も丁寧で近所に工房も多い。ここなら英語力さえあれば、留学するのに好適だ。
 ついでだがミッテンヴァルト(ミッテンワルド)は「牢獄でバイオリンを作る職人」の本文にも出ている。昔からドイツのヴァイオリン製作の拠点だった町である。
 私が伺った方は、学校に行くのもいいが腕の良い製作工房に弟子入りするのが早道だともおっしゃっていた。楽器製作は「ヴァイオリンだけ作ればいい」ではすまない。弦楽器全般の知識が必要だし、他の弦楽器の製作もする。『耳をすませば』のエンディング・クレジットには協力として「茶位幸信バイオリン・ギター工房」の名前がある。この工房は町田市の玉川学園にあるから聖司が通うにはうってつけだと言えよう。他には調布市に工房が数箇所あるからここに通うことも可能だ。技術的な高さにこだわるならば、無量塔蔵六(むらたぞうろく)氏の製作工房なら申し分ない。彼は国際ヴァイオリン製作コンクールの審査員も務めた人だ。世界的知名度も高い。工房は
品川区の東五反田にある。航一の反対理由は明らかではないが、近所の工房に弟子入りすることを勧めていたなら聖司が拒むのは難しかったのではなかろうか。
 だめ押しに書くが、日本の楽器製作技術はかなり高い。前述した我が家のグランド・チェンバロの製作者は
兵庫県篠山市在住の平山照秋という方だ。この楽器はとにかく見事な音がする。他にもかなりの実力の持ち主が多数いることを知ってもらいたい。
 最後に聖司のために一言述べておく。以上のように聖司にはいくつかの選択肢がある。そして、クレモナ行きが最善かどうかも判らない。しかし、選択肢の一つであることは否定出来ない。そのことははっきり言える。だから、聖司が一途にそれを希望するならば、それを拒む理由はない。より良い選択をしてもそれを生かせなければなんにもならない。まさに「結果は未知」としか言えない。最終的には西老人の判断同様、「やりたい時に(やりたいように)やらせるのが一番」なのだ。だから、私が本論に書いたことは決して嘘ではない。

P169 特にドイツは職人(親方がマイスター)の伝統が強固なお国柄だ。
 ヴァーグナー(Wilhelm Richard Wagner 1813-1883)に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(Die Meistersinger von Nürnberg)という楽劇がある。この楽劇の主人公ハンス・ザックス(Hans Sachs 1494-1576)は実在の人物である。マイスタージンガー(親方歌手)兼靴職人。靴職人が伝説化する位、職人は重要な地位を占めているのだ(日本なら絵師の巨瀬金村か雪舟クラス)。この楽劇の第三幕第五場で歌われるザックスのアリアは職人の誇りと技をドイツ民族の象徴として高らかに歌い上げている。私はこのアリアを聴くとなぜか涙があふれて困ってしまう。その歌詞の一節を紹介しよう。

 われらのマイスターたちはこの芸術を            Daß unsre Meister sie gepflegt
 彼らの特性に従って、育て、                  grad' recht nach ihrer Art,
 彼らの感性によって忠実に保護し、             nach ihrem Sinne treu gehegt,
 純正に保ってきたのです。                   das hat sie echt bewahrt:
 …
 この芸術は艱難の年月の苦しみにもたえ、         im Drang der schlimmen Jahr'
 ドイツ的に、また真実に生き続けた。             blieb sie doch deutsch und wahr:
 …
 あなた方のドイツのマイスターたちを尊敬して下さい。   ehrt eure deutschen Meister!
 そうすれば − 気高き精神を確保できるのです。     Dann bannt ihr gute Geister;
(「名作オペラ ブックス23 ワーグナー ニュルンベルクのマイスタージンガー」音楽之友社 渡辺護訳詩)

 歌詞が民族主義的過ぎるに思われるだろうが、初演が一八六八年、つまりドイツ統一の直前ということを考慮しなければならない。ヴァーグナーの民族主義や反ユダヤ主義はナチスに徹底的に利用されたので印象が悪い。迷惑な話だ。

P169 伝統職人の世界が死に瀕している
 逆に新たな手工業の発達が見られることも忘れてはいけない。楽器製作は特に盛んである。陶芸やガラス、人形などもある。若い人たちがもう少しこういう世界に関心を持ってくれれば、日本の将来も明るくなるはずだ。日本は元々手工芸の技術的水準が高いのだ。

P169 現実を回避して期間延長を図っている
 ようするに「モラトリアム」のことだが、私は安易に外来語を使いたくないので回避した。実際には使わざるを得ない時もあるが、従来の言葉で言い表せるならば、それにこしたことはない。その代わり、漢字はなるべく使いたい方だ。

P171 確定的な答えは出せないが試案を二つほど挙げておこう。
 不確定な仮説を挙げるのは気が引けるが、たたき台とでも考えて頂きたい。

P171 イエスの生誕物語
 マルコ伝とヨハネ伝には生誕物語がない。イエスの生誕物語は四つの福音書のうち、マタイ伝とルカ伝にしかないのだ。しかも双方の内容はまるで異なっている。厩で生まれるのはルカの方で、東方の博士はマタイの方に出てくる。日本ではルカよりマタイの生誕物語が知られている。ルカの方も賑やかで子供時代の生意気なイエスが出てきて面白い。

P172 文語訳聖書
 口語訳聖書ならば、「日本聖書協会訳」他各種ある。「文語訳」は訳としては少し甘いところがあるそうだが、格調が高く心地よい。現在でも購入出来るから個人的趣味で「文語訳」にした。読みづらかったならば、申し訳ないと謝るしかない。
 聖書の翻訳について知りたい人は「書物としての新約聖書」(田川健三著 勁草書房)を参照して欲しい。彼に文語訳を使ったなんて言ったら叱られそうだが…。

P172 この曲の旋律はST1「丘の上」の序奏の動機から作られている。
 映画冒頭で雫が三枚の貸出カードを見ている場面のBGMを注意して聞いてもらいたい。ゆったりした主旋律の下に対旋律が聞き取れるはずだ。この主旋律と対旋律を並べると「満天の夜空」冒頭四小節の旋律線の骨格が作れる。
 無茶苦茶な事を言っているのではない。西洋音楽の楽曲分析の方法としては初歩的な部類である。この種の分析の入門書として「ベートーヴェンを求めて」(吉田秀和著 白水社)を挙げておこう。最初のピアノ・ソナタ「月光」の分析だけ読んでも充分納得して頂けるだろう。

P172 オルガンが登場する意味
 まだ確証はないが、これは小作者西老人ではないかという気がしないでもない。今後もう少し考えてみたい。

P175 これは中間考査に出る
 解いているのは四角形の円との内接条件。三つ式があるが一番目と三番目は同内容なので実際は二式になる。数学が好きな人は考えてみるように。現在では高等学校の数学Aに含まれている内容である。

P175 モブシーン
 英語で"Mob scene"と綴る。群衆場面のこと。実写映画の場合、群衆とは文字通り多くの人間のことだが、アニメーションの場合は人間に限らず多くのものが動き回るならば事実上モブシーンである。『千と千尋の神隠し』で湯婆婆が千尋に向かって「だまれー」と叫ぶシーンでは多くの書類や小道具が散乱する。これも立派なモブシーンである。

P176 西老人に話すのは放課後に決まっている
 修業先の手配を考えると前夜に伝えた可能性もある。時差があるから日本の深夜ならイタリアの夕方に連絡出来る。しかし、この類の手配は航一と西老人の間で行うべき事だろう。聖司が雫を送ったあとで又地球屋に行く必要もない。
P178 少し言い訳めいた言い方になっただけと解釈しておこう。
 聖司の発言の解釈は本論では少し弱いかもしれない。小作者西老人の立場に立って考えるとやはり『自分よりも先に雫に知らせてやって欲しい』という思いがあったのだろう。担任と父親の話が妥結すれば、聖司は午後早退して準備にかかるだろうから、地球屋に行くはずだ。西老人はそう考えて聖司にこの言葉を使わせたのだ。

P178 雫に何もかも伝えて自分の喜びを分かち合ってもらいたい気持ちで一杯なのだ。
 雫と聖司の会話には留学終了直前の西老人とルイーゼの会話が反映しているかもしれない。どちらも別離を前提として話がなされている。ルイーゼも西老人がドイツを去った後の自分に不安を感じていたのではないか。西老人は聖司同様にそのあたりの事情をつかみ損ねていたとも考えられる。
 単なる憶測なので本論には使えなかった。根拠なし。

P178 じいちゃんの友達
 この人物が日本人なのかそうでないのかはたいして問題ではない。楽器職人の世界は国内も国外もつながりは強いのだ。

P180 五歳、又は一〇歳の時に取得していたとすれば、
 個人用パスポートは〇歳児でも作れる。五年後に写真と本人の照合が出来るのだろうか?我が家の息子は七歳の時にパスポートを作ったが三年後には別人になってしまった。フランスの入国係員は笑って通してくれたけれど…。

P180 息子を中卒止まりにする
 クレモナの製作学校の概要で紹介したようにこの学校は高等専門学校なので、日本の高専同様に大学進学の道もある。聖司がそこまで考えているか疑問だが、西老人が父親説得に強調したことは間違いない。
P183 雫が事態をこんなに深刻に捉えているとは
 雫は既に本の世界が崩壊していることを忘れてはいけない。ここで聖司に旅立たれてしまうと雫の心理世界には空虚しか残らないのだ。この場面の雫の絶望感を知れば、どんなことがあっても聖司に着いていく他に雫には手だてがないことが理解出来る。聖司は雫の世界崩壊も自己崩壊も知らない。だから、雫の心の動きが掴めないのだ。

P184 雫に風、大いに吹く
 ここは絵コンテの説明が長いので簡略化した。絵コンテは次の通り。「風がしずくの心をあらわすように吹きぬけていく。声が出ない。しずくうなずき、『…、あ、あたしも…(声かすれる)』。SEで心臓の音を入れたい位。涙があふれて来てうつむく。」

P185 調性はヘ長調に転調する。
 これはまったくの余談なのだが、この転調のところにBACHの音型が移調して出現する。変ロ長調の最後の旋律がE♭−D、次の転調直後がF−E。四つの音を四度下げるとB(=B♭)ACH(=B)になる。音名はドイツ式でないとだめ。
 B−A−C−Hの音型はバッハ自身も主題に使っているし(「フーガの技法」の最終曲)、多くの作曲家が手がけている。フランツ・リスト(Franz Liszt 1811-1886)にはオルガンのための「バッハの名前による前奏曲とフーガ」があるし、マックス・レーガーがオルガンのための「バッハの名前による幻想曲とフーガ」を書いている。シェーンベルク(Arnold Schönberg 1874-1951)の「管弦楽のための変奏曲」、アントン・ヴェーベルン(Anton Webern 1885-1945)の「弦楽四重奏曲」にも用いられている。これらの曲はクラシックファンであっても難解なのであまりお薦めしない。「フーガの技法」(Die Kunst der Fuge BWV1080)がよろしい。私もリコーダー四重奏でよく吹く曲集である。BACHが出てくるのは最終曲の第3主題である。
オリジナル譜面はこちら。初版譜には含まれていないので自筆譜の方を見てください。
P185 調象徴(Tonal allegory)の技法
 調象徴の研究はほとんどバッハのカンタータや受難曲を中心に行われている。フィグーラのことも併せて、磯山雅の「マタイ受難曲」(一九九四 東京書籍)がお薦め。マタイ受難曲はホ長調(♯四つ)から変ホ短調(♭六つ)まで幅広い調を使っている。最も低い変ホ短調は十字架上のイエスの最後の言葉のみに使われる。
 あいにくこの著作は調象徴の理論までは触れていない。国内文献に適当な理論書がないので私は”TONAL ALLEGORY IN THE VOCAL MUSIC OF J.S.BACH”(Eric Chafe, UNIVERSITY OF CALIFORNIA PRESS, 1991)を参考にした。
 調に個性がある感覚は現代ではピンとこないだろう。それは鍵盤楽器も他の楽器も平均律を使用しているためだ。平均律はどの調でも同じ音間隔なので調による違いがない。しかし、バロック時代は不均等調律の時代だ。調によって響きはかなり異なっている。調毎に違った色合いがあったのだ。当時の調律を厳格に守った演奏はなかなかないのだが、トン・コープマン(Ton Koopmann)がバッハの「平均律クラヴィーア曲集」(Das Wohltemperierte Clavier BWV846-893)全曲をヴェルクマイスター三式一つで押し通して録音している。シャープやフラットが少ない調は実に透明感のある音がする反面、多い調はかなり耳慣れない音がする。

P185 和声進行が同一
 「丘の町」の二小節分が「流れる雲、輝く丘」の一小節分と対応する。口ずさんでいるうちに何となく似ていると判るはずだ。「流れる雲、輝く丘」の最初の六小節まで完全に「丘の町」の伴奏で歌うことが出来る。もちろん、逆も可能。それほど厳格な同一性はないのであくまで気分の類似と考えてもよい。
 もっともこれはあまり強く主張出来ない場合もある。作曲家が同一の場合、気に入った和声進行がよく出てくるからだ。久石譲を例に取ると、『天空の城ラピュタ』の主題歌「君をのせて」と『魔女の宅急便』のST3「海の見える街」の冒頭は和声進行が同じだし、ST1「晴れた日に」も短調と長調の違いはあるが同じである。実はこの低音降下の進行は『千と千尋の神隠し』のST1「あの夏へ」の中間部にも登場する。10年以上にわたって使用している久石お気に入りの和声というわけだ。ところが、この和声進行にはまだ歴史がある。本論で紹介したバッハのシャコンヌの主題もこの和声進行なのだ。遡ると、ビーバーの「無伴奏ヴァイオリンのためのパッサカリア」も同じである。つまり、久石は意外と古い和声進行が好きなのだ。
 和声変奏について補足しておこう。変奏曲というとモーツァルトの「キラキラ星変奏曲」のような旋律を変化させるやり方が普通だ。これを「旋律変奏」と呼ぶ。変奏しても元の旋律を聞き分けられる。しかし、和声変奏はそれと異なり、共通しているのは和声構造だけだ。旋律の方はまるで共通性がない。聞き慣れないと変奏とは思えない。変奏技術もかなり高度である。いい和声を選ばないと変奏に限界が出て来る。
 代表的な曲としてバッハの『ゴールトベルク変奏曲』とベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770-1827)の『ディアベリ変奏曲』(op.120)を挙げておこう。前者は三〇、後者は三三の変奏を持つ大曲である。『ゴールトベルク変奏曲』は一度から九度までの九つのカノンによる変奏を含む。その作曲技術の高さにはただただあきれるばかりだ。この曲については「カノン」のところでも触れた。

16.聖司
P186 分析がほとんど聖司にも当てはまる
 聖司が市立図書館を愛用していた理由も雫と同じと考えられる。聖司も貸出カードに名前が書かれていない本には興味がないのだ。

P188 こうして貸出カードへの書き込み作業は夏休みの初め頃から集中的に実行された。
 聖司が七月二六日に借りた本は二八日に返却されている。これはあまりに短すぎる。図書館側は貸出期限を知らせる目的で返却月日を記入するのだから、これでは不可解だ。これも貸出日の記入ミスではなかろうか。すると、二一日貸出となり、ますます夏休み突入後の集中書き込みらしくなる。

P192 自転車をどこに置いていたのかは残念ながら判らない。
 雫が登校した時、正門のそばに自転車が置かれていた。これかと思って子細に見たが違っていた。聖司の自転車は灰色だがこの自転車は赤である。聖司は裏門に向かっているからそちらにあるとしか言えない。

P194 『この時計と同じくらい深い感動を雫に与えられる作品を作れる職人になりたい』
 聖司がヴァイオリン職人を目指す動機は残念ながら推測の域を出ない。私の結論は映画の中にすべての情報が含まれていることを前提としている。より強い情報があれば撤回するほかないが、今のところ見あたらない。加えて、聖司と雫の性格的な類似性共通性を考えると、雫が「聖司と生きるのために」物語を書く決心をしたように聖司が「雫と生きるために」職人になる決心をしたと考えるのはごく自然であろう。
P195 時計は地球屋の中で時を刻み続けていた。
 本論には書かなかったが、時計が二週間、動き続けたことは間違いない。後の章でも触れたが、時計は維持のために動かす必要がある。この時計は西老人の所有物ではない。修理が終われば、持ち主に返されるのだ。動作の再確認もしなければならない。止めておくわけにはいかない時計なのだ。

P196 その夜の内に父親が聖司のイタリア行きを承諾した。
 九月五日の三者面談が航一の決断に繋がっていると思われる。そもそも九月初旬に通常の進路相談はない。この日の面談は航一が申し出たと考えて良い。聖司がイタリア行きを決意したのは夏休み中の八月二二日だから二学期開始早々に担任と話をするのは当然だからだ。担任がクレモナのヴァイオリン製作学校の状況を知っていたとは考えられないが、既に航一の方で概要は西老人から聞いて掴んでいただろうから二ヶ月間の見習い期間の中学校側の扱いなどについて相談したと思われる。欠席が五〇日に及ぶのだから、受験に及ぼす影響は無視出来ない。工房で見習いをするのでは留学扱いは無理だから推薦入試との関わりは気になったに違いない。
 面談の最中に聖司が話すことはほとんどないだろうから先程すれ違った雫のことでも考えていたのだろう。聖司も雫同様、現実を物語でくるむ性癖があるから航一と担任の現実的実務的な話に関心が向くとも思えない。聖司には聖司なりに自分を主人公にした物語があるのだ。
P196 だからこそ聖司は一刻も早く雫にこのことを伝えなければならなかったのだ。
 もしかしたら、朝の始業前に一度五組を覗きに来たかもしれない。雫は疾走中だからいるはずがない。
17.悩む雫
P198 夕子と父親のけんかの原因は判りやすい。
 夕子と父親のけんかの原因は絵コンテにもない。絵コンテは注釈ではないので必要以上のことは描き込まないから不思議ではない。聖司と親の闘争に続いて夕子と親の対立を示すことで雫と親の闘争への伏線を作った可能性はある。その時、私の推測したような原因が利用されたようだ。

P199 「二ヶ月で帰ってきても卒業したらすぐもどって一〇年位はむこうで修業するんだって」
 この言葉はよく考えると悩ましい。内容ではない。この情報をいつ知ったかだ。学校の屋上にいた二人は告白の後、野次馬騒ぎが始まってそのドサクサに雫が姿を消してしまうのでこの話が出る余地はない。それに放課後、トボトボ帰る雫の様子では聖司にまた会って何か話しをした気配はない。電話という線も薄い。聖司の家がどうなっているのか判らないが雫の家の電話はとうていプライヴァシーの保証がない。そもそもこの二人はこれ以降もろくに連絡を取り合おうとしないから電話は除外出来る。とすれば、地球屋しかない。C725の道がどのあたりか判らないので判断に苦しむがこれが一番の解釈だろう。西老人に会えるのは確実だ。地球屋の住人となった雫に対して地球屋の閉店はあり得ない。

P203 中間考査にどれほどの価値があろうか。
 夕子が悲嘆に暮れて「明日は休む」と言った時、雫が「テストも?」と応答していたのを覚えておいでだろうか。たった二日間で雫の価値観は一八〇度転換してしまったのだ。

P204 「勇敢なるスコットランド人」
 知らない方は「赤毛のアン」シリーズを参照のこと。

18.創作開始
P205 文章の雰囲気からもファンタジーと想像される。
 文章は次の通り。

 「耳をすませば」
 森の声を聞こう。遠い星団から吹いて来る
 風の記憶を、雲の語る世界の

これは原作の一節を書き改めたもの。原作では次の通り。

 森の声を聞こう
 遠い異国から吹いてきた
 風の記憶を聞け

原作では異国から吹いた風がなんと星団から吹くことになってしまったが、後のイバラードの場面に合わせたものか。
P205 もう深夜だ
 絵コンテに「もう午前3時はすぎている」とあるのでこう書いた。しかし、雫が夕子の家で物語を書く決心をしたのは午後7時10分くらいだった。8時間経過した時点でまだ最初の節を書いているのでは時間がかかりすぎているかもしれない。それとも壁に掛ける大きなカレンダーを探したり、全体構想をまとめたりしていたのだろうか。

P206 雲母片岩
 西老人の発言を挙げておく。

 「雲母片岩という石なんだがね。そのわれ目をのぞいてごらん。」
 「緑柱石といってね、エメラルド原石がふくまれているんだよ。」
 「自分の中に原石をみつけて時間をかけてみがくことなんだよ。」

 四つの単語を太くしてみた。皆さんはこの単語の範疇をどう解釈されただろうか。Bが曖昧で幾通りかの読み方が出来る。まず、「ふくまれている」の主格が「雲母片岩」か「緑柱石」か。

)雲母片岩にエメラルドの原石が含まれている。…この場合、緑柱石=エメラルドの原石になる。
)緑柱石にエメラルドの原石が含まれている。…この場合、緑柱石の中にエメラルドの原石があることになる。

 次に「エメラルドの原石」とは何か。この場合、

 ()『エメラルドに加工する以前の石』
 ()『加工前のエメラルド』

の二つの意味がありうる。(1)(2)はどう解釈出来るだろうか。
 (1)の場合、緑柱石は原石そのものになるので(イ)しかあり得ない。よって、緑柱石=原石>エメラルドになる。
 (2)の場合、(イ)ならば、緑柱石>原石>エメラルドになるし、(ロ)ならば、緑柱石>原石=エメラルドになる。
 私は鉱物や宝石に疎い人間なので、あれこれ考えた末に(1)が妥当と解釈した。Cと雫の「エメラルドって宝石の?」という言葉によって補えば、雲母片岩>緑柱石=原石>エメラルド=宝石と考えたのだ。つまり、『雲母片岩の中に緑柱石が含まれている。』『緑柱石はエメラルドの原石である。』『その原石を磨くとエメラルドになる。』と読んだのだがどうだろうか。今改めて考えてみても一番自然な読みだと思う。
 ところが実際に調べてみると、西老人の発言は上記の三通りのどれを採っても誤りになってしまうのだ。雲母片岩はよい。しかし、緑柱石はエメラルドの原石を含んでもいないし、エメラルドの原石でもない
 緑柱石は"Beryl"といい、純粋な緑柱石は無色なのだが、不純物を含むことにより色を発する。その色により様々な名前が付けられているが、そのうちで緑色を帯びたものをエメラルドという。つまり、緑色の緑柱石がエメラルドなのだ。雫が見ている緑色の石が緑柱石であり、同時にエメラルドそのものである。緑柱石=原石=エメラルドが正解なのだ。だから、Bは正確を期すならば、『緑柱石といってね、原石のエメラルドがふくまれているんだよ。』でなければならないし、Cは『自分の中に原石(のエメラルド)をみつけて時間をかけて(宝石のエメラルドになるように)みがくことなんだよ。』と補わなければならない。柱石という言葉が緑以外の緑柱石の存在を見失わせた結果なのかただの不注意なのかは判らない。とにかく、Bに緑柱石とエメラルドが同時に出てくるのが混乱の原因である。Bの場合、緑柱石=エメラルドと読むのは到底不可能である。
 実は本論を書いた時にはよく調べずに西老人の言葉を信用してしまったのが、これはちょっとした失敗だった。どういうことかというと、西老人の言葉を譬えとして解釈する時に変化が生じてしまうのだ。西老人は緑柱石(原石)を磨くとエメラルドになると言っている。だから、才能に譬えられているのはエメラルドであって緑柱石ではない。彼の言葉通りだと、『原石をみがくこと』=『才能を見出すこと』になる。つまり、原石そのものは才能ではない。私はそう判断して後の章(「完成」)で次のように書いた。

『あなたには才能がある』とは言わない。原石とは何か。才能はまだ見えないしかし原石がなければ磨きようもない必要なものは努力と熱意。それを持っている人は素敵な人なんですよ。西老人はそう語っているようだ。

 しかし、正しい意味に従って解釈すると『原石をみがくこと』=『原石の才能をみがいて宝石の才能にすること』となってしまう。西老人は雫に『あなたには磨けば宝石になる才能がある』と言ったことになる。実はここの文章は最後まで『原石=才能』もあるかもしれないと迷いに迷って、A〜Cを何度も読み返して結論を出した部分だった。但し、正しい意味が確認されても西老人の言葉の意味は変えようがないし、西老人の言葉は雫にのみ発せられており、たとえ誤りがあっても二人が合意していれば支障はない。だから、私の文章を書き改める必要はないのだが、少々危ない橋を渡ったのも事実である。何事も裏は取るべきだと肝に銘じた次第。

(追記)以上の記述については更に後の西老人の言葉もあれこれと考えに入れている。少し長くなるが(年寄りの説教)触れておく。

(a)(C774)しずくさんもセイジもその石みたいなものだ。まだ磨いていない自然のままの石

この「石」が緑柱石であることは間違いない。雲母片岩は「岩」である(屁理屈です)。磨くとすれば、緑柱石の方としか取りようがない。この言葉は原石の比喩だから緑柱石=原石という判断に有利である。そしてこの言葉を敷衍すれば、磨く対象は自分自身だということになる。

(b)(C776)(物を作ることは)自分の中に原石を見つけて時間をかけてみがくことなんだよ。

混乱してしまうのは、この言葉ではどうしても人間に喩えられているのは「雲母片岩」と見る他ないためである。「自分の中から原石を見つける」には自分が原石を含んでいなければならないからだ。とすると(a)の「石」も緑柱石ではなく雲母片岩のことなのか? しかし、「磨いていない石」が雲母片岩では(b)と食い違う。つまり、(a)ならば、人間=原石なのに、(b)だと人間>原石となるから磨く対象も異なってしまうのだ。

(c)(C777)その石の一番大きな原石があるでしょう。

ここでは「その石」が雲母片岩で「原石」が緑柱石。(b)とうまく繋がる。

(d)(C778)実はそれはみがくとかえってつまらないものになってしまうなんだ。もっと奥の小さなものの方が純度が高い。いや、外から見えない所にもっといい原石があるかもしれないんだ。

ここの「石」「原石」はどちらも緑柱石のこと。(b)(c)(d)は繋がるが、(a)はやはり浮いている。ひとまず(a)は無視しておこう。すると、(b)〜(d)は『自分の中には複数の原石がある』『原石には磨くと宝石になるものも駄目になるものもある』という意味になる。
 これを前掲の記述とすり合わせてみると、緑柱石は常に「原石」としか呼ばれないからやはり緑柱石=エメラルドとは取り様がない。しかし、複数の原石とはどう考えるべきだろう。磨いた結果がよくも悪くもなるとすれば、少なくともこれを『才能』とは言えないだろう。原石=才能と簡単に結ぶ訳には行かないのだ。

(e)(C943)しずくさんのきり出したばかりの原石をしっかり見せてもらいました。…。時間をかけてしっかりみがいて下さい

ここでは雫の小説が磨く前の「原石」だとされている。(b)では「物を作ること」=「原石をみがくこと」だったはずだから「作品」=「磨いた後の石」となるはずだが、どう考えるべきだろうか? (d)の場合、複数の原石が対象になっている。ここから考えてみよう。この原石の意味は二通り考えられる。

 第1は、「人間には様々な可能性がある」、つまり原石=複数の可能性と取る場合。雫を例に取ると、「仮に物語を書くことが駄目でも他に磨くと宝石になる可能性があるよ」となる。(e)の磨く対象は「物語を書くこと」になり、磨いた結果は不明。「とにかく磨いてみるしかないよ。でももっと奥により可能性のある道があるかもしれないよ。」となる。それでも言葉足らずであることは否定できない。
 第2は、「物を作り続けること」=「複数の原石を探し出して磨き続けること」と取る場合。つまり、原石=複数の作品となる。これだと、西老人が言う「最初から完璧を期待してはいけない」とも符合する。雫を例に取ると、「いくつも作品を作って自分の奥から純度の高い原石を切り出しなさい。」となろうか。そうすると、(e)の磨く対象は原石(作品)ではなく、「作品を作り続ける持続力」とでも考えるしかない。しかし、(b)(e)に出てくる「原石」と「みがく」を別々に解釈することになるのでかなり無理をしている。相当言葉を補わないと駄目だろう。

 ここで分かるのは、(d)の「複数の原石」を前提にした場合、どちらにしても(e)は言葉不足だということ。それでもどちらかといえば、第1の場合の方が無理は少ない。しかし、第2にも利点があるから捨てがたい。
 
 考えれば、考えるほど泥沼に入り込むのでそろそろやめることにするが、要するに西老人の言葉はその時々で微妙に食い違っているのだ。全体を一つにまとめようとするとどうしても帯に短したすきに長し、あちら立てればこちら立たずとなってしまう。結局、最大公約数を取るしかないが、その一つが『原石は才能ではない』である。後はどの言葉に重点を置くかで微妙に受け取り方が違ってくる可能性は否定できない。(以上、追加終わり)


 緑柱石について補足しておく。成分組成はBe
3Al2(SiO3)6で、六方柱状の結晶を作り、柱面に縦の条線がある。前述の通り、もともと無色だが不純物により様々な色に変わる。緑系がEmerald(翠玉)、青系がAquamarine(藍玉)、ピンク系がMorganite(モルガナイト)、無色がGoshenite(ゴッシェナイト)、緑黄色系がHeliodor(ヘリオドール)、赤系がBixbite(ビクスバイト)である。翠玉が最高級なのは元よりだが、他の系と違って翠玉は原石のまま市場に出ることがない。たとえ安値の原石でも宝石になれば高値で売れるからだそうだ。西老人が譬えに用いたのも無理からぬ事と言えよう。
 緑柱石の写真はインターネットで"beryl"を検索すれば、文字通りごっそり出てくるのでとくとご覧いただきたい。又、「鉱物たちの庭」というHPには『耳をすませば』に触れた箇所がある。

P207 他書に譲る
 『スタジオジブリ作品関連資料集X』所収の各資料、『「バロンのくれた物語」の物語』など。

P208 マーラー(Gustav Mahler 1860-1911)を彷彿とさせる。
 マーラーは交響曲と歌曲の作曲家として知られている。「バロンの歌」のイバラード版を聞いて、彼の交響曲第5番の第三楽章、第五楽章を思い出した。動機も似ている。
 『猫の恩返し』には交響曲第一番の第三楽章が引用されているから(どこで使われているかは自力で探すこと)、野見がマーラー好みなのは間違いない。『猫の恩返し』でも「バロンの歌」が使われているが音型が少しづつ変化している。ST8「謎の声」ではリズムが変えられていてストラヴィンスキー(Igor Stravinsky 1882-1971)の「火の鳥」を連想した。
 事のついでに『猫の恩返し』のST18「ワルツ」の題『Katzen Blut』はドイツ語で「猫の血」の意味。ST29「パストラーレ」(Pastorale)は田園曲といった意味。ST12「後宮への誘拐」はモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)のオペラ「後宮からの逃走」のパロディ。

P208 ラピスラズリ
 雫が調べている本は前後のカットから推定すると「鉱石図録T」である。この本に説明があるので、多少不鮮明な箇所もあるが補足しながら書き出してみよう。【】内は推定。

「青金石(ラピス・ラズリ)(Lazurite) この石は人類が古代から利用して来た【鉱石? 鉱物?】としては、最古のものの一つである。その特色は青い色彩にある。宝飾品や顔料として【古代から】現在に至るまでこの石は人々を魅了して来た。なお、ラピス・ラズリ(Lapislazuli)の名の由来は、ペルシャ語で青を意味する【ペルシア語が綴ってあるらしいが不明】(lazhuward)<これは他の資料から推定した>から来ている。金色にきらめく粒状の鉱物の正体は、【数文字不明】【酸化?】鉄と化合した黄鉄鉱である。 主な産地 アフガニスタン、バイカル」

 最初から注意がいる。ラピス・ラズリは"lazulite"(天藍石)ではなく"lazurite"(青金石)。一字違いなのでよく混同されるらしい。ラピス・ラズリの方は”lazuli”なので尚更混乱しやすい。
 ユーラシア大陸の産地はアフガニスタンのバダクシャン(Badakhshan)地区とロシアのバイカル湖畔のスルディヤンカ(Sludyanka)に限定される。にもかかわらず古代エジプトでも古代中国でも珍重されていたことは驚きである。雫がラピス・ラズリを主題に選んだのは単に語感が良かったか、たまたまこれだけ知っていたか程度のことで強い理由はなかっただろうが、産地があまりにも極限されていると知って後悔したのではなかろうか。琥珀にしておけば、スカンディナヴィア半島が大産地だからはるかに楽だっただろうにと同情してしまう。あっ、でも琥珀は海底から採るから鉱脈探しにならないか…。なら、緑柱石でもよいのに(あまりに素直すぎるか?)。

 鉱物分類や組成に詳しくないが、調べた限りのことを紹介しておく。
 ◎成分組成は(Na, Ca)
8Al6Si6O24(S, SO4)
 ◎Silicate(珪酸塩)類、Tectosilicate亜類、Sodalite(方曹達石)族。私には内容までは判らない。
 ◎Haüyne(アウィン、藍方石)、Nosean(ノゼアン、よう方石)、Lazurite、Sodaliteが固溶体を形成し、黄鉄鉱の結晶が散在する(判らん)。

 この本には書いてないが、ラピス・ラズリはサンスクリット語で"vaidurya"<綴りは残念ながら不正確>という。「吠瑠璃」(バイルリ)と漢訳され、略して「瑠璃」となった。仏教の七宝の一つとされたので日本でも重要視されていた。
 "Lapis lazuli"の名の由来はこの文章では少し不十分なので説明しておこう。まず"lapis"だが、これはラテン語で「石」のこと。ペルシア語に関係あるのは"lazuli"の方。英語では"azure"となり、群青色の意味である。"WEBSTAR'S NEW WORLD DICTIONARY"によると、

【ME.azur < OFr. azur(with omission of initial l-, as if l'azur) < Ar. lazaward < Per. lazhuward, lapis lazuli】(注 ME=中期英語、OFr=古期フランス語、Ar=アラビア語、Per=ペルシア語)

とある。古期フランス語で冒頭の”l”が定冠詞と錯覚されて脱落し、かつ語尾の”l”が”r”に変化したのがポイント。一方、"Lapis lazuli"の方は

【ML. lazuli, gen. of lazulus, azure < Ar. lazaward : see AZURE】(注 ML=中期ラテン語、gen.=genetive=属格)

となっていて少し違っている。古期フランス語の”azur”と中世ラテン語の”lazuli”がどう関係しているのか不明瞭である。両言語はほぼ同時期に交錯しているので

【azure < azur <* lazur <* lazuli < lazaward < lazhuward】(*は推定の意味)

と考えて良いだろう。研究社の「リーダース英和辞典」では[OF < L < Arab al the, lazaward (Pers = lapis lazuli)]となっているから妥当のようだ。
 ここで注目したいのは、ペルシア語の"lazhuward"が「ラピス・ラズリ」の意味だとされていること。雫の見ている本では「青」の意味だとしているがこれは誤りかもしれない。他の資料では「青」や「天」の意味としているものもあり、はっきりしないのだが。
 ところで"Lapis lazuli"という命名はいつの時点にあるのだろうか。以上の語源談義ではそれが判らない。ウェブスターには【ModL.】だと書いてある。現代ラテン語とはおそらく学名のことだろう。とすると、せいぜい一八世紀くらいしか遡らない可能性がある。しかし、イタリア語で"lapis lazzuri"、ロシア語で"ляпис=лазурЬ"(リャピ−ス・ラズーリ)という具合にヨーロッパの言語に広く普及している状況を考えるとこれを簡単に信用出来ない。それに"lazuli"語頭の"l"が脱落していない段階の造語なのだから古期フランス語以降とするには無理がある。私見では、西アジアからヴェネティア経由でアラブ語の"lazaward"が導入された時点で"lazuli"と変化し、外来語なので意味を正確に伝えるために"lapis"を付加したと考えている。時期は十字軍によるヴェネティアの東方進出と重なる一一〜一三世紀としか言えない。後になると"lapis"に引きずられて、"lazuli"の方は単に色を意味するだけになったのではなかろうか。なお、ドイツ語は"Lazurstein"と訳の形である("stein"=石)。
 色々調べている内にヨハネの黙示録に出てくるという指摘があった。文語訳の新約聖書で場所を確認したところ、第二一章第一九節に新イェルサレムの石垣を飾る宝石の第二に「瑠璃」とあった。ところが、念のため口語訳を参照したところ、「サファイヤ」と訳されていた。はてどちらが正しいのか? 又、出エジプト記第二四章第一〇節にも出てくるが、ここも同じ状況であった。

 ここは聖書の原典に当たるしかない。新約聖書は我が家のネストレ(NESTRE-ALAND, NOVUM TESTAMENTUM Graece et Latine)でラテン語・ギリシア語の確認が出来る。旧約聖書はヴルガータ(Vulgata インターネットで入手可能)でラテン語を、七〇人訳聖書(SEPTUAGINTA 古代のギリシア語訳旧約聖書)でギリシア語を参照した。ラテン語だと黙示録は"sapphirus"、出エジプト記は"lapidis sapphirini"とある。これは単にギリシア語を音訳しただけであった。となるとどうやら七〇人訳聖書が大元に違いないからギリシア語の意味を突き止めることにした。こちらも念のため語源を調べてみた。

【ME. sapphire < OFr. saphir < L. sapphirus < Gr. sappheiros < Heb. sappir < Sans. sanipriya, lit., dear to Saturn < Sanih, Saturn(the planet) + priya, beloved < IE. pri-, var. of base prei-, to love, whence FRIEND】(注 Gr=ギリシア語、Heb=ヘブライ語、Sans=サンスクリット語、lit=literally=字義通り、IE=インド・ヨーロッパ祖語、var=variant=変化)

 途中、ヘブライ語を通過してサンスクリット語からインド=ヨーロッパ祖語まで遡ったのには恐れ入った。土星が関係しているとは驚きだ。取り敢えず、語形ならば、口語訳のサファイヤでよさそうだ。しかし、昔と今で意味が同じとは限らないからまだ安心出来ない。
 インターネットに"International Standard Bible Encyclopedia"というサイトがあり、"Stone"を検索すると詳しい解説が載っている。その中でプリニウス(23-79 彼は有名なヴェズビオス火山の噴火で死んでいる)の"Sapphirus"についての記述が要約引用されている(プリニウスの『博物誌』に該当する記載がなく残念ながら出典は未詳>。それによると、「所々金のごとく燦然と輝く。群青色を持ち、しばしば紫色もある。メディア(今のイラン高原付近)から来るものが最良。」とあり、現在のサファイヤには該当せず、ラピス・ラズリに当たるとしている。私もそうとしか受け取れない。ヘブライ語の"cappir"(=sappir)も同様。他の資料でも確認出来るのでギリシア語ではラピス・ラズリの意味だったと断定して良かろう。従って、口語訳は音に囚われた誤り、文語訳の瑠璃が正しいことになる。更にヘブライ語まで調べることも出来たのだが、タナッハ(旧約聖書)は簡単に読めないのであきらめた。それに調べても結果は同じだろう。要するにこの種の名詞は単に音の転写が続けられたに過ぎないのだ。
 これで答えは出たのだが、もう一つ疑問が残った。当時のサファイヤがラピス・ラズリならサファイヤは何と呼ばれていたのだろう。
 「英語語源辞典」(寺澤芳雄編)によるとギリシア語ではサファイヤは元来"huakinthos"(ヒュアキントス<ヒヤシンス>)と言ったとあった。これは旧約聖書にも何回か出現する。この辞典では、ヘブライ語の"sappir"をギリシア語に訳す際(七〇人訳聖書成立の頃か)にズレが生じて「sappheiros=サファイヤ」となったのではないかと推測されている。しかし、当時の"sappir", "sappheiros"はラピス・ラズリの意味であるし、七〇人訳聖書でも両者は明確に使い分けられているからこれでは説明になっていない(ラテン語訳でも同じこと)。この言葉がサファイヤの意味に変化した時期はもっと後だと考えなければならない。私見に過ぎないが"lapis lazuli"という言葉が登場した中世段階ではなかろうか。それまでは元のラテン語形"hyacinthus"がサファイヤとして通用していたと見る方が自然な気がする。
 英語ではラピス・ラズリの顔料を"ultramarine"と言う。これはイタリア語の"oltremare"、中世ラテン語の"ultramarinus"から来た言葉で「海を越えて」の意味が転化したもの。「舶来品」で通じたのだからよほど流通していたのだろう。一一世紀から記録があり、一四世紀頃から絵画に使用されているそうだからヴェネツィア経由で入ってきたに違いない。私が大好きなフェルメールはこの色を多用しているそうだからもう一度見直すことにしよう。
 語源に関する調査・検討では私の同僚である石崎陽一氏に多くの助言を頂いた。この場でお礼を申し上げる。
 生まれて初めて宝飾品や顔料売り場を覗いてみた。購入した青い石には黄銅鉱の粒が燦然と輝いていた。

(追加)ラピス・ラズリに含まれる黄鉄鉱は小粒でよく見えないが、黄鉄鉱の結晶は正六面体である。人間技では絶対不可能な正方形平面を持つ見事な形状をしている。結晶にも色々あるが、黄鉄鉱の結晶はとても自然物とは思えない不思議さがある。

P209 図書館への階段を勢いよく駆け下りる雫
 この時、雫が語る物語は次の通り。

「いこう、おそれずに。午后の気流が乱れる時、星にも手が届こう。」

P210 ポーランドのヤゲロー朝やドイツ騎士団、又はハンガリーあたり
 ヤゲロー朝(Jagellonowie 1386-1572)。ポーランド史上、最も強大だった王朝。一時期はリトアニア大公国やハンガリーを支配下に置いていたこともある。一五七二年に選挙王政に移行してからは内紛と外国の干渉で衰退し、一七九五年にはポーランドそのものが消滅するに至った。
 ドイツ騎士団(Deutscher Orden)。一二世紀に十字軍のために創設された三大騎士団の一つ。バルト海沿岸に所領を持ち、東方植民の基地となった。一六世紀にプロイセン公国となる。
 ハンガリーは一四〜一五世紀に王国として栄えたが、一六世紀になってオスマントルコにより解体され、一六九九年からオーストリアの支配下に入った。
 中学校の歴史では全く扱われないところなので雫が簡単に理解出来るはずがない。さぞ途方に暮れたことだろう。「もっと勉強しなくちゃ」を実感したに違いない。

P211 歯応えがありすぎたようだ
 「牢獄でヴァイオリンを作る職人」のカットの背後に雫が書き込みをしたノートが映っている。ラピスラズリに二行、ドイツに三行しかなく、たいしたことは判らなかったらしい。読みとれた文字は次の通り。

「…【ラピス・】ラズ【リ】…
 【む?し?】かし…」
「【ド】イツの…
 …世紀ご【ろ】…
 …があるた【め】…」
「ヨーロッパ…
 だったの【で?】…」

P211 「牢獄でバイオリンを作る職人」
 絵コンテでは「牢獄でバイオリンを作っている青年(なんとかいうバイオリ【ン】製作者の伝説)」となっている。本論はエンディング・クレジットによっている。(正確には「ヴァイオリン」であった。すっかり見落としていて訂正出来なかった。残念)
 画面の本の中に解説があり、フランチェスコ・フェリオ作とある。説明文を読むと「投獄された時の様子」とあるから実在のヴァイオリン作りが幽閉された時の図のようだ。しかし、本文のどこにもこの絵の説明が入りそうな箇所がないので、画面の文と絵はそれぞれ独立したものを合成して構成したと考えられる。本文は何かの引用の可能性もあるが、シュタイナーの解説に初歩的な誤りがあるので、制作者がなんらかの資料によって作文したとするのが妥当だろう。絵の方も映画のために創作された可能性があるが、フェリオについてまだ確認出来ていないので確言は出来ない。
 投獄されたヴァイオリン作りの伝説といえば、グァルネリ・デル・ジェスが有名だが、こんな少年だったとは思えない。伝説だから構わないのだろうが。「楽器の事典 ヴァイオリン」に載っている伝説は次の通り(p.98)。

 「デル・ジェスが投獄されていたとき、看守の美しくてやさしい娘が、彼の悲惨さを哀れんで、彼のために、あちらこちらを走り廻ってヴァイオリンを作るための材料や道具を集め、さらに、いろいろなヴァイオリンの店から各種のニスを調達し、でき上がった楽器を売り歩いて、わずかばかりの金で零落した彼を慰めた。」

 これは文字通り伝説であって事実ではない。もう一人、こちらも名人だったヤーコプ・シュタイナー(Jacob Stainer 1617-1683)はルター派の刊行物を購入したと告発を受け、一六六九年に投獄されている。こちらは事実。しかし、年齢は中年なのでやはり合わない。彼は当時、経済的に破綻してヴァイオリン製作意欲も減退していたから牢獄でヴァイオリンを作るような伝説はない。ドイツというとルター派と考えがちだが、オーストリアは頑強なカトリック圏である。
 画面の文章にはグァルネリ(「…と呼ばれ」の前は『デル・ジェス』に間違いない)もシュタイナーも出てくるからどちらの可能性もある。本論では伝説を持つ前者の方を有力とみて書いた。
 ついでに雫が本をパラパラめくっている時にヴァイオリン奏者の挿絵が映るが、どうもサラサーテ(Pablo de Sarasate 1844-1908)ではないかと思われる。この人は口髭に特徴がある。
 本文に登場する他のヴァイオリン製作者についても解説しておこう。それに先だって画面の文章を書き出しておく。推定部分は【 】を付けて区別する。推定部分はあくまで参考だからそのつもりで読んでもらいたい。

(右頁下段)
 「【ヴァイオリンの発明者は16世紀にクレモ
ナで活動したアンドレア・】アマー【ティとされる。】
【こ】のアンドレアこそ【この地をヴァイオリン製作】
の聖地となしたアマーティ一族【の始祖である。】
その後彼の孫のニコラ・アマーティに【至って】
ヴァイオリン作りの技術は芸術の域にまで高
【めら】れアマーティの名は不滅のものとなる。
 【さ】て、クレモナのヴァイオリンと言えば、ニコ
【ラ・】アマーティの弟子、ストラディバリの製作し
【た】もの、特に1700年から1720年頃の間に
作られた物が有名である。
 生涯で約650の弦楽器を製作し、そのうち約
600がヴァイオリンであった。
 現在でもその人気は高く、世界中の演奏家に使
用されている。ただし、なぜこの約300年前の」
(左頁上段)
「【ある一時期に突如としてヴァイオリンの様】式
【が確立し、最高の技術が生まれたのか。い】わ
【ゆる名器が多数製作されたのか。決定的な】説
【は今まで出されていない。】
(ここは手がかりがなく推定不可能)…と
…高
…が含
…【ヴァイ】オリ
【ン】…が多
…楽器
…。
 【17世紀に登場したグァルネリ一族はニ】コラ・
【アマーティの弟子、アンドレア・グァル】ネリを始
【祖とする。彼の孫、バルトロメオ・G・グ】ァルネリ
【はその隔絶した技量からデル・ジェス】と呼ばれ、
【殊に彼のヴァイオリンはヴィルトゥオ】ーゾヴァイ
【オリンの名手パガニーニが用いたこ】とでも知ら
【れている。】
 【ミラノやヴェネツィアなどのクレ】モナ以外の町
【でも優れた作品が多数生み出され】た。イタリア」
(左頁下段)
「以外では、シュタイナー、クロッツらの活躍した
ドイツのミッテンワルト、ビヨームらの活躍した
フランスのミルクールがある。」

アンドレア・アマーティ(Andrea Amati 1525-1611) クレモナ派の創始者。二人の息子アントニオ(Antonio 1560-1649)とヒエロニムス(Hieronimus 1562-1630)が彼を継いでいる。
ニコロ・アマーティ(Nicolo Amati 1596-1684) ヒエロニムスの息子。アマーティ一家の最大の名人。アントニオ・ストラディヴァリ、アンドレア・グァルネリなど多くの弟子がいた。本文では「ニコラ」となっているが、ニコロが正しい。
アンドレア・グァルネリ(Andrea Guarneri 1626-1698) グァルネリ家の始祖。二人の息子ピエトロ・ジョヴァンニ(Pietro Giovanni 1655-1720)、ジュゼッペ・ジョヴァンニ・バティスタ(Giuseppe Giovanni Battista 1666-1739or1740)が継ぎ、頂点をなすデル・ジェスはジュゼッペ・ジョヴァンニ・バティスタの息子。
ヤーコプ・シュタイナーはオーストリアのインスブルックに近いアプザム(Absam)で生まれ、その地で製作活動を終えている。本文ではミッテンヴァルト(Mittenwald)にいたように受け取れるが、そういう事実はない。上記のように四〇代で経済的に破綻し、その後は精神に異常を来し、不遇の内に死んだ。ドイツのヴァイオリン製作者中最大の名人である。
クロッツ(Klotz)一族 シュタイナーの型を受け継いだ製作者一族でマチアス・クロッツ(Matthias Klotz T 1656-1743)が始祖。ドイツ・バイエルン地方の首都ミュンヘン南方にある町ミッテンヴァルトのヴァイオリン製作の伝統は彼から始まる。彼以後、セバスティアン(Sebastian T 1696-1768)とその息子ヨーゼフ(Joseph 1743-1819)と続き、現在までに二五人以上の製作者を排出している。
ヴィヨーム(Vuillaume)一族 一七世紀からフランス北東部の都市ナンシーの近郊にあるミルクール(Mirecourt)で活動した一族。シャルル・フランソワ(Charles François 活動期間1755-1779)、ジャン・バティスト(Jean Baptiste 1798-1875)が著名でフランスのヴァイオリン製作の中核を形成した。ジャン・バティストは一九才からパリで活動した。彼が作ったヴァイオリンを用いたCDを持っているが、艶やかでしっとりとした音がする。
◎ストラディヴァリの製作楽器数は各種資料でまちまちである。改造の度合いによる判定の相違があるし、偽作も多数あるので実数は推定のそのまた推定の域を出ないようだ。

P213 ST17「カノン」
 カノンとは一つの旋律を少しずらして重ねていく作曲技法だ。「蛙の歌」の輪唱のように同じ旋律を重ねるだけの単純なのものばかりではなく、様々な手法がある。ただし、映画の「カノン」は八小節のうち、完全なカノンは五小節だけだ。応答の旋律の後半は少し変えてある。伴奏部分はカノンというより自由な模倣に近い。四度のカノンとは、元の旋律の音程を四度上下させて模倣する方法。この曲では、第一カノンは四度下で模倣し、第二カノンは五度上で模倣するが、オクターヴの違いしかないので同じに扱ってある。
 対位法の規則はかなり緩やかに使用している。細かいことを言うと何カ所も平行八度や平行一度があるので厳格な対位法の規則では違反になる。冒頭の第一カノンにも平行一度がある。よく聞くと一カ所、リコーダーとヴァイオリンがユニゾンになるところがあるので確かめてもらいたい。良い曲なので本論では技術的なことに拘泥しなかった。
 カノンは技術的難度が高く、あまり大曲には向かない。
 この種の技術はバッハに勝るものはない。「音楽の捧げ物」(Musikalischer Opfer BWV1079)には各種の形態のカノンが含まれ、カノンの展示場の観がある。
  (1)逆行カノン…一方が旋律を終わりから逆向きに弾く。
  (2)反行カノン…応答の旋律が上下に反転する。
  (3)拡大カノン…応答の旋律の音価が二倍に伸びる。
  (4)X度のカノン…提示と応答の開始音の音程がX度違っているもの。
 (1)〜(4)を組み合わせて「五度の拡大反行カノン」などというのも可能。方法は多彩である。
 「ゴールトベルク変奏曲」(Goldberg Variationen BWV988)には一度から九度までの基本的なカノンが含まれているのでお薦めである。四度と五度は反行カノンである。あまりにも見事な出来映えなので聞いているだけだとカノンかどうかよく判らないかもしれない。音符に抵抗のない方は楽譜を用意するのが賢明である。ピアノが弾ける方は是非挑戦して欲しい。楽譜は音楽之友社から新バッハ全集版が出ているので容易に入手出来る。
 最も面白い例としてモーツァルトのヴァイオリン用のデュエットが挙げられる。この曲は一本分の譜面しかなく、それをテーブルに乗せて二人の奏者が両側から見て演奏するのだ。これは五度の逆行反行カノンである。さすがにこんな例は他に知らない。

P213 "Himmelskönig, sei willkommen"
 カンタータ第一八二番はバッハの数多いカンタータの中でも十指に入る名曲である。リコーダー、ソロ・ヴァイオリンと弦楽合奏のみの小編成の小振りな曲。題名はカンタータの通例で冒頭の歌詞から取られている。第一曲「ソナタ」はリコーダーとヴァイオリンの二重奏に弦楽のピツィカートの伴奏が付いており、本論に書いたとおり、「カノン」の冒頭と同じである。バッハのカンタータの中でもこの始まり方はこの曲だけだし、私の愛聴曲だから連想は造作もなかった。第二曲合唱の歌詞を紹介しておこう。

 天なる王よ、よくぞ来ませり       Himmelskönig, sei willkommen,
 我らが心を汝が住処とならせたまえ  lass auch uns dein Zion sein!
 我らが心に留まりたまえ          Komm herein! uns, uns
 我ら全ての魂は汝が居ます処なり   Du hast uns das Herz genommen.
(第一節以外は拙訳)

 またまたついでだが、本論でもこの注でもバッハの作品にはBWV番号を付しているが、カンタータでは略している。理由は簡単でカンタータ番号とBWV番号は同じなのだ。二度手間なので付けなかった。このカンタータは当然BWV182である。なお、BWVはBach-Werke-Verzeichnis(バッハ作品目録)の略号である。
 この曲は鈴木雅明指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンによるカンタータ・シリーズ第三集に収録されている。リコーダーはセッションと同じ濱田芳道が担当しているし、アルトは米良が歌っている。ジブリファンにはお薦めである。

P214 八小節単位の五つの部分で出来ており、
 表にすると以下のようになる。(提)は提示、(応)は応答の略。
(追加)最後のト長調のところでは伴奏を担当する第1第2ヴァイオリンがカノンを構成している。本論ではそこまで解説していないので放置してしまったが、今回付け加えた。(2006/8/2)

調 ト長調 ハ長調

ヘ長調

ハ長調 ト長調
リコーダー 主旋律(提) 主旋律(応) 伴奏(提) 伴奏(応) 主旋律(提)
ヴァイオリン 主旋律(応) 主旋律(提) 伴奏(応) 伴奏(提) 主旋律(応)
ヴィオラ       主旋律(提)  
ガンバ     主旋律 主旋律(応)  
第1ヴァイオリン         伴奏(応)
第2ヴァイオリン         伴奏(提)
19.創作と闘争
P217 「わ、判りません、きいてませんでした」と答える
 雫の背後の生徒達がほとんど止め絵になっているのが少々気になる。次のベンチのカットでは結構周囲の生徒の動きがあるからなおさら目立つ。絵コンテには何のコメントもないのでこのようにした理由は不明である。
P219 貧乏揺すりをする
 貧乏揺すりは絵コンテ作業中の宮崎の癖である。いわば自分自身を投影させているのだが、「相手は若い女の子だぞ」とあきれてしまうのは私だけだろうか。宮崎の貧乏揺すりを見たい人は『「もののけ姫」はこうして生まれた』を参照のこと。

P219 中間考査後に保護者面談がある
 一九九四年なら既に東京の公立高校の推薦入試が実施されている。私立なら一二月にはもう始まるから、一〇月には書類準備のために進学関係の面接などが行われているはずだ。雫は「杉の宮高校」を受けるらしい。これだけでは公立か私立か判らないが、月島家の財政事情では公立の公算が高い。しかし、私立受験有無の確認は必要だから何もなしには済まされない。

P220 話を聞いた瞬間、朝子が虚を衝かれた顔をする。
 その直後に朝子が「でもお金かかるんでしょう」と言う。月島家の経済状態を端的に示した言葉だ。多少とも余力が有れば、違った言葉が出ただろう。朝子も自分の選択した行為が家族に無理を強いていることは自覚している証拠である。

P221 一〇〇番もおっことしてるじゃない
 向原中学校三年は二七六名。雫の中間考査の順位は一五三番なのでそれまでは五〇番辺りだったようだ。まだ下に一〇〇名以上いるから中の下くらいになった程度だ。数学の一〇点代は確かにひどいが、私などから見ると許せる範囲だと思うがどうだろうか。この成績で汐が激怒しているところをみると彼女はかなり成績上位者だったのだろう。

P224 自己絶対化
 自己絶対化の原因は自分の論理的根拠を他者に依存しているためだ。汐は社会常識に、雫は聖司に自分の根拠を置いている。結局二人とも自分自身の中に確固たる根拠を持っていない。これでは論理が空回りするに決まっている。

P226 初めに朝子がいなかったのは偶然
 もちろん、演出の上での作為である。朝子と汐を分断するのは制作者の意図的な措置だ。
P226 汐のいったとおりだよ
 P10の注で書いておいた通り、この科白の語尾は不明瞭である。しかし、「汐のいったとおりかい」では意味が通らない。汐の言い分に反論している雫にその同意を求めてもどうにもならない。『汐言ったとおりかい』なら問題ないが、ここは発音がはっきりしており、変えることは出来ない。
P227 実際、汐は一瞬不満そうに何か言おうとする
 絵コンテには「一寸不服だが(ハイの前後に一寸間ずつとる)」とある。

P230 第二部が始まってから問題になったこと
 「何をやっているか」は外してある。理由は次の通り。第一に雫が絶対言う意思がないからこだわると泥沼に陥る。第二にこの後の展開で判るように靖也も問題にするつもりがない。第三に朝子の説得の目的にこの問題は関わらない。以上である。

P231 朝子はC878の靖也の言葉でその時のことを思い出したに違いない。
 家族会議の頂点は靖也が朝子を説得したこの場面である。ところが二人のやりとりは表面上はまったく意味不明としか言いようがない。靖也の言葉自体には朝子を説得する内容は何一つ含まれていないからだ。にもかかわず、明らかに朝子は説得されている。靖也の言葉は実に巧妙なのだ。
 靖也の立場に立ってみると、ここで朝子にはっきり説得の言葉を使うのは非常に拙い。雫の立場を許す代償に朝子の身勝手さを強調する形になってしまうからだ。それでは何にもならない。雫に悟らせない説得こそ靖也がすべきことだ。彼は見事にそれをやってのけた。
 観客の立場ならどうだろう。この映画は観客として特に若い女性層をターゲットにしている(『作品関連資料集X』の「宣伝会議資料」にある)。実際、観客のほとんどは「子」の立場にあっても「親」の立場にない人たちだったに違いない。失礼だが大抵は親の立場など真面目に考えていない。そして、そういう観客がこの場面を最も理解出来ない仕掛けになっているのだ。忘れてもらっては困る。この映画は若い観客に「理解を示して歓心を買おうとしない。」それどころか、「おじさん達の、若い人々への一種の挑発」なのだ。何を好んで単に物わかりの良い親なぞ描く必要があろうか。この場面は「親」の立場を理解しない人たちへの「一種の挑発」なのだ。
 この映画を劇場で観た人の多くが今では親になっているだろう。そろそろこの場面の意味が判る頃合いではなかろうか。

P233 汐の引っ越しもまた反乱である。
 月島家の立場で考えると雫の反乱より汐の反乱の方が重大である。汐の撤退は月島家の家庭事情を激変させる。朝子と雫の関係が改善されない限り、月島家の安定はあり得ない。その見通しが立たないなら、雫の反乱が長引く方が都合が良いくらいだ。朝子の大学院進学は当人の事情はどうあれ、幾分無茶な選択だった。靖也も朝子もその反動のいくらかはここで被っているのだ。
P234 確実に貸出の更新を続けている
 一〇月一八日も(C839)二四日も(C885,886)雫の机の上にこの薄緑色の本が置いてある。

P235 二人はまさに団塊の世代、「七〇年安保」世代なのだ。
 宮崎は一九四一年生まれの焼け跡派だ。東映動画時代は組合活動の闘士でもあった。こうした時代風潮に敏感な彼が何も考えずに靖也と朝子の年齢を決めたとはどうしても思えない。
 この時代の雰囲気を「それなりに」知りたい人はいしいひさいちの「Oh!バイトくん」を参照のこと。

P236 東京教育大学
 現在の筑波大学である。大学の移転に際して、大学の自治潰しが行われたとして反対闘争があった。事実、大学自治否定の先蹤になり、評判を落とした。

P236 「あさま山荘」事件
 佐藤友之の「昭和天皇下の事件簿」に簡潔な紹介があるので引用しておく。

 翌(1972年)二月、「浅間山荘事件」が起きた。捜査当局に追われていた新左翼集団の連合赤軍は前年来、隣県の群馬にそびえる妙義山などに山岳ベースを設営して、軍事訓練などをしていた。この間、”幹部”がたて続けに逮捕された。
 軽井沢方面へ逃走した五名の別働隊は、二月十九日、河合楽器の保養施設・浅間山荘に管理人の妻を人質に立て籠もった。以来十日間にわたる銃撃戦は、テレビで連日ナマ中継された。朝からテレビの前に陣取って、中継をご覧になった方は少なくないだろう。新聞その他のメディアも、大きく報道した。
 十日目の二月二十八日夕方、警察側は強行突入した。人質は無事救出され、五人の”兵士”は逮捕された。日本の革命運動史上初めての銃撃戦に、警察はライフル隊を含めて千五百名出動した。自衛隊も”協力態勢”を整え、スタンバイしていた。これほどの大事件ながら、死者は警察側二名、民間人一名の三名と少なかった。
 この事件の直後、「連合赤軍リンチ殺人事件」が発覚した。「総括」や「粛清」の名のもとに、仲間を虐殺したのである。(P557)

 この事件についての詳細は本論で年表を引用した『連合赤軍「あさま山荘」事件』を参照のこと。他にも多くの文献がある。私はこの事件をテレビの実況で見た一人である。高校一年の時だった。既に日航機「よど号」ハイジャック事件も起きており、学生運動に同調する意欲はなかったので、冷めた目でみていたような気がする。

P237 朝子が学生闘争に加わっていたとしても何ら不思議ではない
 絵コンテには朝子が「そりゃあ、私にも身におぼえのひとつやふたつあるけど…」と言うカット(C880)に「とつぜん朝子、母親から娘時代にトリップしちゃったりして」とある。宮崎が朝子の年齢設定に当たって学生闘争全盛期に大学に在籍することを念頭に置いていたことは間違いない。

P237 何故第二の学生生活を送る決心をしたか
 朝子の大学時代が悔恨と共に終わったことは疑いない。おそらく大学そのものを嫌悪していたのではなかろうか。程なく靖也と結婚していることも大学時代の一種の精算と言えるだろう。しかし、不完全燃焼に終わった学生生活をそのままにして家庭で生きることが彼女には出来なかったのだ。本論では「朧気に」と濁した言い方をしたが実のところ私には彼女の気持ちが痛いほど理解出来るのだ。
 この時代を生きた人たちが比較的自由なある意味常識から外れた生き方を志向する例を私は身近に見ている。彼らの生き方は実に腰が入っている。正直かなわない。若い人たちは今の五〇代の人々から多くの学ぶものがあるはずだ。

20.完成
P239 BGM
 この曲もサウンドトラックには収録されていない。
(追記)BGMとサウンドトラックの差異は他のジブリ作品を含めて色々ある。とはいえ、折角映画と別にCDを購入したのに全ての曲が収録されていないのはいかがなものか。少しだまされた気分になった。それでも収録されている曲とBGMの関係は明瞭なので比較的参考になるのはありがたい。『風の谷のナウシカ』などサウンドトラック、イメージアルバム
とBGMの関係が複雑でどんいう経緯でこんな結果になったのか全く分からない。(2006/8/2)
P242 時間の経過は風景で表現される。
 前後の場面の光線指示を絵コンテで書き出しておく。

(C903B)おそい午后。<地球屋の裏手>
(C904)窓から西陽が入っているが、もう午后もおそくうす暗い。<地球屋の室内>
(C905)淡い西陽にマドがかがやき、逆光になっている。<居眠りしている西老人>
(C911)暗い室内。<薪が落ちる>
(C912)窓外はよわい西陽でまだ明るいが、室内にはすでに光が届かない。色指定くらく。
(C915)<雫が>よわい西陽を背に立っている。
(C919)外はよわい西陽の中のヒマラヤ杉。<雫、西老人に原稿を渡す>
(C929B)北側の窓は夕陽にそまり(淡く)、…。<聖司の幻影>
(C931)秋の短い陽のさいごのいちべつをうける杉の宮。<手前の田圃>この辺すでに丘のカゲになっている。風少し、下界に光りなし。
(C934)たそがれ。もう町はくれなずみ、ネオンや水銀灯がかがやき、…。
(C935)日暮。空はまだかすかに光をのこしているがくれなずむ町。
(C936)同上。一番星も出た空。わずかに明るさが残る。
(C937)夜。地球屋の北側。もう夜。暗い明りが店の方にあるだけ。
P245 「追憶」
 ここに登場するオーボエ系の楽器は珍しいので少し解説しておく。
 オーボエ・ダモーレ(Oboe d'Amore)。イタリア語で「愛のオーボエ」という優雅な名前を持つ。A管で普通のオーボエより三度低い。バロック時代に人気があったが近代オーケストラでは全く使われていない。コーラングレが普及したせいだろう。バッハの「ロ短調ミサ」にソロが一曲、デュエットが二曲ある。
 コーラングレ(Cor Anglais)はフランス語で「イギリスのホルン」の意味。英語でもイングリッシュ・ホルン(English Horn)だから同じ意味。名前はホルンでもオーボエ属の楽器でF管。オーボエより五度低く、牧歌的な響きがする。ベルリオーズの「幻想交響曲」第三楽章の冒頭でソロが聴ける。『ラピュタ』をお持ちならST5「失意のパズー」の冒頭にソロがある。
 オーボエ・ダ・カッチャ(Oboe da Caccia)。イタリア語で「狩りのオーボエ」の意味。F管でコーラングレの前身の楽器と考えられる。名前の如く野外用の楽器なのでバロック時代でも使用頻度は高くない。楽器自体も完全に忘れられてしまい、二〇世紀になってから復元された。バッハはよく使っている方で本論で紹介した「愛の御心から」以外ではカンタータにタイユ(Taille)の名前でオーボエと併用してよく出てくる。

P245 「マタイ受難曲」(BWV244)のソプラノのアリア、「愛の御心から」
 
マタイ受難曲の原題は"Passion Unseres Herrn Jesu Christi nach dem Evangelisten Mattäios"ととても長い。訳すと「マタイ福音書による我らが主イエス・キリストの受難」となる。このアリアは第四九曲で原題は歌詞の冒頭から取られている。二度歌われる「十字架に付けよ」の合唱に挟まれた極めて象徴的な位置にある。歌詞は次の通り。

愛の御心から救い主は死のうとされます。 Aus Liebe will mein Heiland sterben,
罪ひとつお知りになりませぬのに。      Von einer Sünde weiß er nichts,
永遠の滅びと                  Daß das ewige Verderben
裁きの刑罰が                  Und die Strafe des Gerichts
私の魂にのしかからぬように、と。      Nicht auf meiner Seele bliebe.
(原詩ドイツ語、磯山雅訳)

21.西老人

P247 当時の就学年齢
 明治時代は学校制度が何度も変わっているが大正時代には完全に確立されており、問題はない。西老人が尋常小学校に入学した一九二〇年は大正九年、中学校入学の一九二六年は昭和元年にあたる。東京近辺で生まれ育ったならば、九歳の時に関東大震災を体験している。加えて、日中戦争は一九三〇年に始まっているから、西老人の高校大学時代は戦争の最中にあったのだ。

P247 国家総動員法
 一九三八(昭和一三)年四月一日公布。日本国内のほとんど全ての物資、生産財、人材を国家が調達出来た。第三条には調達対象となる業務が列挙されている。西老人が本論で述べたように工学技師であれ、なんであれ、留学経験を持つ有能な人材が「調達」を免れるのはほとんど不可能だった。仮に免れ得たとしても第三条には「運輸又ハ通信ニ関スル業務」も調達対象に挙げてあるから渡航に支障を来すのは確実だ。まして、西老人の帰国の年は一九四一年。太平洋戦争前夜のこの時期、既に日本の物資不足は顕著になっていた。特に石油はアメリカ、オランダ、イギリスなどが日本への輸出を凍結しており、燃料確保は国家最大の関心事だったのだからなおさらだ。
 しかも太平洋戦争が始まってからはイギリスとも交戦状態に入ったから航路は難しい。シベリア鉄道を使う方法があるが、次注の通り、独ソ戦の真っ最中の時期だからそちらも難しいのだ。こうして傍証を当たっていくと、やはり西老人の帰国は一九四一年が妥当である。一九三九年帰国ではこれ程の切迫感はない。

P247 留学は六月に終わるから八月頃日本に着いた
 この年の四月に日ソ中立協定が成立しているので、モスクワまで行ってシベリア鉄道を利用することもあり得るが、六月にドイツがソ連に宣戦布告して独ソ戦が始まっているので危険すぎる。チューリヒに向かう以上、イタリア経由でカイロへ抜け、インドのどこかかシンガポール辺りまで定期航路を利用したと思われる。航路はイギリスの管轄下にあるが、まだ太平洋戦争は始まっていないし、民間人の安全は確保されていた。所要日数は真面目に調べなかったのだが、一ヶ月以上、二ヶ月以内というところだ。毎日出る訳ではないから日数は決まっていない。航空機時代に生きていると船の時代のヨーロッパまでの距離を錯覚しがちである。
 一九四一年と言えば、宮崎駿が生まれた年。西老人は当時二七歳だから宮崎にとって父親と同世代に当たる。宮崎は父親を「反面教師」(『出発点』)と言い切っている程なので、その裏返しに西老人を造形したのかもしれない。絵コンテには西老人が雫に鉱石を与えるカット(C973)に「西、祖父の世代の役割を完結させる。」と書かれている。この文を書きながら、一年前に亡くなった自分の父親を思い起こしていたのではないか、などと想像してしまう。(モーリさんの指摘を受けた箇所を一文削除した)
P248 ここまでの年表を作成する
 煩雑を避けて簡略な年表にしておいたが、西老人の前半生はほとんど戦争にまみれている。当時の日本とドイツの情勢を加えて年表を作成しておく。

 それに先だって当時の学制について訂正が必要になったので述べておく。執筆の時、当時の学校令を調べたのだが、大学令の内容を見落としてしまった。今回、念を入れたところ大学の在籍年数は医学部が4年以上、それ以外の学部は3年以上となっていた。調査していた時に大学令も見ていたのだが、現代と同様と即断してしまった。ここで訂正しておく。
 従って、西老人の大学卒業年度は3年以上以外に確定出来なくなったが、最短年度は本論よりも一年早くなる。年表全体に影響は出ないと思うが大学卒業と留学の間が2年になる。


1914(〇歳) 七月、第一次世界大戦勃発。八月、日本もドイツに宣戦し、山東に上陸。
1918(四歳) 八月、日本のシベリア出兵。一一月、第一次世界大戦終結。
1920(六歳) 西老人、尋常小学校入学。
1923(九歳) 九月、関東大震災。
1926(一二歳) 西老人、中学校入学。
1928(一四歳) 張作霖、関東軍の謀略により奉天で爆死。
1931(一七歳) 西老人、高等学校入学。九月、満州事変勃発。
1932(一八歳) 一月、第一次上海事変起こる。三月、満州国建国。五月、五・一五事件起こる。
1933(一九歳) 一月、日本、国際連盟脱退。ヒトラー、首相に就任。三月、日本軍、熱河占領。満州事変終結。
1934(二〇歳) 西老人、大学入学。
1935(二一歳) ドイツにニュルンベルク法成立。三月、ドイツ、再軍備を宣言。
1936(二二歳) 二・二六事件起こる。一一月、日独防共協定成立。
1937(二三歳) 七月、蘆溝橋事件起こる。日華事変勃発。八月、第二次上海事変起こる。
           一一月、日独伊三国防共協定成立。一二月、南京大虐殺起こる。
1938(二四歳) 西老人、大学卒業(1年早まる)。三月、ドイツ・オーストリア合併。四月、国家総動員法公布。
1939(二五歳) 西老人、ドイツに留学。三月、ドイツ、チェコを併合。
           五月、ノモンハン事件起こる。日ソ両軍衝突。
           九月、第二次世界大戦勃発。ドイツ、ポーランドに侵攻。
1940(二六歳) 六月、ドイツ、パリ入城。九月、日独伊三国同盟成立。
1941(二七歳) 四月、日ソ中立条約調印。六月、ドイツ、ソ連に宣戦。
           西老人、帰国。一二月、太平洋戦争勃発。日本、米英に宣戦。
1945(三一歳) 五月、ドイツ降伏。八月、日本、無条件降伏。
1950(三六歳) 六月、朝鮮戦争起こる。
1951(三七歳) 九月、サンフランシスコ条約調印。日米安保条約調印。(翌年発効)

P239 西老人が乗っている列車のプレート
 ヨーロッパの長距離列車のプレートには行き先がはっきり書かれているからチューリヒ行きは間違いない。チューリヒの右に見える文字が出発地ならば、…ARLBERGは列車名になる。列車名には人名が多いが該当者は思いつかない。CARLSBERGの洒落の可能性もあるが、こういうことは一番最後に考えることである。
 この後しばらくの間ヨーロッパの地名が頻出するが、一つ一つの都市を紹介するのも面倒なので少し省略する。

P248 Auschwitz=Oswiecim
 例として紹介したのはご存じのアウシュヴィッツである。この注ではポーランド語フォントの使い方が判らないので残念ながら不正確な綴りで我慢した。一九四〇年にドイツが強制収容所(Konzentrationslager)を建設し、一九四五年までに一〇〇万人に上るユダヤ人がガス室に送り込まれた。NHK制作のドキュメント「映像の世紀」の第五集「世界は地獄を見た」で収容所解放直後の凄惨な映像を見ることが出来る。このシリーズはスタジオジブリで何度も鑑賞会が開かれるほど注目されているからファン必見といえる。
P249 イタリアへ行くのに通過する地点
 トマス・クックのヨーロッパ時刻表に載っているドイツの路線図が一番判りやすい。本論の地図はこれを参考にして私が作成したお粗末なもの。ドイツからチューリヒへ抜けるルートが意外と狭いのに驚く。男爵の名前の語尾、-ingenを見つけるのもこの時刻表なら簡単だ。映画制作者が男爵の語尾に気が付いた可能性は高い。一九四〇年代と現代では路線の数は違うだろうが、この路線は主要なものだからそれほど違ってはいない。
 地図の中にフライブルクを入れておいた。なくても本論の記述上構わないのだが、ここには当時のドイツ哲学の重要人物マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger 1889-1976)がいたフライブルク大学があるので外せなかった。
P249 男爵の名前だ。
 ドイツ語は発音と綴りがほぼ一致するので英語やフランス語ほど悩まなくて済む。Humbertは「独和大辞典」(小学館)で調べた。ドイツ語では語尾がDの場合もあり得るので確認が必要だった(Ferdinandなど)。
 Sickingenの方も本論に書いた通り、Franz von Sickingen(1481〜1523)という歴史上の人物がいるので問題ない。彼はドイツの帝国騎士で宗教改革支持者。ドイツ騎士戦争(1522〜23)を指揮したが破れて死去した。他に有名な人物は思いつかないから、柊が彼から名前を借りた可能性が大きい。
 DVDの英文字幕では"Jechingen"とされているが賛成出来ない。英語なら「ジェッキンジェン」だし、ドイツ語では「イェッヒンゲン」になってしまう。発音に何ら支障がない実在の人物の綴りを捨ててまで採用するにはあまりに発音が違いすぎる。
 『猫の恩返し』では"Gikkingen"となっている。少しはましだがドイツ語発音では「ギッキンゲン」になるのでやはり不正確である。それに-kk-という綴りはあまりドイツ語的ではない。どうも字幕制作者は実在の人物に気づいていないか、あるいはあえて変えているかのどちらかのようだ。この種のことは翻訳担当者の誠意と努力の不足とみる他ないのでいただけない。
 「男爵」という爵位は本論には無関係なので触れなかった。しかし、興味がある人もいると思うのでここで紹介しておく。
 ドイツ(神聖ローマ帝国)では上級貴族は王(König)を筆頭に、公爵(Herrzog)、侯爵(Fürst)、伯爵(Graf)、男爵(Freiherr)があり、その下に騎士(Ritter)があった。
 フランスでは王(roi)を筆頭に公爵(duc)、侯爵(marquis)、伯爵(comte)、子爵(vicomte)、男爵(baron)、城主(châtelain)、陪臣(vavasseur)、騎士(chevalier)などがあった。日本ではこちらの方が馴染みがある。
 人形の男爵はドイツ名だから「バロン」より「フライヘル」(直訳すれば自由紳士)の方が自然だが日本ですぐ判る人は少ないだろう。西老人は雫相手に話しているので判りやすい言い方をしたようだ。
 フランスの爵号はアレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)の「三銃士」(les trois mousquetaires)を愛読していた余得でお馴染みだった。この小説にはラ・フェール伯爵(le comte de la Fére アトス)、デュ・ヴァロン男爵(le baron du Valon ポルトス)、ブラジュロンヌ子爵(le vicomte de Bragelonne)、コンデ公(le duc de Condé)、アラメダ公(le duc d’Arameda アラミス)など各種の爵号が出てくる。ダルタニャンは無爵(せいぜいchevalierだろう)だが、晩年に伯爵になったとされている。もとよりこれは本での話し。三銃士以外ではサド侯爵(marquis de Sad)なんて有名人もいた。
P250 Sickingenは地名である
 貴族は自分の所領を持っているのでそれが名字のような役割を果たす。ドイツなら"von"の後に地名が来る。フランスだとルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール(Louise de la Vallière)のように"de"で示す。地名が母音で始まる時はアンヌ・ドートリッシュ(Anne d'Autriche)のように"d'"になる。彼女はハプスブルク家の人なのでオーストリア(Autriche)が所領扱いになる。こうなると単なる出身地に近い。有名なマリー・アントワネット(1755-1793)もMarie=Antoinette d'Autricheである。イタリアでは貴族以外でも出身地で通すことが多い。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonaldo da Vinci)のように"da"で示す。ヴィンチ村には彼が作った自動渡し船が今でも運行している。フランス語同様、地名が母音で始まる時はサンチャ・ダラゴーナ(Sancia d'Aragona)のように"d'"だけになる。

P250 西部戦線、東部戦線
 本来この言い方は第一次世界大戦に使うのだが、うまい言い方が思いつかなかったので転用した。歴史に詳しい人は気になったかもしれないが、ご容赦願いたい。

P250 当時の日本とドイツは同盟国
 一九三六年一一月 日独防共協定成立。
 
一九三七年一一月 日独伊三国防共協定成立。
 一九四〇年九月   日独伊三国同盟成立。
P250 ドイツ人女性と付き合うとなれば別だ。
 日本人男性とドイツ人女性の恋愛を考える時、誰でも連想するのが森鴎外の「舞姫」であろう。しかし、そのために落とし穴に嵌る危険性がある。「舞姫」の舞台になったのは1890年代のドイツである。西老人とルイーゼとの間には40年もの時間の隔たりがある。ドイツの社会情勢・国際情勢はまるで違っているのだ。その背景の違いに留意する必要がある。
 ルイーゼが何民族かは不明だが、少なくともユダヤ系だった可能性はない。西老人の話が記憶通りだとすれば、カフェの主人がユダヤ人女性に人形を渡すことを承諾するとは思えない。ルイーゼの服にも「ダヴィデの星」があったろうから隠すことは無理だ。それに彼女がユダヤ系なら身の危険は明白だから西老人が一人国外に出たらどうなるか位は判るだろう。
 ルイーゼの綴りはLuise。英語、フランス語ではルイーズ(Louise)になる。彼女はイギリス系、フランス系ではないようだ。当時のドイツの状況ならスラヴ系、ユダヤ系の人もドイツ名の可能性があるので実は名前から確実な特定は出来ない。ドイツに住んでいるからドイツ人というのは先入観である。もっとも私は制作者がそこまで複雑に演出したとは考えていない。又、ルイーゼが大学生だったとは思えない。戦後、西老人は留学先の町で彼女を捜している。もし大学生だったならば、地元出身者はかなり少ないはずだから、単に地元の女性だったと考えた方がよい。それにナチス政権は女性の高等教育に不熱心だった。

P250 ヒトラーを総統とするナチス政権
 国家社会主義ドイツ労働者党(NATIonalSozialistische Deutsche Arbeiterpartei)。総統(Fühler)はヒトラー(Adolf Hitler 1889-1945)。一九三三年に政権を獲得し、彼が首相に就任した。
 西老人の年齢設定は疑いなく第二次世界大戦勃発時に留学したことを前提に逆算してある。ナチスの政権獲得は一九三三年、ニュルンベルク(Nürnberg)法の制定は一九三五年なのだが、この年をすぐ思い出せる人は少なかろう。その点、第二次世界大戦ならば、すぐナチスに気が付く。西老人の回想場面がのどかすぎるからといってだまされてはいけない。実際にはカフェにもハーケンクロイツがあっただろう。この場面は回想だからナチスを伏せていても文句を付けられない。制作者は実に巧妙に問題を回避しているのだ。
 ハーケンクロイツ(Hakenkreuz)は鉤十字のこと。ナチスの党章で一九三五〜一九四五年はドイツの国旗だった。

P250 断種法を実施
 ドイツにおける断種法に関しては「ナチ・コネクション」(シュテファン・キュール著 麻生九美訳 明石書店)他を参照のこと。
 本論では直接関係ないので述べなかったが、断種法は他人事ではない。日本ではドイツ医学の影響下に一九四〇年「国民優生法」が制定されている。この法律は一九四八年に廃止されたが、代わって「優生保護法」が施行され、一九九六年に廃止された。ところが引き続き、「母体保護法」なるものが施行され、今日に及んでいる。日本の女性は今でも「不良な子孫の出生を防止する」目的で避妊手術を強制される可能性があるのだ。

P251 SS
 SchutzStaffel(親衛隊)の略称。ヒムラー(Heinrich Himmler 1900-1945)の指揮下にあり、警察権も掌握していた。直接的な活動は下部組織であるゲシュタポ(GEheime STAatsPOlizei 国家秘密警察)が担っていた。
 ニュルンベルク法適用でもっとも著名なものは一九四一年三月に始まる「カッツェンベルガー事件」である。ユダヤ人男性レーマン・カッツェンベルガーとドイツ人女性イレーネ・ザイラーの性的関係が問題とされ、レーマンは死刑に処せられ、イレーネは二年の懲役に服した。戦後、この事件は全くのでっち上げだったことが明らかにされている。映画「ニュールンベルグ裁判」(監督スタンリー・クレイマー 一九六一)はこの事件に基づいて作られた。(「ヒトラーとニュルンベルク」芝健介 吉川弘文館)
 事件の始まりは住民の告発である。それによってゲシュタポが動いたのだ。本論でルイーゼが監視を受けていた可能性を示唆したが、住民がその役割を果たしていたことも考えられるのだ。
 この事件は西老人の留学中に起こっている。ナチスはこの事件を反ユダヤ人宣伝に大いに利用していたから西老人も間違いなく知っていたに違いない。
P251 当時のドイツ人女性と日本人男性の結婚問題を扱った資料に出会っていないので推測に頼る他ない。
 ヒトラーの「我が闘争」が参考になると思うので引用しておく。

「自然はより弱い個々の生物が、より強いものと結合するのさえ望まなかったが、同じように、より高等な人種がより劣等な人種と混血してしまうのは、それ以上に望まないのである。なせならば、そうでない場合には、自然によって昔から、おそらくは幾十万年も続けられてきた、より高度なものに進化させていくという仕事全体が、一挙に、ふたたび崩れ去ってしまうに違いないからである。」
「今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期間はなお今日の日本の科学と技術の上昇は続くことはできるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉は水がかれてしまい、日本的特性は強まっていくだろうが、現在の文化は硬直し、七十年前にアーリア文化の大波に破られた眠りに再び落ちてゆくだろう。」(「我が闘争」平野一郎・将積茂 訳 角川文庫 第十一章から引用 )

 人種政策の第一の標的は間違いなくユダヤ人である。しかし、ヒトラーの主張はユダヤ人のみに留まっていないことが理解出来よう。「我が闘争」第一巻は一九二四年に執筆されている。文中の「七十年前」はもちろん一八五三年のペリー来航である。

P251 西老人がルイーゼをドイツに残した場合、二度と会えなくなる可能性が高いのだ。
 男爵の語る内容に西老人とルイーゼの別離が投影している可能性が高い。「猫のルイーゼの誘拐」に現れたムーンはナチスの隠喩と解釈することも出来る。
P251 サンフランシスコ条約
 一九五一年九月八日調印、同年一一月一八日批准、一九五二年四月二八日発効。当時国際連合に加盟していた五五ヶ国の内、中国、ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキア、インド、ビルマ、ユーゴスラヴィアの七ヶ国を除く四八ヶ国との間で結ばれた平和条約。これを以て戦争状態が終結した。但し、「日米安全保障条約」という『おまけ』が付いていたが。
 日本の戦前の状況については佐藤友之著「昭和天皇下の事件簿」(現代書館)を参照したのでこの条約名も彼の記述に従った。

P251 行方がつかめなかった
 取り敢えずその町には行けたのだから最低限西ドイツ側の町だったことは確実だ。テュービンゲンは西側だから問題ない。

P252 心をルイーゼに残したまま、結婚を急いだ理由は不明である。
 現在のように四〇歳位まで独身が普通の時代ではない。親族の圧力に負けたのかもしれない。ルイーゼを探しに行くことが抵抗の最後の砦だったのだろう。

P252 妻が存命中からとは思えない
 地球屋の意味を考えれば、納得して頂けるだろう。次章の前なので理由は特に触れないで済ませた。

22.三つの恋の物語

P254 胸部の左側
 右、左は常に相対的なので表現上どちらも使える。例えば、学校の屋上の入り口にいる二人はどう書けるか。観客から見れば、聖司は雫の左にいるが、雫から見れば聖司は右にいる。本論ではほぼ一貫して映画を観る観客から見て左右を記述した。絵コンテも同様の方法で表記している。例えば、八月二一日に雫が団地の出口を出て曲がるカット(C52)に「(雫)出て来てへFr.O」という記述がある。この場面は雫の主観ではに曲がっている。また、時計が一二時一分を指してびっくりした雫が西老人の方を向く場面(C311)でも「パッとむく」とあるが、雫の主観ではに向く。時計の場合、主観を求める必要がないので左とした。『それなら時計は後ろ向きに置いてあるのか?』などと揚げ足を取らないこと。
 ただし、例外的に登場人物の動きに関わる時はその人物の主観で書いた場合もある。「5 中学校へ」の【通学路】の部分などがそうである。本論を調べて確認して頂きたい。

P254 『紅の豚』
 「スタジオジブリ絵コンテ全集7 紅の豚」(宮崎駿 徳間書店 二〇〇一)
P254 西老人には何らかの確信があったのかもしれない。
 帰国後すぐに結婚していることから推測した。親族に抵抗する意思も失せていたのかも知れない。

P256 一階でありながら、同時にそのまま「地下」でもある
 実は本論でも「一階」「地下」どちらで記述するか迷った。絵コンテでは上階が「店内」、下階が「アトリエ」「地階」などとあり、これでは上下関係が判らなくなる。
 書き方に迷うのは地球屋が曖昧な構造に設定されているからだ。制作者はあまりはっきり「地下」と判る建物にしたくなかったのだ。明確に地下にしてしまうと時計との類似性を観客にすぐ見破られる危険性がある。曖昧な構造だからこそ、宮崎の文章の「地下」という言葉が巧妙な暗示になる。なお、この文章から宮崎が企画当初から地球屋の二重構造を構想していたことが分かる。『資料集X』では美術設定の解説に工房を「二階」と書いてあるので混乱する。これは原作と混同した人騒がせな誤植である。

P257 映画の中の地球屋にはいくつもの時計が置かれている。
 本論に挙げた以外にも時計はある。雫が初めて地球屋を訪れた時、入り口の左にも時計がある。この時計はセッションで三老人が帰宅した時にも雫が西老人の半生を聴いている時にも置いてあった。
 ドワーフの王は文字盤に住んでいる。地球屋にも対応する時計がある。西老人にも日常生活があるのだから当然だ。八月二二日、時計の前で雫が「この時計すすんでますよね」と尋ねた時、西老人は帳場の方を見やりながら、「ウン、でも五分ぐらいかな」と答えているし、九月八日に雫が地球屋を訪れた時、暖炉の上に時計らしきものが見えている。これがそうだろうか(壁に架けた装飾皿の可能性もあるので)。
 原作の地球屋にも幾つか時計が置かれているが、雫が最初に訪れた時に描かれるだけで何の役割も当てられていない。
P258 動いている時計はただの一つもない。
 
絵コンテには聖司が男爵の位置合わせをしているカット(C547)に「時計、Aパートにあわせる。とまってる」とある。これは絵の中の書き込みなのでDVDでも確認出来る。時計を止めてあるのは別に作画の手間を省いた訳ではなく制作者の意図したことなのだ。
 『猫の恩返し』の中でハルが猫の事務所の中に入って紅茶を飲んでいる時、男爵の背後に振り子時計がある。この時計はしっかり動いていた。だからどうだと言うつもりはないが、時計は動かそうと思えば動かせるのだ。

P259 地球屋と時計があらゆる意味で見事な対応を示している
 この対応は制作者が意図的に作ったものだ。決して偶然ではない。これは確信を持って断言出来る。この映画に何故原作にない時計が持ち込まれたか。それは時計を通じて地球屋の意味を観客に伝えるためだったのだ。
P259 フラクタル図形のように自己相似的な入れ子型の二重構造を持って存在している。
 題名に入れた「フラクタル」についてはここしか触れていない。題名を見ても意味を知らなかった人がいただろうが、「自己相似図形」「入れ子」という説明だけでお判りいただけただろうか?現在は『複雑系』が流行しているのでその種の本を参照して欲しい。冒頭の注で触れたジュリア集合はフラクタル図形の代表例である。もう一つ有名な図形にマンデルブロー集合があるが、あまり一般受けしそうもないので表紙に使うのはやめておいた。
 『耳をすませば』には「入れ子」がたくさんある。本論では触れなかったが、『西老人−男爵』もほとんど「入れ子」に近い。実は『雫−聖司』ですら「入れ子」みたいなものだ。私は追加の「入れ子」まで作ってしまった。そんな気分を出したかったので題名を「生成するフラクタル」とした。割と気に入っている。そのかわり、書店によっては自然科学系に分類されてしまったが。

P259 この時計は動いた
 西老人は自分の意志で時計を動かした。自分が何をしているか彼には十分判っていたはずだ。この時計は単にお客が来た程度で動かせるものではない。

 止まっている時計と動き出した時計の間に時間経過の齟齬があるのではないかという反論が出るかもしれない。しかし、どう考えてみてもこの二つの状況を正確に時間の流れに沿って表すのは不可能である。充分考え抜かれた演出だと見るべきであろう。
P261 雫の言葉と映像は男爵と「かなしみ」を結びつけていた。
 映像表現の悩ましさはこうしたところに現れる。雫が「かなしみ」について語った時に映される男爵はいったい誰の視線なのか。雫は時計に集中しているからここで男爵を見るのは不自然だ。また、雫が時計に集中している時に西老人が男爵を見るのもおかしい。従って、この視線は制作者の視線になる。
 しかし、映画の登場人物と無関係に制作者が男爵と「かなしみ」の関係を提出して何になるのだろう。意味不明である。このカットの意味は本論の最終章を待たなければ解明出来ない。この問題はセッションにおける「カントリーロード=いろは坂」「あの街=地球屋」でも共通している。
P262 映画の中で「ルイーゼ」に言及されるのはたった二回だ。
 もう一回はもちろん西老人の夢の場面である。

P263 九月六日に時計が姿を消すのは必然なのである
 ルイーゼが地球屋の住人になったと同時に「届かぬ恋」は成就した。従って、「届かぬ恋」を象徴する時計が姿を消すのは当然なのだ。

P263 少々穏当ではない
 該当箇所ではその意味を解釈してある。ここで問題にしているのは言葉の意味ではなくニュアンスだ。

P263 男爵を入り口に向けて置いた
 八月二一日、雫の地球屋訪問場面で「男爵−雫−入り口」の関係は触れておいた。男爵の背後の鏡はそれをはっきり示すために置かれている。また、男爵の背後から映すカメラでも三者の位置取りは見て取れる。一一月一一日に雫が地球屋を訪れた時も男爵はテーブルに乗っている。これも普段から置いてあると見るよりも雫が来るから置いたと見た方がよい。
 原作で雫が初めて地球屋を訪れた時、男爵は左の奥の棚にひっそりと置かれていた。「男爵−雫−入り口」の関係を作ったのは映画制作者の意図による措置なのである。又、原作では西老人が雫にエンゲルスツィマーを見せるが、その時、「陽のあたるところは人形がいたむ…」と語っている。

P263 『雫=ルイーゼ』という解答は疑いようがない事実
 『雫ールイーゼ』の関係は西老人の視点から得られたことを忘れてはならない。雫自身は当然そのような自覚を持ってはいない。しかし、雫が結果的にルイーゼとして振る舞っていることも事実なのだ。男爵への発言もそうだし、聖司との婚約もそうだ。こうした事実は西老人の視点がこの映画の中で特権的な立場を得ていることを明瞭に示している。最終章の結論はこれを発展させたものだ。
P266 物語の世界そのもの
 本論の性質上、あまり極端に物語化はしていない。私の文章では不十分だと思った人は西老人を王に、聖司を王子に、男爵を従者にとでも置き換えてみると良い。これなら物語として問題なかろう。想像力のある人ならメルヘンぽい物語に仕立てられるのではないだろうか。誰か挑戦してみませんか?
P267 実数解を求めるために虚数を必要とするときがある。
 例として三次方程式の一般解を紹介しておく。複雑なので具体的な意味は気にしなくてかまわない。
の一般解は次の通り


但し   

 
 
ご覧の通り、解の内二つは共約複素数の形である。実数解のみの三次方程式を解くのにも初めから虚数が介在している。計算好きな方は  (解は となる)とでも置いて解いてみるとよいだろう。詳しくは岩波新書「数学入門」(上・下)を参照のこと。
23.結末
P272 朝靄の中の向原団地近辺。
 ここも絵コンテで書き出す。

(C988)タマの丘。しらじらして来てる空。
(C989)(色)夜明けのあせた色に。<目を覚ました雫>
(C991)白々とした世界。<雫、窓を開ける>
(C992)しらじらした空。(色)夜明け色。<聖司が姿を現すところ>
(C998)力を失った水銀灯がまだともっている通り。
(C1008)白々した空。ずい分明るくなって来ている。
(C1018)夜明け色ここまで。バイク、ライトつけていること。
(C1019)日の出寸前(ここより色ノーマル)。<二人が給水塔に着く>
(C1021)青ざめた下界。朝もやにしずむ大東京。日の出寸前の空、あまり染めずに。
(C1023)東の空の一角に赤い太陽がカオを出す。
(C1024)色、朝日色に。
(C1028)下界にも光がとどき、…。
P272 『アレッそのままねちゃった』という仕草
 絵コンテには「ありゃ…と服のままの自分に気づいたりして」とある。

P274 愛車に乗った近藤氏が特別出演し
 絵コンテに「白いジャスティ(近藤喜文氏の車)、ひやかして通過する」とある。そうでないと私にこんな楽屋落ちは判らない。

P275 着いていく方は大変だ
 絵コンテに「この人と一緒だと苦労しそうと思ったかどうか」とある。最後の追い込みで気持ちにゆとりが出来たのか、宮崎の軽口が多い。きっと鼻歌も出ていたと想像する。

P275 BGMのまとめ
 本論を読んでくださった方は映画ファンが多いと思うのでバロック音楽にも興味を持って頂けたらこんな嬉しいことはない。これまでバッハの曲を中心に何曲か紹介してきたのでお薦めCDを挙げることにする。これはあくまで私の好みなので絶対的なものではない、念のため。

作曲者 曲名 演奏者 CD番号 備考
J.S.Bach

カンタータ・シリーズ第3集

バッハ・コレギウム・ジャパン(Bach Collegium Japan)
指揮鈴木雅明

BIS-CD-791 12番、第182番所収
米良美一(Contretenor)
濱田芳道(Recorder)
カンタータ・シリーズ第2集 BIS-CD-781 カンタータ第106番所収
米良美一(Contertenor)
福沢宏(Viola da gamba)
カンタータ第198番 王立礼拝堂合唱団・合奏団(Choeur et Orchestre de la Chapelle royale)
指揮フィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe)
HMX290826 カンタータ第78番も収録。この曲にも「哀しみ」のフィグーラがある。

無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全集 和波孝禧(Violin) ART-3028
ART-3032
楽器はJ.B.Guadanini 1711-1786
ナタン・ミルシュテイン(Natan Milstein 1904-1992 , Violin) POCG-3305/6 楽器はA.Stradivari
シギスヴァルト・クイケン(Sigiswald Kuijken, Baroque Violin) 77043-2-RG 楽器はG.Grancino,c.1700
バロック・ヴァイオリンの演奏
ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ全集 ヴィーラント・クイケン(Wieland Kuijken, Viola da gamba)
グスタフ・レオンハルト(Gustav Leonhardt, Cembalo)
B20D-36039
ゴールトベルク変奏曲 グスタフ・レオンハルト(Gustav Leonhardt, Cembalo) BVCD-1651
鈴木雅明(Cembalo) BIS-CD-819

ブランデンブルク協奏曲全集

レオンハルト合奏団 SB2K 62946 名人達の競演
フランス・ブリュッヘン(Frans Brüggen, Recorder)
フーガの技法 エスペリオンXX(Hespèrion XX) AV9818 A+B ガンバ・コンソート中心の演奏
ブルース・ディッキー(Bruce Dicky, Cornetto)
ホルディ・サヴァル(Jordi Savall, Viola da gamba soprano)
マタイ受難曲 モンテヴェルディ合唱団(The Monteverdi Choir)
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(The English Baroque Soloists)
指揮ジョン・エリオット・ガーディナー(John Eliot Gardiner)
POCA-2131/3 好みが割れるところなのでこれはほんの一例。
ロ短調ミサ タヴァナー・コンソート(Tavarner Consort)
指揮アンドルー・タヴァナー(Andrew Tavarner)
CDS7 47293 8 これもほんの一例。
Frans Brüggen Edition Vol.2 Italian Recorder Sonatas フランス・ブリュッヘン(Frans Brüggen, Recorder)
アナー・ビルスマ(Anner Bylsma, Baroque Cello)
グスタフ・レオンハルト(Gustav Leonhardt, Cembalo)
4509-93669-2 A.Corelli ラ・フォリア所収
G.P.Telemann Frans Brüggen Edition Vol.10 フランス・ブリュッヘン(Frans Brüggen, Recorder)
コンツェントゥス・ムジクス・ヴィーン(Concentus Musicus Wien)
指揮ニコラウス・アルノンクール(Nicolaus Harnoncourt)
4509-97472-2 序曲(組曲)イ短調所収
Bläserkonzerte ミヒャエル・シュナイダー(Michael Schneider, Alto Recorder)
ムジカ・アンティカ・ケルン(Musica Antiqua Köln)
指揮ラインハルト・ゲーベル(Reinhald Goebel)
F35A 20085 リコーダーとフルートのための協奏曲ホ短調所収
C.Monteverdi 聖母マリアの夕べの祈り モンテヴェルディ管弦楽団(Monteverdi Orchestra)
指揮ジョン・エリオット・ガーディナー(John Eliot Gardiner)
POCL-3658/9 DVDもある。
バッハ・コレギウム・ジャパン(Bach Collegium Japan)
指揮鈴木雅明
BIS-CD-1071/2 濱田芳道・ブルース・ディッキー(Cornetto)
福沢宏(Lilone)
A.Vivaldi リコーダー協奏曲集 ミヒャエル・シュナイダー(Michael Schneider, Sopranino & Treble Recorder, Traverse Flute) 74321 40501 2 ソプラニーノ・リコーダー協奏曲3曲とアルト・リコーダー協奏曲所収
E.Ysaÿe 無伴奏ヴァイオリンソナタ 和波孝禧(Violin) SOMMCD 012
G.Mahler 交響曲第五番嬰ハ短調 フランクフルト放送交響楽団(Frankfurt Radio Symphonie Orchestra)
指揮エリアフ・インバル(Eliahu Inbal)
COCO-6637

P275 BGMについて
 BGMを通覧すると全曲のうち、雫と直接的に関わらない曲はST6「打ち明け話」だけである。また、西老人と直接関係するST19「追憶」と共に室内楽を用い、かつ象徴表現が用いられていない。これも重要な特色である。更に興味深いのは、月島家内・中学校内に直接関わる曲が一つもないこと。雫の最も現実と関わりの多い場面にはBGMが存在しない。『耳をすませば』のBGMは極めて象徴性が高いため、現実そのものとは関われないのだ。
 BGMについて本論でもこの注でもいろいろ書いてきたが、野見の作曲技術の高さに感嘆する。動機処理、和声処理、管弦楽法、どれをとっても見事なものである。決して単なる状況説明音楽に留まっていない。映画の構造、関連に深く関わり、綿密な関係を作り出している。こうしたやり方が『耳をすませば』だけでないことは『猫の恩返し』をじっくり聴けば理解出来るだろう。久石の場合、ここまでの水準には達していない(これは方法論の相違の問題であって質とは関係ない)。
 当初の計画では本論の中ではBGMに触れず、最終章の前に一章を設けて、BGM全体をまとめようと考えたのだが、どの曲もその場面と密接な関係がありすぎてとても無理だと判ったので予定を変更した。あちこちにBGMの説明が挿入されていて煩わしく感じた人もいたかもしれないが、最善の方法だと考えている。


追加)『ハウルの動く城』で久石の音楽的内容は飛躍的に密度が増した。その濃さは『一つの旋律を全体に貫く』ことで達成されているが、これだけでは久石に失礼であろう。彼はたった一つの動機から全曲を構成したのだ。「人生のメリーゴーランド」はその一端に過ぎない。

P277 ちょっとびっくりする
 簡略化のためこう書いたが絵コンテでは次の通り。「エッとなるしずく。『すきだ』といわれるなら経験もあったが…。風が急に強くなったのは気のせいか」とある。最後まで風にこだわる宮崎である。
P278 ケロリといってのける
 絵コンテにそうある。私の結論が制作者の意図とそれほど食い違っていないことを示している。制作者の意図と違ってもかまわないのだが、少なくとも私の解釈と演出が矛盾しないのは確かだ。
 その直後、聖司が「ヤッター」と浮かれている時、雫は少し恥ずかしそうに俯いた後、顔を上げてほてりを冷ますように風に当たるが、全てが成就したかのように実に満足げな表情をしている。「事畢りぬ」(ヨハネ福音書19.30)
P278 『真夏の夜の夢』
 "A Midsummer Night's Dream"。シェイクスピアの喜劇。上演当時から人気が高く、何人もの作曲家が付随音楽を書いている。Midsummerは夏至のこと。真夏と訳されたので誤解しやすい。
P278 『シンデレラ』
 ペロー(Charles Perrault 1628-1703)及びグリム兄弟(Jacob Grimm 1785-1863, Wilhelm Grimm 1786-1859)の童話集に収録されている有名な童話。ドイツ語名が原題らしく"Aschenbrödel"(アッシェンブレーデル)という。『灰(Asch)の中でのらくらする(brodeln)者』の意味で日本では「灰かぶり」と訳されている。英語の"Cinderella"(シンデレラ)はその意訳で"cinder"とは灰殻の意味である。フランス語では英語を転用して"Cinderillon"(サンドリヨン)と呼ばれるようになったようだ。イタリア語では"Cenerentola"(チェネレントーラ)という。オペラやバレーも創作されている。ヨーロッパの童話の原題はドイツ語が多いのだが日本では英語形が普及している。
 「人狼」を観ていたせいか、ふと思いついて「赤ずきん」を確かめてみた。「赤ずきん」はドイツ語の"Rotkäppchen"(ロートケップヒェン)が元である(rot=赤、kapp=ずきん)。英語では…。これが判らないのだ。我が家の英和辞典やらなにやら調べてもない。近所の図書館に行って司書の方の協力を求めたがそれでもないのだ。百科事典や児童文学事典にも出ていない。これは意外だった。フランス語の方はペローの童話集で"le petit chaperon rouge"だと確認出来た。最後はあきらめ気味に本棚を眺めていたら、「あった」。"Summerly's Faëry Tales"(1845 London)という本の復刻版の中に収録されていた。題名は"Little red riding hood"だった。簡単に見つかりそうで見つからないものもある一例である。
24.エンディング〜再び"Country roads"〜
P279 エンディング
 エンディングの画面については皆さんにおまかせする。そこまで書いてしまうのは野暮というものだろう。
P280 ガンバは遂に登場しない
 中間部でヴァイオリンとリコーダーのデュエットの伴奏をしている楽器はリュートではなくギターである。ここでは北も登場しない。尚、中間部のリコーダーはアルトではなくソプラノ(B管かもしれない)である。
P281 これがこの映画の主人公月島雫の限界なのだ。
 感情的な反発を予想した一つがこの部分。主人公を否定的に言及するとそういう反応が必ず起こる。『劇場パンフレット』に書いてある「ふるさと」の説明を鵜呑みにしている人も同様。
 『劇場パンフレット』を読み、その上で映画を観ても、私には雫が多摩丘陵を「ふるさと」だと認識出来たとは到底考えられなかった。『劇場パンフレット』には次のような言葉がある。

(雫は)さんざん悩んだ末、自分にとってはコンビニエンス・ストアーやファーストフード店が立ち並ぶこの風景こそが「故郷」であり、ここで地に足をつけて生きていくしかないんだ、という思いに達するのです。
『もうひとつの原作「カントリー・ロード」』

 ここに述べられているような認識に果たして雫は到達しているか? これは当初からの疑問であった。その最大の理由は訳詩そのものにある。この訳詩の内容は「ここで地に足をつけて生きていく」ことを描いていない。そうとしか読みようがない。なぜなら訳詩に登場する「あの街」は明らかに『現在そこにいない』状態で、つまり外側から描いているからだ。しかもその街自体が全く書き込まれていない。本論にも書いた様に「丘をまく坂の道」だけなのだ。原詩は三番の内の二番分を「ふるさと」の風景に当てている。雫はそのことを当然知っている。だとすれば、雫は訳詩に風景を書き込むことを意識的に避けたか、あるいは書けなかったかいずれかだと考える他はない。
 映画の中の雫は高校に行く決心をしている以上、多摩丘陵の外には出て行かない。「あの街」を多摩丘陵に比定すると訳詩との間に決定的な矛盾が生じてしまうのだ。従って、雫は多摩丘陵を「ふるさと」とは認識していない。『劇場パンフレット』の結論はどう考えても成立しないのだ。

 後の注で紹介する当時の批評でもコンビニについて言及されているが、『劇場パンフレット』のこの文章に引きずられているのではなかろうか。他に団地の掲示板や塾もあれば喫茶店もあるのに言及がないのがその証拠であろう。しかし、『劇場パンフレット』は映画自体ではない。そればかりに頼って作品自体を観ることを忘れてしまっては何にもならないのだ。映画との矛盾が明かな解説を尊重しても仕方がない。私は本論の分析によってようやく納得のいく結論が出せた。他人を当てにしていてはいけない。
 『劇場パンフレット』の情報と映画の情報の間に微妙に食い違いが存在することはこれまでの注で何回か指摘した。これもその一つである。"Country"=「故郷」の場合は田中の誤解の可能性が高いが、今回の場合は意図的な措置である可能性がある。この映画の焦点は「地球屋とは何か?」にある。この文章は観客の視線を多摩丘陵に向けることによって地球屋に目を注ぐのを事前に防ぐ役割を果たしているからだ。

P282 「街」の風景として書き込んだものは「丘をまく坂の道」ただ一つにすぎない
 この句はエンディング版にしかない。つまり、セッション版には風景は一つも描かれていないのだ。これは両者が書かれた段階を考えれば理解は難しくない。というのも、この二つの版の間にセッションがあるからだ。セッション版はこと「ふるさと」に関しては第三稿と同様に不確定な時点で書かれている。地球屋を故郷にしたいという願望がほの見えるとはいえ、この段階では風景を書き込もうにもその対象が存在しなかったのだ。セッションを経た後に僅か一つとはいえ、風景が現れるのもまた当然と言える。
 又、この句は雫の「ふるさと」が多摩丘陵ではないことの傍証にもなる。「丘をまく坂の道」とはいろは坂だろう。ならば、いろは坂を見るためには視線はどうなっているか。映画のオープニングでも明らかな通り、それは「杉の宮方面からいろは坂を経て地球屋を見る」視線でなければならない。つまり、映画の中で描かれてきた「地球屋から見る」視線とは逆になっているのだ。このことは雫が「地球屋の外側から地球屋を見る」視線でこの句を書いたことを意味している。この事実は、地球屋が雫の「ふるさと」であり、かつ雫が地球屋を出ていることを物語っている。第一稿には「まいてのぼる坂の町」という句があったが、エンディング版では「町」が除かれていることに注意して欲しい。雫は「町」を削除することによって多摩丘陵を視野から外しているのだ。

P282 カントリー・ロード
 雫は二番を追加した以外に訳詩を全く変えていない。つまり、それ以上の変更は無用と判断したことになるが、当然意味上の変化を被るはずだ。疑問が生ずるのは次の句だ。
    ひとりぼっち おそれずに 生きようと 夢みてた さみしさ 押し込めて 強い自分を 守っていこ
 セッションの段階で持っていた意味は本論で書いた。しかし、エンディング段階ではどう解釈すべきだろうか。
 まず、この節から雫が訳詩全体を一人称単数で書いたことが判る。追加二番では「僕」とあるからエンディング段階でもそれは変わっていない。とすれば、この訳詩は少なくとも「聖司とともに二人で生きる」視点では書かれていない。しかし、雫はエンディングで聖司と二人生きる誓いを立てていたではないか。なぜ雫は「ひとりぼっちおそれずに生きよう」とし、「さみしさ」を「押し込めて」いこうと書いたのだろう。
 雫は聖司と婚約した。確かにその通りだが、現実には聖司は一〇年間の修業に旅立ってしまう。二人で生きるとは場を共有して生きることではない。「離れていても決して切れない絆を持って生きる」ことなのだ。雫の言う「ひとりぼっち」や「さみしさ」の根源はここにある。しかし、雫は自ら高校に行く決心をし、それを受け入れる覚悟をした。この節はその決意表明と読まなければならない。しかもその辛さを紛らわすために地球屋に行くことは絶対にあってはならない。地球屋どころか日本を離れて生きようとしている聖司と対等な立場を保つためには雫が地球屋に戻る道は閉ざされているのだ。以下の節にそう書かれている。
   カントリーロード  この道 故郷へつづいても 僕は 行かないさ 行けない カントリーロード
   帰りたい 帰れない さよなら カントリーロード
 次に追加の二番。
   歩き疲れ たたずむと 浮かんで来る 故郷の街 丘をまく 坂の道 そんな僕を 叱っている
 「歩き疲れ」という句は比喩と見ても見なくても良い。『奥の細道』このかた、人生を旅に譬えるのが通例だから「人生に疲れ」と読み替えてもいいし、実際に歩いて疲れていても一向にかまわない。しかし、「浮かんで来る」の意味は変わる。前者なら「(心の中に)浮かんで来る」になるが、後者ならもっと直接的に考えていい。前注にも書いたが、この節の視線は「杉の宮方面から地球屋を見る」視線なのだ。だから、現実に地球屋が「あたかも空に浮かぶように」見えていると解釈出来る。雫は常に地球屋が見えている空間で生活している。将来通う杉の宮高校の教室からも見えることだろう。この節は雫が見、かつ感じたことをありのままに書いたまでなのだ。しかし、前者の意味がまるでないわけではない。この節に「僕」という男性一人称があることに注意したい。これによって訳詩全体に聖司の視点がかぶせられることになるからだ。つまり、この訳詩は雫の視点と聖司の視点が巧妙に重ねられているのだ。見事というほかない。そしてこの節がエンディング以前には決して書けないことも明かである。
25.最終章
P283 最終章
 推理小説ならば、この直前に「読者への挑戦」を入れたいところだ。読者はこの段階でこの映画の核心に至る材料を全て手に入れている。僅かな常識と合理的な思考によって論理的な推論を行えば、私と全く同じ結論に到達することが出来る。本論をまだ読み終わっていない方はここで一旦考察を加えてみてはどうだろうか。
P285 どこにも存在しない仮想空間の構築物
 高畑が『耳をすませば』の風景に言及するのはこれが初めてではない。映画の公開直後の1995年9月、「月刊COMIC BOX」に同趣旨の文章が載っている。高畑は当初からこの映画について批判的懐疑的な発言を提示しているのだ。

P286 実際の町並みは無個性的でそれこそどこにでもある日本の新興住宅地に過ぎない
 私の主観に過ぎないと思われても困るので宮崎自身の言葉を挙げておこう。

「『耳をすませば』はですね、これは何か”つなぎ”のような感じがするかもしれないけど、実は、物の見方に関しては革命的に変えたつもりなんです。”この街はきれいにならん”というところから始まろうというね。東京はきたないですからね」(『ロマンアルバム もののけ姫』P.54)。

 宮崎がこういう認識の上でこの映画を作り始めたにもかかわらず、結果的に映像は理想化された風景になっている。問題はそれが意識的になされたのかたまたまそうなっただけなのかだ。絵コンテのC4には既に「店、イバラード的にキラキラと」というコメントが入れてあるから、意識的と見るべきではなかろうか。

P286 アニメーションの描く現実的な風景が実際よりも美しいものになることは高畑も認めている。
 「アニメーションの映像では、冷たく幾何学的な、あるいは悪趣味で猥雑な、あるいは荒涼とした現在の都市や郊外の空間であっても、きわめてリアリスティックでありながら、同時にきわめて官能的で心をそそる魅力的なものとして観客に印象づけることもできる。…。とにかく、描いたものは、(略)ものみな魅力的になりがちであり、さらに映像化によってそれに時間性空間性が与えられれば、実写による映像以上の力で文字どおり人を捉えてしまう。」(「疑問とディレンマ」)

 尚、理想化した風景を描いた実写映画の例として高畑は尾道を描いた「転校生」(監督大林宣彦 1982)を上げている。(追記 大林自身もこの映画は意識的に尾道を理想化・美化した
と述べている。DVDのインタヴューを参照のこと)
P287 「60年代頃の東映動画が日本アニメーションにもたらしたもの」
 この文章に出会う前に私は「貸出カード」の虚構に気づいていた。しかし、この虚構がどの程度一般の鑑賞者に知られているのか判断出来なかった。仮に既知のものになっているならば、さして虚構を重要視する必要がなくなるからだ。逆にほとんど知られていないならば、これは重大な問題になる。
 そんな時にこの高畑の文章を知った。虚構はまだあまり知られていなかった。だからこそ、高畑はこんな書き方をしたに違いない。それまで風景の理想化のみに言及を限定していた彼がここで一歩踏み込んだ発言をした意味は重大だ。文章の間に苛立ちを感じるのは私一人だろうか。本論に「警告」という言葉を入れたのはそのニュアンスを含ませたためである。
 ついでに言っておくと、本論では「貸出カード」と「個人カード」を明確に使い分けた。映画では「図書カード」が用いられているがどちらのカードなのか曖昧になるので地の文では意識的に代えてある。個人カードには自分の借りた本の履歴が載っている。これは当然だ。貸出カードと混同してはならない。
 高畑は引用した文章に続けて

 近未来物・メカ物・歴史物など広い意味でのSFファンタジーも「リアルファンタジー」のなかに入る(『空飛ぶゆうれい船』から『もののけ姫』『人狼』まで)。

と書いている。しかし、これはあくまで補足に過ぎない。『もののけ姫』『人狼』の虚構は誰でも判る。『空飛ぶゆうれい船』もSF冒険ものであって虚構は一目瞭然である。高畑が言う「リアルファンタジー」の典型例(唯一例?)は間違いなく『耳をすませば』である。そうでなければ、高畑はここで『耳をすませば』を出さず、それより後に公開された『もののけ姫』(一九九七)や『人狼』(二〇〇〇)を挙げたはずだからだ。
P288 これは私が抽出した『雫=ルイーゼ』の如きものではない。
 映画の中には現実と微妙に食い違う要素があちこちにある。「京玉線」や架空の町名、駅名、校名のように実際の名前の使用を回避したもの、書名、カレンダーや貸出日数の矛盾など挙げれば幾らでもある。しかし、これらはこの映画の現実性を否定するに値する「設定」と見なすことは出来ない。いずれも映画制作の過程でなんらかの事情が推定出来るものだからだ。事改めてこれらをあげつらって議論を展開すれば、この世に存在する映画のほとんどの現実性を論ずる事が出来なくなってしまう。私にそうした屁理屈を展開する意思はない。

P289 分析が甘くなってしまう
 仮に初めから「虚構」を前提にしてしまったならば、セッションの即興性を否定する議論は相当歯切れが悪くなったに違いない。他の部分についても現実性の追求そのものに支障を来すのは確実だ。本論にも書いたが草稿では冒頭にこのことを述べた。しかし、後がどうしても書けなくなってしまった。この映画を分析する方法として「虚構」を棚上げにすることが絶対に必要な措置だったと考えている。
P290 基本的人権に抵触するような虚構はあまり穏当ではない。
 貸出カード問題は、映画公開当時、既に図書館関係で話題になり、問題視されていたらしい。現場の人たちだから当然だろう。『耳をすませば』に直接言及した文章を見つけたので紹介しよう。

ささやかに・したたかに『耳をすませば』 (吉本 紀)

 映画『耳をすませば』に,学校図書館の利用記録から主人公がある少年に関心を抱くくだりがある。公開当時図書館界でこのまま放置していいのかと話題になり,自由委員会にも問題提起があったので,メンバーが製作会社に図書館界の考えを述べたことがある。
 その際には,公開前であることもあって製作会社の態度が硬く,委員会の考えも理解されたとは言えないままに終わった。
 このような場合,過去の事例では,相手方の理解を前提としたテレビドラマのシナリオの変更などがあるが,私たちの最終目的がこういう対症療法的なものでないことは明らかで,根本的な解決策としては,製作者や視聴者の意識から見て,いかにもこういう場面が不自然と思われるような図書館状況を生み出すことだろう。しかし,だからといってこの映画を見て見ぬふりをして看過することもできない。
 という具合に悩んでいたときに,池袋の,今はなくなってしまった場末の映画館で,キュシロフスキ監督の『トリコロール青の愛』という映画を見た。
 冒頭で疾走する自動車が木立に激突する。その直前にブレーキオイルが漏れているシーンが暗示的に映し出される。車はA社製。
 この映画の最後,ちょっとした経緯があって次のような趣旨の一文が入った。
 「冒頭の激突の原因は,A社に何ら起因するものではない。このようなシーンを寛大に理解したA社に敬意を表する」
 『耳をすませば』に,こういう解決方法を投げかけるのはどうだろうか。物語を傷つけることなく,でも製作者や視聴者にさりげなく訴えることができ,長期的には私たちの主張を浸透させる一助にもなろうから,ささやかだが結構したたかな方法だと私は思ったのだが,親しい友人に言ってみたら,「甘いですね」と一蹴されておしまいだった。確かに,映画の製作者は単に訴訟回避としてそうしたのかもしれず,A杜が太っ腹だったわけでもないことを考えると甘いかもしれない。でも,こういう決め手を欠く問題には短期長期をとり混ぜた複数メニューを試行錯誤する胆汁質も必要と思う。 (よしもと おさむ:国立国会図書館)(「図書館雑誌」Vol.93.No.1、1999.1)

 寄稿者である吉本さんに了解を頂いているので全文を引用した。「市立図書館」を「学校図書館」と錯覚しているが文意に影響はない(このことは吉本さんに確認してある)。コラムということもあって、細かい経緯が判らなかったので直接電話で話を伺った。日本図書館協会の自由委員会に会員からこの映画について問い合わせがあり、委員長がスタジオジブリに赴いて話をしたのは間違いない。どのようなやりとりがあったのか具体的なことは残念ながら判らない。映画公開後に協会で何らかの見解を出したりはしなかったようだ。又、吉本さんの文章にあるような声明がスタジオジブリからなされたこともないと確認出来た。
 本論を書いた時点ではこの文章に出会っていなかったので、映画制作者がこの「虚構」について無自覚だった可能性を否定するのに消極的な根拠しか挙げられなかった。しかし、制作途中で上記の事実があった訳だから、制作者が無自覚だった可能性は全くないと断定出来ることになった。
 貸出カード問題が気づかれにくい理由に学校図書館の事情がある。公立図書館と異なり、学校図書館の場合、個人情報保護が完全ではないからだ。現在でも生徒の貸出記録が残されていることがある。当時ならなおさらだ。これは悪い意味で言っているのではなく教育現場という特殊性のためだ。
 私が所有している書籍には学校図書館で除籍になったものもある。その本には帯出者氏名欄がある。しかし、返却予定日の日付は捺してあるが氏名の記載はない。欄はあっても実際には使われていないのだ。その日付は昭和44(1969)年である。既にこの当時から貸出者の記入は控えられていたことが判る。だが、全ての学校がそうであったとは言い切れない。事実、私の弟が勤めていた高等学校では数年前まで貸出者の記入をしていたそうだ。従って、雫と聖司の最初の出会いの場面は現実に起こりうる可能性がある。だから、本論ではこの場面を虚構と断言出来ないので触れなかった。と同時に制作者が意図的にこの虚構を導入したことも明白になる。もし、この虚構を合理的に回避したければ、聖司と雫に学校図書館を利用させれば済むからだ。裏返せば、雫と聖司は公立図書館の愛用者でなければならなかったのだ
 私は中学時代、学校図書館の愛用者だった。反面、ほとんど公立図書館を利用したことがない。時間に無駄が出るのが最大の理由だ。距離にもよろうがわざわざ時間をかけて別の図書館に行くより学校で済ませる方が楽に決まっている。返却や更新に又行くのも面倒である。それに創立直後の中学校だったにもかかわらず、蔵書は割と充実していたので借りる本に事欠くこともなかった。
 そういう経験があったので、『耳をすませば』の原作を読み、映画を観た時に雫が学校図書館を全く無視していることに少なからず違和感があった。特に原作の場合、中学一年生の設定だから、まずは学校図書館蔵書の読破中の方が絶対自然である。しかし、虚構をあえて導入するのであれば、公立図書館でないと都合が悪いことになる。正直なところ、深読み気味なので本論では言及していない。以上の議論は推論の域を出ない。
 貸出カードを巡る個人情報保護については日本図書館協会のサイト内にある自由委員会の部分を参照のこと。


(追記)
 もう3年前になりますがが、日本図書館協会 図書館の自由委員会の山家篤夫さん宛てに

@ 1994年時点において、東京都内の公立図書館の貸し出しカードに個人名記載がある場合があったかどうか。或いは学校図書館ならばどうであったか。
A スタジオジブリに自由委員会の方が訪れた際、どのような情報が提供され、どのような要請がなされたのか。

の2点に関する照会をしました。2004年6月11日付けでその回答を戴いておりますのでここに掲載することにします。以下にその全文と提供された補足資料の該当箇所を上げておきます。

「拝啓 お問合せいただきありがとうございます。ご返事が遅れてすみません。
日本図書館協会図書館の自由委員会副委員長の山家篤夫です。
次の2点のお問合せをいただきました。

1 1994年時点において、東京都内の公立図書館の貸し出しカードに個人名記載がある場合があったかどうか。或いは学校図書館ならばどうであったか。
2 スタジオジブリに自由委員会の方が訪れた際、どのような情報が提供され、どのような要請がなされたのか。

 スタジオジブリ訪問に至る経過と、訪問時の双方の発言・説明資料については、当協会の機関誌『図書館雑誌』(1995年7月号p.490〜491、8月号p.566)(B)(C)で報告している通りです。
 当委員会が訪問した際、説明資料として『東京の公立図書館白書1969』(A)を用意しました。これは25年前の東京の公立図書館の貸出サービスについての実態を調査したもので、ジブリに説明するにあたって適切な資料と考えたからです。25年前にすでに読書の秘密を守る「図書館の自由」の意義が公立図書館現場に普及し、貸出記録を残さない貸出方式の採用・切り替えが進んでいることを明らかにすることができました。
 ご質問については、1994年当時、図書返却後も氏名を含む貸出記録が第三者の目に入る貸出方式−氏名表記のニューアーク方式−をとっていた公立図書館は、都内にはないはずです、というお答えをしたいと思います。「はずです」というのは、1994年当時の貸出方式の調査がないからです。が、新たにプライバシー侵害の貸出方式と批判された氏名表記のニューアーク方式を採用する図書館が(ママ)ありえません。また、1990年に入る頃には大方の図書館で貸出返却業務は電算化されました。
 都立高校の図書館の貸出方式の調査はありません。ただ、学校図書館では、読書指導や、教員からの教育上の要請により、氏名記入のニューアーク方式が続けられていた可能性は否定できません。
 以上です。関係資料を同封いたします。何かありましたら、ご連絡ください。 敬具
社団法人日本図書館協会 図書館の自由委員会 山家篤夫」


同封の資料コピーのうち、該当箇所を紹介します。

(A)『東京の公立図書館白書1969』p.18・19

B.貸出方式
 貸出しの方式はどういうものが良いかを考えるにあたって一番大切なことは「どうしたら利用者が借りやすいか」という点を明らかにしておくことが必要である。住民の立場にたつことが重要である。
 貸出し方式についてどの方式が良いかについての規準をあげるとつぎのようになる。
 @いつでも、自由に、気軽に借りることができ、さらに安心して借りられる保障、読書の秘密が守られること。
 A利用者と図書館員に手間がかからないこと。事務的に簡単明瞭であること。
 B今後の方式として開架式を前提とすること。
 C予約ができること。
 以上四つの規準にてらして、東京の図書館で行われている貸出し方式と比較しながらみていくとつぎのようになる。
1.ニューアーク式
 日本で一番多く行われているやり方で、ブックカードに請求番号、書名、登録番号が上段に記載されており、下段に貸出しの欄があって、借出し者、借出し日、返却予定日、返却日が記入出来るようになっている。借出し者名に登録番号をあてているところもある。(中略)
 都内の図書館でこの方式を用いているのは9館。品川・豊島・立石・松江・小松川・篠崎・三鷹・小金井。(知足庵 カード式は29館)
 読書の秘密を守る点については記録が残るため適切ではない。(下略)

(B)図書館雑誌 1995.7. p.490・491

アニメ映画『耳をすませば』で自由委 制作者と意見交換の予定

 5月24日理事懇談会で、『平成狸合戦ぽんぽこ』『魔女の宅急便』などのアニメ映画を作ってきた「スタジオジブリ」が今年の夏休みに公開を予定している『耳をすませば』の内容に、読書の秘密を守る図書館の姿勢と役割について、観客とくに子どもたちに謝った認識を与える部分があり、協会としての対応を求めるとの発言があった。
 『耳をすませば』の原作は、1989年に『りぼん』に連載された柊あおい著の少女マンガ。中学1年の月島雫はファンタジーが大好きで、学校図書館と父が司書をする県立図書館を使いこなしている。ある日、自分が借りた本の貸出カードに必ず記されている男の子の名前に気づくという導入で、雫がその男の子のイメージを広げていく作品前半のポイントごとに、貸出日・氏名・返却予定日が記入された県立と学校図書館の貸出カードが配されている。10ページの特集で同作品を紹介しているアニメ情報誌『アニメージュ』今年3月号によると、アニメ化にあたって、県立を市立にするなどのほか、展開に変更は見受けられない。
 図書館の自由に関する調査委員会・関東地区小委員会は、今年1月の新聞記事で同作品のアニメ化を知ったが、登録情報などプライバシーに係わるストーリーではないこと、時・場所・実在の図書館を特定していないことから、制作者との接触、働きかけは見送ってきた。しかし、「この夏休み、多くの少年少女が氏名の書かれた貸出カードのイメージを鮮明に受け取ることになる。なんらかの対応を」という理事懇談会の意向を受け、@まず制作者に私たちの問題意識を共有してもらうA映画化の作業がほぼ終了しているにしても、ビデオ化に当たって善後策をともに見つけ出す方向をめざすことを、25日評議員会後の自由委員会・全国委員会で確認した。翌日、委員がスタジオジブリを訪問し、後日、7月に入ってからの面会を約する連絡をいただいた。制作は現在、音声を入れている段階とのことで、制作者の意向としては、出来上がった作品について意見を聞き、話し合いたいものと察せられる。
 私たちには、制作者の表現の自由を尊重し、図書館への理解を得ていく努力が求められている。会員のみなさんのご意見・ご助言をいただければありがたい。(山家篤夫:図書館の自由に関する調査委員会・関東地区小委員会)

(C)図書館雑誌1995.8.

自由委員会『耳をすませば』制作のスタジオジブリを訪問し、意見を交換

 7月31日、図書館の自由に関する調査委員会・関東地区小委員会の山家委員長、小川委員、西河内委員がアニメ映画『耳をすませば』を制作した小金井市のスタジオジブリを訪問し、同作品のプロデューサーで取締役制作部長の鈴木敏夫氏、法務・著作権・海外・広務担当の野中晋輔氏と意見交換した(これまでの経緯は前号の本欄参照)。
 まず委員会から、訪問の趣旨と図書館の自由に関する宣言と利用者の秘密を守る項を設けた経緯を説明し、1960年代半ばから、資料提供を基本とする図書館づくりを進める中で、公立図書館はブラウン式をはじめ利用記録が残らない貸出方式を取り入れていったこと。また、例えば東京では1967年末時点で、公立図書館60館中、作品にでてくるニューアーク式を採用しているのは9館だけで、それも大方が利用者の氏名から登録番号を書く方式に移行していたこと(『東京の公立図書館白書1969』)などを、旧日比谷図書館の実物を見てもらいながら説明した。
 意見交換は約1時間で、主に鈴木氏が次のような趣旨の話をされた。
・図書館がプライバシーを配慮し貸出方式を変更してきた具体的経緯を初めて知った。
・一方、私の年代の者に共通すると思うが、図書館から本を借りるときに名前を書いた記憶が確かにある。学校図書館もそうだった。今も出版社の資料室から本を借りるときには名前を書く。
・ただ、公共図書館では、原作に描かれているような貸出方式は現在はやられていないという認識があったので、アニメ作品では言い訳として、主人公とその父親の次のような会話を入れた。
父「わが館もついにバーコード化するんだよ。準備に大騒ぎさ。」
しずく「やっぱり変えちゃうの。わたしカードの方が好き。」
父「ぼくもそうだけどね。」
・作品では東京多摩地区が舞台であることが分かるようになっているが、その図書館も電算化でカードがなくなるということをほのめかしたものだ。
・私としては、若い人が内にこもっていったり、アメリカのように心理療法を要する人が増えたりする傾向が、プライバシー保護が強調されるなかで生まれていると思う。原作者との関係や協同制作を窮屈にしている著作権保護の強化と根を同じにする問題だと思う。
・確かにこの夏、名前が書かれた貸出カードが多くの子どもたちの記憶に鮮明に残るだろう。
・ビデオの発売は来年1月、テレビ放映は来年10月になるだろう。ビデオは10万本くらいで、大部分がレンタル業者にいく。図書館の貸出用には出していない。
 終わりに委員から、7月15日の一般公開後に寄せられてくるだろう声をもちより、意見交換を続けていきたいと要望し、鈴木氏も了解された。(山家篤夫:図書館の自由に関する調査委員会・関東地区小委員会)
 補足すると、映画公開後に行うとされた意見交換は立ち消えになったらしい。また、現在に至るまでスタジオジブリ或いは徳間書店が貸出カードに関する意見なり文書なりを出したことはない。(2007/4/5)
P290 他のジブリ作品に見られる『虚構の明白さ』
 説明するまでもないと思うが、宮崎アニメにおける虚構の扱いは『耳をすませば』を除いて、きわめて明快である。その性格は三点にまとめられる。(1)誰が見ても虚構だと明瞭に判る。(2)映画の冒頭あたりで提示される。(3)時代を過去か未来に取る。
 『もののけ姫』ならば(1)(2)は「たたり神」で、(3)は「室町時代」で示される。例外は『となりのトトロ』で、(2)が明瞭ではない。ススワタリの登場はやや遅い。又、(3)が未来に設定された場合、世界そのものが虚構になるので、他の要素は不明瞭でも差し支えない(『未来少年コナン』)。面白いことに、宮崎アニメの中でも現実性に富んだ『紅の豚』は(1)(2)が「豚になった人間」で、(3)が「八〇年前のアドリア海」で示されており、虚構が明白なのだ。『耳をすませば』においては(2)は満たすが、他は満たしていない。実際上、虚構が観客に意識されないので(2)も十分に満たしているとは言えない。
 高畑アニメにおける虚構の扱いは宮崎とはまったく異なるがここでは関係がないので触れない。

P290 虚構の扱いも虚構の性質も完全に異質なものである
 虚構の性質や分類が映画研究の分野でどの程度進んでいるのか私は知らない。意外と意識されていない場合もある。特にアメリカ製の歴史映画などは歴史事実を平気で曲げてしまうので非常に危険である。近作では「グラディエイター」がひどかった。というか、アメリカ映画は帝政ローマを敵視することで一環しているから当然かもしれない。昔からローマの描き方はひどい。古いところでは、「スパルタカス」の中でカエサルが元老院議員として登場する時代錯誤があった。そうした傾向はアニメの「ポカホンタス」にもある。アメリカ・インディアンの歴史を黙殺しなければ、こんな厚顔無恥な映画は作れまい。この作品以来、私は「子供に夢を与えるディズニー」を信用していない。アニメの観客は大多数が子供達だから、知らない内に特定の価値観を刷り込まれる危険性が非常に高いのだ。
 私は虚構の扱いにもなんらかの倫理があるべきだと思う。虚構を不用意に使用することは社会全体に虚構を事実だと錯覚させる危険があるのだ。特に現実性の高い映画では注意がいる。映画制作者がこの点について自覚を欠くことは許されないだろう。
 宮崎アニメの虚構が冒頭で明白に設定されている理由はここにある。描かれる世界がいかに現実性が高くても、映画全体の非現実性は最初から保障されているからだ。例えば、『もののけ姫』の全体的な非現実性は冒頭の「タタリ神」のおかげで映画の「大前提」になる。一四世紀に石火矢を持ち出すような虚構は多くの人に理解出来るだろうが、たとえ虚構と判らなくても『もののけ姫』を信じて、「この時代に火力兵器があった」と確信する人もいないだろう。それでも「蝦夷」の扱いは一種微妙な危うさがある。
 『もののけ姫』公開当時、中世史研究家に意見を求める記事が多かったが、ほとんどの人は明確な発言を避けていた。これは適切な判断なのだ。この映画の現実性はあくまで映画の中にのみ存在するからだ。歴史的事実との一致不一致は映画そのものの価値とは重ならない。しかし、全ての人にそれを期待することは出来ない。
 『耳をすませば』の虚構の扱いはアメリカ版歴史映画と同様の危険をはらんでいる。「貸出カードに借りた人の名前が書かれている」などという誤った情報が流されるのは好ましくない。普段図書館を利用している人でも、今では電磁カード化しているから、昔はそうだったかと錯覚することは大いにあり得る(事実、『絵コンテ全集10』の月報を書いているおかだえみこは貸出カードに個人の名前が書いてあると信じ切っている)。この映画の虚構を無意識に信じてしまうと、現在の電磁カード情報の扱いに無用の誤解を与えることにもなりかねないのだ。断っておくと、このことについては一九八四年に日本図書館協会が「貸出記録は、資料が返却されたらできるだけすみやかに消去しなければならない。」(『貸出業務へのコンピュータ導入に伴う個人情報の保護に関する基準』)と決議している。現在ならば、おそらく返却当日には消去されているだろう。
 映画公開から既に八年が経過したが、私が知る限り、この虚構について言及した文章は本論で紹介した高畑のものだけである(この注を書いた時点で私はまだ吉本さんの文章を知らなかった。今ではいくつかの資料を入手している)。高畑はジブリ内部の人間だからこれ以上はっきりとした文章に出来なかったのだろう。しかし、他の人は本当に気づいていないのだろうか。映画評論に詳しくないので何とも突き止めようがない。
 虚構を指摘し、それを訴えるだけならば、私はこの最終章を書かなかっただろう。それに宮崎ともあろう者がこんな虚構を不用意に用いるとは考えられなかった。「何故こんな危険な虚構を持ち込んだのか?」と考えつつ分析を進めた結論が本論である。
 こう考えを進めてくると、貸出カードに記された貸出期間がほとんどでたらめに近いものだったことに思い当たる。貸出カードに書かれている人物名は全て原作から転用されているのだから、貸出期間の方も原作通り一週間に統一する方が自然なのだ。それをあえて崩した理由は『この貸出カードが現実にはあり得ないものである』ことを間接的に観客に知らせるためだと考えられるのだ。つまりこれは制作者が埋め込んだ手がかりの一つなのではなかろうか。

P290 制作者が虚構に関して無自覚な場合
 そもそもこういう事態が想定出来ることがこの虚構が通常の虚構とは異なっていることを示している。虚構とは制作者が意図的に導入するものを指す。だから、この場合は制作者が認識している時にのみ虚構として扱うことが出来る。単なる誤解で混入したものは虚構とは言わない。錯誤と言う。

P290 故意犯
 最初にこの部分を書いている時、「確信犯」としてしまった。我ながら恥ずかしくなるような錯覚なのだが、よくよく考えてみるとこれは一般的に混同が生じている気がしてきた。念のためここで確認しておく。以下、「犯罪」という言葉を使うがもちろん説明の便宜的措置であって実際の犯罪とは無関係である。事は倫理の問題であるに過ぎない。
 刑法概論でも読めば明らかだが、犯罪の構成要件には「行為」と「認識」の二つが関わってくる。本論の議論では制作者の「行為」が存在することは明白なので焦点は「制作者の認識の有無」のみになる。本論の(1)の場合、制作者は自らの行為が犯罪を構成するとは認識していないので、厳密には構成要件を満たさず犯罪が成立しない。しかし、その行為の意味を確実に認識しうる状況にあるにもかかわらず、その努力をしなかった場合、「過失」を認めることが出来る。例えば、『配送業者がトラックの積荷を充分固定したと思っていたのに実際は不十分で積荷の倒壊による死亡事故が発生した』などがこれに当たり、『業務上過失致死罪』が成立する。この映画の場合、制作者は図書館員などの立場にあったのではないから「行為の意味を確実に知りうる状況」は想定出来ない。従って、これは単なる「事実誤認」であって犯罪ではない。
 では(2)ならどうか。この場合、制作者は自分の「行為」については「認識」している。犯罪そのものはここで成立している。そこで問題は『その「行為」が犯罪を構成する「認識」があったかどうか』に移る。私には映画制作という公共性の高い業務に携わる者が、この「行為」を知っていたにもかかわらず、その意味を「認識」出来ずにいた状況を想定することが出来ない。つまり、犯罪構成要件の「認識」を完全に満たす。これを「故意」という。だから(2)の場合は「故意犯」を構成する。錯覚していた私が言うのも変だが、これを「確信犯」と考えてしまうことが多いので注意してもらいたい。
 では、「確信犯」とは何か。これは自らの「思想・心情・信仰」などによって自らの「行為」が犯罪を構成することを「認識」する意志がない場合に使われる。行為者本人にとっては犯罪ではないのである。あくまで社会の側で犯罪を構成するのみである。例えば、ムスリムが路上で礼拝を行うのは純粋に宗教的な行為だが、日本で行えば、「道路交通法」違反を構成してしまう、といった場合だ。つまり、犯罪構成要件を満たしていながら、行為者には決して犯罪とは認識出来ない場合が「確信犯」なのだ。もちろん、反社会的行為であれば犯罪を構成するから刑に処すことは出来るが、「認識」の部分をどう判断するかが大きな問題になる。日本でよく見られるような『罪の反省を求める』のはお門違いである。本人にとって罪ではない行為に「反省」など出来るはずがない。逆にサリン事件の被告人達のようにすぐ「反省」されては、そんな脆弱な「思想・心情・信仰」で殺された人々は浮かばれまい。しかし、犯罪構成要件としては「反省」してくれないことには「認識」の部分が問えなくなってしまうという奇妙なことになる。刑法理論でも議論があるところである。何はともあれ、この映画の制作者が「確信犯」に該当しないことはご理解頂けよう。
 誤解がないように付け加えておくが、「確信犯」の構成要件はかなり狭い。自分がそう思えば即成立するなどと考えてはいけない。例えば、『私は覚醒剤の使用が妥当だと思うから売っても構わない』などは「確信犯」ではない。これは単に社会性の欠如を示すに過ぎない。そう思っているだけなら問題ない(あくまで刑法上での話、社会的には問題あり)が、実行に移すならば、知らないこと自体が犯罪の一部を構成すると考えて良い。
 (3)の場合は刑法を参考に出来ない。これは刑法的な考え方を止揚する方法だからだ。現実の刑法を止揚することは不可能だから次元が違う。
 刑法概論の本は各種あるので入手は容易である。

P291 私は制作者の誠実さを信じているのでこのケースは除外したい。
 この場合を完全に除外する論拠は残念ながら提出出来ない。私は第三のケースを立証することで間接的にこの場合を否定した。それで充分だと思っている。
 宮崎にしろ高畑にしろ自らの社会的責任を十分に理解して制作活動を行っている人達だ。その責任を単に制作の都合でねじ曲げるなど到底考えられなかった。この映画に関して宮崎が企画立案を行った際、高畑が貸出カード問題に気が付かなかったとは思えないし、宮崎が高畑の視線を意識しなかったとも考えられない。高畑がこの映画に関して常に世評に逆らった意見を述べていながら直接的に貸出カードに言及しないのも宮崎の意図を了解しているからではないかと推測出来るのだ。そうした状況が明らかだったので、私は他の現場はともかく「スタジオジブリにおいて」は制作者の誠実さを信ずることが出来たのだ。しかし、このことをうまく文章化するのは難しい。私はこのケースの可能性を指摘するだけで逃げることにした。


(追加)『ベルヴィル・ランデブー』(ジブリ CINEMAライブラリー)の中にシルヴァン・ショメと高畑の対談が収録されている。その後半はもっぱらジョセフィン・ベイカー(Josephine Baker 1906-1975)の扱いが話題になっており、ショメが「彼女へのオマージュ」だと説明するのに対して、高畑は彼女が果たしたフランスへの貢献(特に大戦中のレジスタンス運動)を彼女を知らない世代に提供するやり方としては配慮が足らないのではないかと疑問を投げかけていた。この種の対談は大抵、「作者のお話を伺う」体のものが多いが、高畑は作者に対してはっきりと意見を述べており、両者のやりとりはかなり緊迫している。このように映画と社会の関係について高畑は決して妥協しようとしていない。更には『ハウル』を批判すると見られる言葉まで出てくる。この高畑が『耳をすませば』を簡単に認めるとは思えない。
P291 二重の仕掛けを施した
 私は「まえがき」でこの映画を「徹底して現実的に解釈する」と宣言した。映画全体の虚構性が明らかになったこの時点でも私はその姿勢を崩す気は毛頭なかった。そうでないと「まえがき」の言葉が嘘になってしまう。
 この作品が「ファンタジー」であることを制作者は主張出来ない。見えにくい「虚構」とはこの映画を一見現実の物語と思わせることだ。だから、観る者が「虚構」に気づいて『この作品はファンタジーではないか?』と疑ったとしても曖昧さが増すだけだ。従って、制作者はこの「虚構」が見いだされたあとでもこの作品が「現実的」であることを主張する他ないのだ。自らをそういう立場にあえて追い込んでいると言ってもいい。
 制作者が巧妙なところは、たとえ観客が「虚構」に気づいたとしてもそれだけでは何にもならないことだ。制作者は何ら応答する必要がない。この映画は「虚構」に気づいてからが勝負だからだ。多くの図書館関係者が虚構に気づいた。制作者は当然それくらいは覚悟している。この映画はそれを乗り越えようという実験なのだ。

 本論とは関わらないがここで一つの問題が発生する。「貸出カード」の虚構は『原作を踏襲している』事実だ。映画はこの「虚構」に一つの解答を与えているが、『原作者はこの「虚構」をどう考えているのか』までは判らない。つまり、『柊は虚構を知っていたか』が問題になる。これについては「劇場パンフレット」所収の近藤・柊の対談に重要な発言がある。

 柊 「ええ。ですから描きはじめた時は長く続けるつもりで、いろいろ伏線をはってたんですが、途中で終わりにしなくてはならなくなって、描いた伏線をとにかく整理して終わらせるのにとても苦労しました。」

 この「虚構」が柊のいう「伏線」の一つである可能性は高い。原作では結局未使用で終わってしまったが、何らかの形で解決を与える予定だったのではないだろうか。

 柊 「…宮崎さんの絵コンテを読ませて頂いた時、私の中で未消化で終わっていた部分私が原作で書きたいと思っていたことがほとんど入っていて、やっとこの作品がきちんとした形で結末を迎えることができたという気がして、とても嬉しかったです。」

 柊→宮崎と「虚構」が受け継がれたと推測することは十分可能である。
 このことを念頭に置いて原作を見てみると最後のページが気になる。雫の部屋に聖司が描いた絵が飾ってあり、机の上に帽子を手に挨拶している男爵と「耳をすませば」と題名がある綴じた原稿が置いてある。原作の西老人の話では男爵は地球屋にいなければならないはずだ。では、この男爵は何か?私には原作は「雫が書いた劇中劇である」可能性を拭いきれないのである。原作の場合、映画と違って西老人は無関係である。杉村の告白も雫にとって映画ほど衝撃的な出来事ではない。もう一つ、「男爵の見た夢」の可能性もあるが空想的すぎて積極的に主張出来ない。
 柊には「この街で君に」という漫画がある。この作品は男女の出会いの物語なのだが、前半は男性の視点で描き、後半は女性の視点で描く手法を使っている。視点の変更によって新たな物語が生まれる方法を柊が知っている証拠である。この作品は2000〜01年に発表されている。柊は映画『耳をすませば』からこの手法を学び、応用したのではなかろうか。

P292 発表当時の批評もほぼこの線に沿ってなされている
「単なる甘いラブストーリーになっていないのは、日常の描写が実にしっかりしているからだ。コンビニも、電信柱も、都市生活の隅々が描き込まれ、…」(95.7.29毎日新聞)
「未来でも過去でもない、コンビニの似合うごく普通の日本を舞台にした中学生の純愛物語を作り上げた。」(01.8 「宮崎駿の<世界>」切通理作)
 現実感溢れる描写に目を奪われると虚構に意識が行かなくなる。あるいは、虚構に気が付いてもそれを重大視する意識が薄れてしまう。制作者が意図したこととはいえ、映画評論家と称する人たちがその罠に簡単にひっかかってしまうのは少々問題である。『耳をすませば』の世界は決して切通が言うような「ごく普通の日本」ではないのだ。
 「物語には独自の構造があり、この構造が物語内部の現実を生む出す。…。どれほど特異なものであるかによって、物語内部の現実は外部の事実とずれることになる。…。あたりまえのことをわざわざ記しているのは、『新世紀エヴァンゲリオン』においては、未来の世界でありながらも日常生活が現代とかわらぬものになっているため、物語内部の現実と外部の現実を混同する恐れがあるからだ。ずれを把握しておかなくては読みそこなうことになる。」(『エヴァンゲリオンの夢』) この言葉は少し変えれば『耳をすませば』にも通用する。むしろ、99%が同時代なのだから、より一層注意が必要かもしれない。
 仮に『耳をすませば』に言及した人たちが「虚構」を知っていたにもかかわらず触れるのを避けていたとしたら、あるいは触れる必要がないと考えていたとすれば、評論家として失格であろう。私は彼らが「虚構」に気づいていないのだと考えている。

P292 制作者は虚構について何ら気を遣う必要がない。
 実際のところ、こうした扱いで図書館関係者の納得が得られるのかどうかは判らない。しかし、私は映画制作上の措置として妥当なものだと考えている。虚構について公表せずに済ます手だてとしては充分だろう。
P293 『おもひでぽろぽろ』が最も近い
 『おもひでぽろぽろ』の場合、原作と映画の間にはメタ構造がある。映画自体は時間のずれが明白だし、エンディングで両者が交錯するからメタ構造としては不完全である。

P294 もう一つ大きなメタレベルの物語に組み込む
 文学ではメタレベルを利用した作品が多く作られている。最近では竹本健二の「ウロボロスの偽書」などがある。文学では大体、その複雑な構造が作品の中で解明される。映画でも今敏が監督した「パーフェクト・ブルー」「千年女優」はメタレベルを最大の趣向にしている。ところが『耳をすませば』では、見える趣向としてメタレベルを使ってはいない。だから、映画の中でそれが明らかにされることもない。これは希有の例といえよう。この映画の趣向は鈴木光司の「リング」「らせん」と「バースデイ」の関係に近い気がする。

P297 雫には西老人の半生を知り得ない
 映画の中で西老人は雫に自分の半生を語っているから、これは変だと思われるかもしれない。しかし、それは錯覚なのだ。西老人が半生を語った理由は「雫が物語を書いた」からだ。しかし、映画自体を雫が創作したと考えると、雫はまだ西老人に映画を見せる前に既に西老人の半生を知っていたことになる。そうした可能性がないことは明かである。これは聖司の場合でも同様である。
 仮に条件を緩めて西老人の内面について雫が創作することを許せばどうなるだろう。確かに雫を小作者にする可能性は残る。しかし、同時にほとんど全ての登場人物を候補から除外することが出来なくなってしまう。『耳をすませば』に描かれた世界が上位のレベルの世界と無関係ならば、小作者の存在を仮定することそのものを否定することになる。そういう事態を回避するために私はゆっくり一つ一つ論理を積み重ねてきたのだ。私は単なる思いつきだけで小作者の存在を仮定したわけではない。
P298 二人の内のどちらかが小作者の場合、お互いが必ず存在する
 厳密に述べれば、雫が実在して、西老人か聖司が一方を創作した場合も考えることが出来る。しかし、その可能性がないことは説明するまでもあるまい。そうは言ってもこれは注だから一応理由を書いておこう。
(1)聖司が小作者の場合…この場合は聖司に「虚構」を設定する動機が存在しない。
(2)西老人が小作者の場合…(a)雫について知り得ない情報が多すぎる。特に家族会議は絶対に創作不可能だ。(b)西老人と雫だけの場面が多すぎる。小作者を仮定した場合、こうした状況を作るのは不自然なのだ。(c)「雫=ルイーゼ」が成就しているのだから聖司を創作する積極的動機が存在しない。(d)聖司の描写があまりに少ない。
P299 それ以外は何らかの形で知ることが出来る。
 雫との関わりを除くと聖司の個人的な情報は意外と少ない。基本的に「物語好きである」「ヴァイオリン作りになりたい」「イタリアに留学したい」の三点のみと言って良い。私は『聖司』の章で彼について考察したが、雫に関わる部分を除くと、「時計が聖司に職人志望を決意させた」以外に付け加えていない。どれも西老人がよく知っている情報ばかりなのだ。
 もう一つ加えておきたい。「蔵書印」のことだ。小作者候補三人のうち、雫の場合は「蔵書印」も創作の一部として処理出来る。聖司の場合は「蔵書印」が実在する。しかし、彼がこの存在を知っていないことは確実だ。聖司が小作者ではない理由がここにもある。これに対して、西老人はこの本が中学校に寄贈されたことを知りうる立場にある。そして娘婿の航一が捺した「蔵書印」についても知りうる立場にあるのだ。自分の娘の嫁ぎ先の事情が判らないはずがない。

P299 中学生がPHSを持っていない。
 このことについては何名かの方からご指摘をいただいた。一九九四年はポケベルの時代である。本文を訂正します。

 先行書でも、この映画の中学生が一九九四年としては古いことは指摘されている。しかし、ただそれを指摘するだけなら大した価値はない。私はこれが重要な意味を持つと知ったので本論の中で早めに指摘しておいたのだ。いわば、伏線を張ったわけだ。
 本論では先行書には触れない方針だったので書かなかったが、P1の注で紹介した井坂の著作にはファミコンゲームによってドワーフは子供なら誰でも知っていると指摘されている。ドワーフが出てくるゲームが何なのか私は知らないが(「ドラゴン・クエスト」でしょうか?)、彼の指摘通りならば、この映画の設定の古くささのもう一つの証拠になる。
 本論ではこの後、「混合名票」について書いた。「PHS」(ポケベル)と「混合名票」は性格が異なる。前者は中学生の生態に関することだが、後者は学校の制度に関することだからだ。私は高校に勤めているからこの違いは明瞭だ。学校の制度を知っている(西老人の比ではない)からといって高校生の生態が何でも判るはずがない。PHS(ポケベル)を知らない西老人が「混合名票」や「保健室の空調」を知っていても不思議はないのだ。
 付け加えると、現在の公立学校で屋上が生徒に自由に開放されている場合はきわめて希である(通路などで利用している場合は別)。特に向原中学校の構造から見て、屋上を開放する積極的な理由は考えつかない。又、生徒が保健室で食事をすることもあり得ない。私の職場の保健室には「保健室で飲食をしないこと」と張り紙がしてある。こうした状況は『この映画の作者が中学校の実情に詳しくない』ことを明白に示している。ここにも雫や聖司が小作者ではない理由がある。ただし、これは小作者を仮定しなくてもそうだから、あくまで傍証である。
P300 西老人は雫に工房から届いた手紙すら見せていない。
 おとぎ話の表の中に「聖司は自分の原石を持って帰国した」と書いておいた。その時は全く言及しなかったので不審に思われた方もいたかもしれないが、実はその理由はこのあたりの事情と関わっている。
 聖司が帰国予定日を変更したことは当然西老人や航一に伝えられていたはずだ。これは聖司の感情ではなく義務の問題である。突然の変更で手紙では間に合わなくても電話は出来る。国際電話に不慣れなら工房に連絡してもらってもいい。
 西老人は雫とうどんを食べている間に聖司が地球屋に向かいつつあるのを知っていたのだ。それを承知しているからこそ、西老人は何ら支障なく雫に聖司の原石を渡すことが出来たのだ。
 この指摘について、雫がベランダから地球屋に入り、うどんを作ったり食べたり、西老人の話を聞いたりする合間の時間があるので気になる人もいると思う。西老人がそこで話している可能性があるからだ。しかし、翌日の雫の様子を見る限り、聖司が帰国しているとは思いも寄らなかった事は明らかだ。聖司の帰国が一日早まったことを西老人が雫に話していないのは確実だ。それ以外のことは話したがこれだけは話さなかったと考えるのはそれこそ不自然だろう。

P300 およそあり得ない事態が現にある
 『該当箇所でこのことに触れなかったのはおかしい』という批判が出るかなとちょっぴり心配した。しかし、フェアプレイの原則はあくまで読者に『事実』を隠さないことにある。私は二人が連絡を取り合っていないことは本文の中でも隠していない。聖司が一日早く帰国したことを雫が知らなかったことも書いてある。ちゃんと原則は守ったつもりだ。 本論は推理小説ではないから別にフェアプレイが要求されているわけではない。しかし、書いている私は半分以上、推理小説気分だったのでフェアプレイを心がけていた。時計と地球屋の関係にしろ、『雫=ルイーゼ』にしろ、手がかりは一切隠さなかった。
 二人の連絡のなさは翻って聖司、雫が小作者ではないことの証拠にもなる。これは想像してもらえばすぐ理解出来るだろう。なるほど、雫は聖司に手紙を出すことを躊躇するかもしれないが聖司の方にそんな理由はありはしない。

P301 映画『耳をすませば』の小作者は西老人である。
 「この映画には小作者がいるのではないか?」という仮説を立てた時、小作者が西老人であろうことは直感的に気が付いていた。既に映画全体の分析を終えていた私には他の可能性は考えられなかった。もちろん、それはただの「勘」だから説得力のある論理展開をしなければならない。結論が結論だけにことを急いでは失敗する。随分気を遣ったのだがうまくいっただろうか?

P302 一旦西老人の視点で構成され、その上で雫の視点に置き換えられている。
 雫の劇中劇で明らかなように、メタ構造の基本は「主人公が自分を主人公にした物語を創作する」点にある。従って、映画『耳をすませば』の原型は「西老人が西老人を主人公にした物語」なのだ。そうして構成された物語を転倒して雫を主人公に仕立て直したのがこの映画である。

P302 この場面を構成出来るのは大作者を除いては西老人以外いないのだ。
 カメラの視線は基本的に大作者の視線である。しかし、時として登場人物の視線と重なることもある。雫と聖司の出会いの場面がその例だ。聖司は一貫して雫の視線で捉えられている。雫の視線と大作者の視線とが重ねられている。

 
この映画のカメラは執拗に雫の視点に執着している。だから、観客の視点が雫から離れることがない。例えば、汐と朝子の引っ越し相談は本来雫の視点が介入する余地はないはずだが、その前に家族と絶縁状態の雫を描き、この後にすぐ家族会議が置かれているので、家族会議の序幕以外の意味は排除されている。つまり、雫は登場しないが、観客の意識は雫から離れないのだ。それにこの場面は雫が後に知りうる内容ばかりだからそう見ても全く不自然さがない。
 
そのような構成を追求しているからこそ西老人の夢の場面が異様に突出してくる。この場面だけが雫の介入する余地がない。これは制作者が手がかりを提出しているのだ。
 雫は西老人から彼の半生を聞いているから夢の場面を構成出来るのではないかと考えた人もいるだろう。しかし、それは無理なのだ。なぜなら、西老人は雫にルイーゼの名前を教えていないからだ。雫が彼女の名前を知ることは不可能である。
 断っておくと、この説明は大作者の立場で書いている。小作者の立場ではない。

 映画制作に際して視線がどれ程意識されているのか私は知らない。もっと映画関係の論考を調べなければと痛感する。今のところ、宮崎アニメを実際に調査することしか出来ない。注目しなければならないのは、登場人物の内面をどこまで表現しているかだ。これである程度は知ることが出来る。

(1)『未来少年コナン』 … コナン、ラナ、モンスリー
 コナンの場合はあちこちに内心の言葉があるので問題ない。ラナも同様。特に水中のコナンに息を送る場面が典型。モンスリーには少女時代の回想場面がある。ダイスの場合、常に言葉になっているので内面描写には該当しない。
(2)『名探偵ホームズ』 … なし
 確認した限りではすべて言葉になっている。回想場面も語っている内容の説明である。
(3)『カリオストロの城』 … なし
 ルパン一人の時も常に言葉に出している。
(4)『風の谷のナウシカ』 … ナウシカ
 幼年時代の回想場面。
(5)『天空の城ラピュタ』 … パズー、シータ
 パズーは竜の巣に突入した時に父親の姿を見る。シータは祖母から呪文を教わる回想場面。
(6)『となりのトトロ』 … なし
(7)『魔女の宅急便』 … なし
(8)『紅の豚』 … ジーナ、フィオ
 ジーナは少女時代の飛行を回想する。フィオは人間の顔に戻ったポルコを見る。
(9)『耳をすませば』 … 雫、西老人
(10)『もののけ姫』 … アシタカ
 夢の中でシシ神に癒される。
(11)『千と千尋の神隠し』 … 千尋
 夢の場面と幼年時代の記憶。
(12)『ハウルの動く城』 … ソフィー
怪鳥と化したハウルとの夢(ほぼ間違いない)の場面

 さてこれらに何か意味があるものか?

P302 西老人が特権的な立場にあることが伺われる
 多角的な視点による考察がどういう結果を導き出すかは考察してみなくては判らない。無駄を覚悟で情報を集めなければ仕方がないのだ。それを惜しんでいては何も得る事が出来ない。試行錯誤あるのみである。この映画の場合、重要な視点の可能性がある人物の数は限られているから考察するのは当然ともいえる。
 西老人の視点は映画の構造の根幹に関わる結果を導き出す。この映画の主人公が雫であることを否定してしまうからだ。その意味は全体の考察後にしか解明出来ない。「最終章」はまさにこの事実に端を発しているのだ。このことを了解して欲しい。

P303 地球屋の二階の調度品はルイーゼの趣味を反映している。
 地球屋の調度類はあまり一般家庭に置けそうもない物が多い。想像に過ぎないが、西老人とルイーゼの出会いはこうした調度類を扱っている骨董屋だったのではなかろうか。

P304 西老人が地球屋のバルコニーから風景を眺めるカット
 今の時点で考えてみると、このカットは実に意味深い。この映画の最初の登場人物は雫ではなく西老人だったのだ。しかも西老人は「向原団地」へ視線を向けている。映画の表面的な展開に留まる限り、これは不可解としか言いようがない。聖司ならいざ知らず、西老人には向原団地に特別な意味などあり得ないからだ。この連続した二カットは「西老人は雫を知っている」ことを暗示している。制作者はここにもこっそりと手がかりを残していたのだ。

P305 雫に再び出番が回ってきたのは九月五日だった。
 この日、航一が三者面談のために学校を訪問したことを当然西老人は知っている。雫と聖司のすれ違い場面を構想するのに支障はない。尚、八月二一日の聖司と雫の出会いの場面についても聖司がこの日中学校へ登校することを西老人が知っていたとしても不思議はない。「カレンダー」で述べたように二一日と二二日の連続に強い必然性はない。西老人としては時計の完成日に近い聖司の登校日でありさえすればよかったのだ。
 注が分散して判りづらいので、西老人の創作過程において必要とする情報をここでまとめておく。

(1)「蔵書印」と寄贈書…航一の基本情報に含まれるので西老人が知っていて不思議はない。
(2)八月二一日の聖司の登校…時計完成に近い日ならば支障がない。聖司は始終地球屋に出入りしているはずだから西老人が聖司の登校日を知っていても不思議はない。
(3)聖司の進路希望…西老人の協力なしに実現するはずがない。
(4)中学校の状況…概略は航一を通じて知りうる。中学生の実態にうといのはやむを得ない。
(5)九月五日の航一の動向…聖司の進路に関わる問題だから西老人も当事者である。この日、航一が中学校へ行くことを知らないはずがない。
(6)聖司の出発と帰国…帰国が一日早まったことも含めて、知らないと考える方が無理である。
(7)貸出カード…海外留学まで経験した知識人である彼が知らないはずがない。

P305 雫と聖司は孤独な中で努力と苦労をしなければならない
 二人が連絡を取り合おうとしないにもかかわらず、雫は聖司の修業期間が一〇年であることや聖司の帰国予定日が一一月一二日であることを知っていた(これだけは図書館のひと時の後で聖司が教えた可能性も残る)。西老人が小作者ならば、雫にこうした基本情報を提供するのは造作もない。一方で聖司の出発日のように雫にとって最も大事な情報を教えていない。これまた、西老人の都合である。

P306 西老人とルイーゼが果たせなかった夢を実現させること
 私は「三つの恋の物語」の章でおとぎ話を根拠に結末の必然性を述べた。しかし、今や「西老人が自らの夢を実現させるためにおとぎ話は創作された」ことが判明した。この事実によって結末は一層の必然性を確保した。西老人がこの映画を構想した時、途中過程はともかく結末だけは絶対に決められていたに違いないからだ。この結末を得るために全ての構想が作られたと言っても良い。

P306 この重要な四つの場面全てに西老人が立ち会っている
 オープニングの部分を除くとこの四つの場面が西老人の登場場面の全てである。

P307 自分の青春に痛恨の悔いを残すおじさん達の、若い人々への一種の挑発
 『劇場パンフレット』でこの文章を読んだ人はおそらく「おじさん達」が宮崎自身を指していると思ったのではなかろうか。それは正しいが、本論に示したとおり、この「おじさん達」は映画自体の中に登場している。小作者である西老人はもちろんだが、彼が創作した靖也・朝子の青春にも「痛恨」があったのだ。

P307 当人達の名前がない。
 映画自体では西老人の名前は判るが両親の名前は判らない。ただし、英文字幕では家族会議中に「Seiya」「Asako」と判る。少なくとも英文字幕は大作者レベルで作成されていることになる(字幕制作の責任が誰にあるのかどうしても判らないが)。西老人は関わっていない。仮にドイツ語に詳しい彼が関わっていたならば、男爵の名前を"Jechingen"などというとんでもない綴りにしたはずがない。

 『絵コンテ全集10』の末尾の「STAFF & CAST」には両親の名前が出ているが、映画のエンディングでは声優の名前のみで登場人物の名前は一切出ていない。
 映画の中で登場人物の名前がどの程度明らかになるのかは興味深い。諸作品について列挙しておく。これは補助資料ではなく映画自体の情報のみに限定する。

 

風の谷のナウシカ』 エンディングは声優のみで人物名なし。映画内で確認される順に挙げると、
 ユパ・ナウシカ・ジル・ミト・トエト・ゴル・ラステル・クロトワ・クシャナ・アスベル
天空の城ラピュタ』 オープニングは声優のみ。エンディングで名前が判るのは次の人々。
 パズー・シータ・ドーラ・ムスカ・ポム・シャルル・ルイ・アンリ・マッジ
 このうち、アンリだけは映画の科白に出てこない。タイガーモス号とゴリアテは科白で判るがオーニソプターは出てこない。
となりのトトロ』 エンディングは声優のみで人物名なし。映画内で確認される順に挙げると、
 メイ・草壁・サツキ・カンタ・みっちゃん・タツオ(電報で判る)。科白で判るまっくろくろすけ、ことススワタリとトトロも含められる。
魔女の宅急便』 エンディングは声優のみで人物名なし。映画内で確認される順に挙げると、
 コキリ・ジジ・キキ・ドーラ・オキノ・トンボ・オソノ・ケット・ミキ・バーサ・コポリ
 ウルスラの名前が判らないのが意外。町の名前コリコはたった一こま。探しがいがある。
紅の豚』 この作品以降、オープニング・クレジットがない。エンディングで判る人物名は次の通り。
 ポルコ・ロッソ、マダム・ジーナ、ピッコロ、フィオ・ピッコロ、カーチス
 ポルコは新聞では”Porcellino Rosso”と表記されている。ポルチェリーノは子豚のこと。ピッコロ一族のばあちゃんもこう呼んでいた。ポルコの本名マルコ・パゴットはジーナとフィオの科白に出てくる。空賊連合に対抗するパイロット二人はシニョール・バラッカとヴィスコンティ中尉。ピッコロ一族はモニカ、シルヴァーナ、ソフィア、ラウラ、コンスタンス、ヴァレンティーナ、ジリオラ、サンドラ、マリエッタ、マリア、ティア、アンナ、ミレッタ。旧友フェラーリンがクレジットに出ないのは少し意外か。ジーナの最初の夫はベルリーニ。カーチスの名前はドナルド。この映画はとにかく名前が多い。
もののけ姫』 オープニングなし。エンディングで判る人物名・神名は次の通り。
 アシタカ・サン・エボシ御前・ジコ坊・甲六・ゴンザ・トキ・モロ・ヒイさま・乙事主
 後はナゴの神・シシ神・デイダラボッチ・カヤ・キヨくらいか。カヤならサンと一緒に名前を出しても良かろうに。
千と千尋の神隠し』 オープニングなし。エンディングでは次の通りだが、名前なのかどうか判然としないものが多い。
 千尋・ハク・湯婆々・銭婆・青蛙・坊・リン・番台蛙・河の神・父役・兄役・釜爺
 映画内で判るのはクサレ神・カオナシと春日さまくらい。おしらさま・おおとりさま・すすわたり(釜ジイは「ちびども」と言っていた)は判らない。従業員札に名前が沢山あるが誰なのか特定出来ない。
ハウルの動く城』 オープニングなし。エンディングでは次の通り。
 ソフィー・ハウル・荒地の魔女(これは名前か?)・カルシファー・マルクル・カブ・ヒン・サリマン
 あと小姓(どの小姓だろう?)と国王があるけれどもこれは名前とは言えない。
 映画内ではレティーのみ。母親ハニーは出てこない。

P307 『劇場パンフレット』の作成に西老人は関与した形跡がない
 このことは英文タイトルの扱いではっきり判る。

P309 『劇場パンフレット』ではとうとう本体から排除されてしまったのだ。
 「はじめに」で『プレス・シート』と『劇場パンフレット』に相違があると述べておいた。この英文タイトルの扱いが最も異なる点である。
 『プレス・シート』『公開新聞告知』『劇場パンフレット』の公開日付は本論に書いた通りだが、実際の制作はいつ頃だろう。『スタジオジブリ作品関連資料集X』所収の『宣伝会議資料』(1995.5の日付がある)によれば、『プレス・シート』は四月には出来ていたようだが、後の二つについては書かれていない。少なくとも『プレス・シート』が一番先に作られたと考えて良い。

本論では省略したが、予告編やプロモーション・フィルムの類にも英文タイトルは出てこない。
 付け加えると字幕制作者同様、この英文タイトルの発案者も不明である。どなたかご教示頂けるとありがたい

P309 欧文タイトルが公表されたもの
 ここだけ「英文タイトル」となっていないので奇異に感じた人もいたかもしれない。実は私も最初は「英文タイトル」と書いていた。しかし、ここに紹介した四つのタイトルのうち、英語は"LAPUTA"と"KIKI'S Delivery Service"の二つだけで、"NAUSIKAÄ"はギリシア語(のラテン文字表記、ギリシア文字ならναυσικαとなる。Äは長母音記号なので正確にはナウシカーである)だし、"Porco Rosso"はイタリア語だった。"LAPUTA"も英語っぽくないがこれはスウィフトの造語だから仕方がない。自分にも英語汚染が及んでいたかと思うと慚愧に耐えない。最終校正直前に気が付いて慌てて書き換えた。冷や汗ものである。

P309 英文タイトルは大作者のものではない。
 『スタジオジブリ作品関連資料集X』の中に一九九五年九月に出た「月刊COMIC BOX」の特集記事が掲載されている。ここでは英文タイトルが堂々と掲げられているから不審に思った人もいるかもしれないが、その必要はない。これはあくまで制作者の姿勢の問題だからだ。「月刊COMIC BOX」の特集はスタジオジブリの企画ではないからその資料性格が異なっている。本論でこのことに触れなかったのはそのためだ。私が知りたかったのは制作者の考えであって周囲の人間の錯覚ではない。

P311 アッシジ(Assisi)、ウルビーノ(Urbino)などを想定しているのだろう。
 イタリアの山岳都市の伝統は古代エトルリア人に発する。彼らはどういう訳か山の斜面にしか都市を建設していない。このことについては塩野七生著『ローマ人の物語』第一巻「ローマは一日にして成らず」(新潮社 一九九二)を参照のこと。私は自分が実見した都市二つを紹介しておいたが、シエーナ(Siena)も挙げておこう。
 アッシジはイタリアの聖地。アッシジのフランチェスコ(Francesco d'Assisi 1181?-1226)の生誕地である。ウルビーノはアッシジやシエーナほど有名ではないが、ルネサンス時代の傭兵隊長として知られたフェデリーコ・モンテフェルトロ(Federico Montefertlo 1444-1482)が建設した都市である。派手な建物は一切なく、しっとりと落ち着いた居心地の良い町である。フェデリーコは芸術保護者としても知られていて、その収集品が町の美術館に展示されている。彼についてはブルクハルト著『イタリア・ルネサンスの文化』(中公文庫)を参照のこと。

P311 ドイツによく見られる都市景観
 ドイツには何度か滞在しているが、写真も撮らない不精者の記憶だけでは当てにならないので、資料を探した。ドイツの町並みを映した写真集は幾つもあるが、私は「鉄道で行くドイツの町」(植村正春・編 グラフィック社)を参考にした。観光ガイド類でも充分であろう。ドイツの都市と川がいかに密接に結びついているかよく判る。
 ドイツにはドナウ(Donau)・ライン(Rhein)・エルベ(Elbe)の三大河とその支流が縦横に走っている。中世以来、これらの河川は重要な交通路だったため、沿岸に多くの都市が形成された。ドイツの有名な都市のほとんどが川沿いにある。本論では紹介しなかったが、ニュルンベルクやレーゲンスブルク(Regensburg)も捨てがたい魅力がある。
P311 ヴュルツブルク(Würzburg)がその代表的な都市である。
 『耳をすませば』の風景に類似するドイツの町を考えた時、真っ先に浮かんだのがヴュルツブルクだった。直感的にここだと確信した。他の町を色々調べた後でもその気持ちは変わっていない。
 ドイツの観光ガイドには必ず「ロマンチック街道」(Romantische Strasse)が載っている。ヴュルツブルクはその終着点(出発点)になっている。ドイツへ渡航する計画がある方は是非寄っていただきたい。マリーエンベルク要塞へ行くには市街からバスかトラムで橋を越え、後はひたすら坂を上がるのみ。かなりきついが、そこに待っている市街の景観は苦労の甲斐があると保証する。この街道のルートを紹介しておこう。
 Würzburg −Rothenburg ab der Tauber−Dinkelsbühl−Nördlingen−Augsburg−München
 AugsburgからFüssenへ抜ける別ルートもある。Füssenには有名なノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)城がある。

 『耳をすませば』の分析が全て終わったこの段階でし残したことにふれよう。それはルイーゼ、地球屋と"Country roads"第四稿の関係だ。
 考察の端緒は地球屋からの風景だ。私はこの風景とヴュルツブルクの風景の類似性を指摘した。しかし、考えてみると、ルイーゼと彼女を迎える地球屋そのものはテュービンゲンを指し示している。地球屋の風景はテュービンゲンの風景と類似していないと首尾一貫しない。この食い違いはなぜ生じたのだろう。
 西老人がルイーゼと出会った町、男爵がおかれていたカフェがあった町がテュービンゲンであったことは間違いない。又、ルイーゼがテュービンゲンに住んでいたことも疑う材料はない。でありながら、西老人は地球屋をヴュルツブルクに類似する風景のある場所を選んで建てた。思いつく最も有力な理由は「ヴュルツブルクはルイーゼの生まれ故郷である」場合だろう。西老人が語った内容では、戦後に彼が探した町はテュービンゲンのみとしか受け取れないので、ルイーゼが当時、故郷と繋がりがあったとは思えない。しかし、西老人が地球屋の立地条件としてルイーゼの故郷との類似を理由にしてもおかしくはない。
 こうして「ルイーゼの故郷」という問題が浮かび上がってきた。そこで『雫=ルイーゼ』を媒介にして両者を対応させてみる。
   雫     … (故郷)地球屋
   ルイーゼ … (故郷)ヴュルツブルク

 ここにも入れ子型の二重構造が見いだせる。「地球屋=ヴュルツブルク」の関係に注目しよう。この関係に留意することによって、"Country roads"第四稿に新しい視点が持ち込まれる。雫はルイーゼなのだから"Country roads"をルイーゼの視点で見てもかまわないのだ。第四稿の「あの町」=「ルイーゼの故郷」=「ヴュルツブルク」となる。この場合、町の風景の描写が少なくても支障がない。ルイーゼの故郷の記憶が薄くなっていたとしても不思議がないからだ。西老人が「ふるさと」を主題にした時、ルイーゼと雫の二人の故郷を二重写しに見ていたのであろう。西老人はルイーゼを失った町テュービンゲンではなく、ルイーゼが生を受けた町ヴュルツブルクを自分の「心の故郷」としていたのだ。
 P274の注で第四稿に雫と聖司の視点が重ねられていると指摘したが、さらにルイーゼと西老人の視点も重ねられることになった。これも入れ子型故の離れ業であろうか。
とはいえ、ここまで来ると妄想と言われても仕方がない所ではある。
P311 ザルツブルク(Salzburg)
 モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の生誕地として著名な都市。現在でも毎年、ザルツブルク音楽祭が開催され、モーツァルト・シンポジウムも主にこの都市で行われている。夏は日本人観光客が多く、ちょっと足を向けるのをためらってしまう。でもここは緑柱石の産地だから行く意味はありそう。

あとがき
P316 「源氏物語」や「古事記」の研究書で学んだ方法を応用した
 たとえば、「源氏物語」の場合、全五四帖の年月の確定は江戸初期の段階で既に出来上がっている(講談社学術文庫の「湖月抄」を参照のこと)。物語の中の文章を細かく読みとって時間の流れを構成していくのだ。紫上の死亡年齢が四三歳であることもそうした研究の結果なのだ。「古事記」の場合、各天皇の崩年干支の研究がある。「日本書紀」との相違や暦の研究やら現在まで定説はない。私が本論で大真面目に日付を論じたのもこれらと全く同じ事なのだ(「日本暦日原典」内田正男編著 雄山閣 参照)。
 「古事記」の物語の中には非現実的なものが数多く含まれている。その中から現実的な歴史を抽出する努力は現在でも続けられている(古田武彦「盗まれた神話」他多数)。私がセッションで行ったことは文学歴史の研究では当たり前のことなのだ。
P316 「テキスト」として捉えれば同じことである。
 そうは言っても相違があるのも事実である。少し考察しておきたい。
 映画と文学における最も大きな違いは人物の内面描写であろう。現代文学では基本的に「神の視点」が廃されているから登場人物すべての内面を描写することは出来ないが、少なくとも一人は内面を知ることが出来る。しかし、映画ではどの登場人物の内面も知ることが出来ない。常に間接的な表現しか使えない。身体的表情・仕草・BGM・画面構成・科白、どれも直接的なものはない。映画の登場人物は常に内面の空虚さ、底知れなさを抱え込んでいる。
 科白が一番直接性が高いとはいえ、その人物が内面を正確に話している根拠を私達は決して得ることが出来ない。映画には科白が内面と一致するなどという約束事は存在しないからだ。事実、行動が科白を裏切ることで展開の意外性が生まれる手法は多く用いられている。
 『耳をすませば』においても事情は同じである。雫はいつ聖司に恋をしたのか?雫の内面を知るすべがない以上、間接的な情報によって推測する他に手だてがない。たとえ、科白で語られてもそればかりを信用することは出来ない。映画における人間描写には必ずこうした不確かさが付きまとっていることを知るべきだろう。どうしても内面を伝える必要があるならば、主人公の語りを導入するか(ジブリ作品では『おもひでぽろぽろ』『海が聞こえる』)、登場人物の夢や錯覚を画面で描く方法がある。
 次の大きな違いは映画は決して「神の視線」を排除出来ないことだ。「神の視線」とはカメラワークのことである。カメラの視線は時に登場人物の視線と重なることもあるが、大抵は映画内の誰のものでもない。月島家の居間を映すベランダからの視線は登場人物の誰の視線とも一致しない。
 文学においても「地の文」という特殊な視線がある。源氏物語の「草子地」などがそれに当たる。しかし、この視線はほとんど舞台裏に隠れていて、そう頻繁に顔を出さない。多くは登場人物の誰かの視線で物語は進行する。映画は全く逆に全編「草子地」で構成されているようなものだ。作者の視線が全体を支配している。映像内の世界は常にその外側の世界から見られている。映画とは初めからメタ構造を抱え込んだ表現手段なのだ。
 映画の持つ二つの特性は面白いことに探偵小説の特性でもある。探偵小説はその構造からして登場人物の内面を描くことが出来ない。探偵や犯人の内面を知ってしまったら、物語が終わってしまう。そして、探偵小説は作者を消すことが出来ない。なぜなら、謎を作り出す犯人とは作者に他ならないからだ。犯人がいなければ、探偵小説は始めることが出来ない。作者を抱え込んだ構造とは当然メタ構造である。
 映画作品になぜ推理ものやサスペンスものが多いのか。ここにその原因の一つがある。映画では登場人物は常に内面が判らない謎である。一人の人間がじっといるだけで十分にサスペンスが成立する。
 しかし、両者に相違する面も無視出来ない。探偵小説には「探偵」という読者の視線が存在する。読者は探偵と一体化しながら、作者=犯人が提示する謎に挑戦していく。ところが、映画では作者の視線は観客の視線と一致してしまう。観客は作者が見せようとするカメラアングルから逃れることが出来ない。ここでは探偵小説とは違い、「犯人」と「探偵」の共犯関係が成立している。
 『耳をすませば』の制作者は以上の映画の特性を自覚的に理解した上でこの映画を制作している。この映画の構造はそれなくして生み出せるものではない。観客はカメラの視線をごく当たり前に制作者の視線だと思ってしまう。しかし、映画の中で「この視線は〜のものです」などと断り書きがあるわけではない。あくまで暗黙の了解事項なのだ。この映画はその暗黙の了解を逆手にとって観客に罠を仕掛けている。この映画のカメラはすべて小作者の視線なのだ。こう考えることによって、男爵と「かなしみ」の関係、雫の「ふるさと」と地球屋の関係を画面で構成することが合理的に解決出来る。
 私は同じ「テキスト」と言ったが、分析手法まで同じになるとは思っていない。「テキスト」が持つ性格を把握しなければ、手法を適切に選択することは出来ない。本論の方法はまず作者との共犯関係を断ち切るところから始まった。作者と同じ視線に止まることなく、別の視線として作者が映画の中に込めた情報を読み解こうとした。すべての映像テキストに通用するかどうか判らないが、この映画には必要だったと考えている。

P316 議論の妥当性
 テキストを分析する以上、テキストの多義性を無視出来ない。一つの場面、登場人物の表情、どれも絶対確実な解釈は出来ない。だから、分析をテキストから離さずに行うには、可能な限り複数の情報に基づいて行う必要がある。私はセッションの即興性を否定するのに七つの根拠を挙げた。私自身がどんなに確信していることでも説得力を持たせるにはそれだけの必要性があったのだ。
 感覚的な意見ならいくらでも出来る。しかし、それをいくつ積み上げても文章にしても他者が受け入れるものには成り得ない。同時に拒否することも出来ない。なぜなら、感覚には反論しようがないからだ。反対する術がない。私が根拠にこだわるのは読者に納得してもらいたいためだが、反対してもらうためでもある。
 『耳をすませば』には残念ながらこれまで議論の土台となる著述が存在しなかった。私の見たHPでそうした試みを行っているものもあるが、映画自体が何なのかを追求したものはなかった。それにHPは何と言っても「匿名」である。著者の顔も名前も存在しない。責任主体がない文章は参考に出来たとしても「引用」することすら出来ない。公の議論の対象にはなれないのだ(実名が公表されているものはもちろん使用出来る)。
 本論の出版に当たってペンネームを使うことも考えたのだがやめることにした。所詮一無名氏に過ぎない私だが、「匿名」は避けた。どれほどの人が読んでくれるのかさっぱり判らないが責任主体を明確にしておくのが読者への礼儀だと考えたからだ。

P316 『耳をすませば』はスタジオジブリの作品群の中では比較的論ぜられることが少ない。
 映画という媒体は監督や役者(アニメならば声優)の人気にかなり左右される。「監督」宮崎、「監督」高畑の力は非常に強いだ。それに比べると『耳をすませば』は宮崎が関与しているとはいえ、あくまで「監督」近藤の作品なのだ。宮崎自身もこの作品は「近ちゃんの作品」と言い、自分にとって「あくまで傍流」と位置づけている。この作品の評論が少ないのはそのあたりの事情がある。
 作品は一度公開されてしまえば、作者の手を離れる。後は作品自身が自分を語り始める。その語るものを捉えられるかどうかは観る者に委ねられているのだ。その時、評論する側の人間が作者に寄りかかっていては意味がない。評論が自立するためには作者ではなく作品を見なければならない。
 私は一介の素人である。加えて、「監督」宮崎の作品も好きな一人である。であるにもかかわらず何故『耳をすませば』なのか。自分にとって思考する価値を持つかどうか、それ以外にない。その時、監督が誰かは考慮外なのだ。
 こう言うと変に思うかもしれないが、作品自体は積極的な意味を持っていない。文学と違って映画は音楽同様に時間進行による芸術だから、何も考えなくても観ることが出来る。表面的な展開で満足するのでは娯楽に過ぎない。それで楽しければそれでも良いが、意味を作り出すためには観る者の主体的な参加と問題意識が必要だ。本当に意味を作り出す行為は観る側が行うのだ。求めなければ、何も得ることは出来ない。優れた作品とは意味を求める者に豊穣な源泉を与えてくれるものなのだ。
P317 作品全体を整合性をもって解釈しうる
 「はじめに」で述べておいたように本論は基礎固めに当たる。作品論はこれを土台にして始まる。この作品を論ずる者は雫や聖司を直接的に見るのではなく、西老人を媒介にしなければならないし、形式論や構造論もなし得るだろう。
 私はこの映画が与えてくれる情報をひたすら愚直に読みとろうとした。情報の意味を読みとるために幾多の知識を動員したことは事実だがあくまで直接的な知識しか使用しなかった。それらは誰でも知ろうと思えば知ることが出来るものに限られている。そうして得られた情報に基づいて「セッション」の意味を得、『雫=ルイーゼ』を見出し、小作者西老人の存在を知ったのだ。全ての情報はあたかもジグソーパズルのピースの様にきれいにはめ込まれた。この結果には正直、私自身が驚いている。これが制作者と無関係だったとは到底考えることが出来ない。もとより、本論の議論の責任は全て私にある。どこまでが制作者の意図した部分なのか、どこから映画そのものが語り始めたものなのか、私には判らない。それに私が考えることではない。本論を読んでくれた人はどう思われただろうか。
 文学研究を例に採れば一目瞭然だが、ある作品を分析考察することは作者とは無関係なのだ。大体、多くの作者が他界していて直接本人に確認しようがない。作者が不明の場合だってある。存命の場合でも自分の分析結果をいちいち作者にご意見伺いしていてはお話にならないし、作者も迷惑だろう。作者が作品について言及した情報は大事にすべきだが、それだけではどうしようもない。ただし、他人の作品を対象にしている以上、誠実さを失ってはいけない。作品を非難するとしても誠意を持って行うべき事だ。それだけは忘れてはならない。
P317 本論は私が探偵役を受け持った解決編
 今年の三月に出たばかりの「探偵小説論序説」(笠井潔 光文社)の中に興味深い一節を見つけたので紹介しよう。

「探偵が謎を発見する。むしろ創造する。これは探偵小説の根本的な構造なのだ。もしも探偵がいなければ、探偵小説は存在することができない。探偵とは読者であり、読者とは享受者(かっこ内略)なのだから。享受者とは、人間という存在それ自体である。探偵小説の読者は作品世界を探偵というキャラクターにおいて、読書体験の意味を、さらにいえば人間的経験の普遍的な意味をあらためて読みとる。(下略)」<P92>

 私はこの映画を一観賞者として観た。この映画に謎を発見する行為は探偵小説における探偵と同様の行為だったことになる。探偵小説では作中人物である探偵が読者に重ねられる。ここには構造的にメタレベルが存在するのだ。『耳をすませば』に見られる重層的なメタ構造は探偵小説と全く変わらない。その構造の亀裂に読者(観客)が介入するとき、更に上位のメタレベルが構築される。まさに探偵が登場するのだ。

 おまけですが、この映画はアニメの主人公高齢記録を大幅に更新した記念すべき作品です。この記録は今後破られることはないでしょう。…と思ったら、「千年女優」の主人公藤原千代子(七六歳)に肉薄されていた。アブナイアブナイ。
ところでソフィーは何歳と見るべきでしょうかね?
カヴァー裏
ヴュルツブルク
 花咲さんから送られた二枚の写真の一つ。この写真は我が家のパソコンの壁紙にも使っている。本を手に取った時、一瞬多摩丘陵の写真と錯覚した人もいたのではなかろうか(だったら大成功だ)。そんないたづら心から、写真が入手出来た時点で、説明も何もなしに裏表紙に使おうと決めていた。題名もそうだが、本論を読まない限り、『耳をすませば』とこの写真の関係は判らない。私好みの思わせぶりな表紙が出来た。こういう趣向は好きである。実はこのホームページにも本論と関係するあるものが少し隠してあるのだが気が付かれただろうか。
本文訂正

製本が上がってから読み返してみて訂正すべき箇所があったのでここに載せておく。

◎ST1「丘の」 → ST1「丘の
 我ながらどうしてこんな錯覚をしていたのか判らない。気が付いた時には真っ青になった。引用は厳密になどとうたっておきながらこのていたらくでは看板倒れもいいところだ。お恥ずかしい次第。人間とは、一旦そう思いこむとあるものが見えなくなるものだとつくづく思い知らされた。

◎P162「強く関心持ったこと」 → 「強く関心持ったこと」
 誤植訂正漏れです。

◎P216「疎かにる癖」 → 「疎かにる癖」
 誤植訂正漏れです。

◎P287「大塚康」 → 「大塚康
 誤植のように不自然さがないので校正段階では発見が難しい。とはいえ、大塚氏には大変失礼なことをしてしまった。深くお詫びする。

 今のところ、これだけしか見つけていないがもし発見された方はご一報下さい。